稲吉 正樹(いなよしまさき、1969年 - )は日本の実業家… 稲吉 正樹(いなよしまさき、1969年 - )は日本の実業家。NOVAホールディングスの代表取締役社長兼オーナー(約80%の株式を保有)。ジー・コミュニケーションの創業者で元オーナー。 愛知県蒲郡市出身。愛知学院大学文学部卒業後、そば店を営む親から勧められて蒲郡市役所に就職。3年間公務員として勤務した後、「自分にはもっと何かできることがあるのではないか」という想いと、学生時代の家庭教師のアルバイト代よりも少ない手取りを考え起業を決意して辞職。1994年、25歳で個別指導塾「がんばる学園」を愛知県岡崎市に創業。アルバイトの講師がフランチャイジーを希望したためFC化により校舎数が拡大。2000年には居酒屋を店舗ごと引き受けて外食産業に進出し、外食事業もFCにより拡大していく。
近藤 晴貞(こんどう はるさだ、1952年10月26日 - … 近藤 晴貞(こんどう はるさだ、1952年10月26日 - )は、日本の一級建築士、実業家。西松建設代表取締役社長、同社取締役会長、全国建設業協会会長などを務めた。 愛知県蒲郡市生まれ。蒲郡市立塩津中学校、愛知県立時習館高等学校を経て、1978年東京工業大学大学院総合理工学研究科社会開発工学専攻修了、西松建設入社。一級建築士でもあり、建築畑を歩み、2005年取締役関東支店長代理に昇格。2008年取締役常務執行役員関東支店長。2009年から代表取締役社長を務め、西松建設事件を受け経営刷新を進めた。2012年東京建設業協会会長。2014年全国建設業協会会長。2018年西松建設取締役会長。2023年、旭日重光章受章。
大場 栄(おおば さかえ、1914年〈大正3年〉3月21日 … 大場 栄(おおば さかえ、1914年〈大正3年〉3月21日 - 1992年〈平成4年〉6月8日) は、大日本帝国陸軍軍人、実業家、政治家。最終階級は大尉。有限会社丸栄産業代表取締役、蒲郡市議会議員。愛知県蒲郡市出身。 大場と大場隊の活躍は、元アメリカ合衆国海兵隊隊員ドン・ジョーンズ著の『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日(原題『OBA, THE LAST SAMURAI Saipan 1944-1945』)』(1982年刊行。中村定訳、祥伝社)としてノンフィクション小説となった。 2011年(平成23年)にはそれを原作とする映画『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』(監督・平山秀幸)が公開され、竹野内豊が大場役を演じた。
大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月… 大橋 武夫(おおはし たけお、1906年(明治39年)11月18日 - 1987年(昭和62年)7月13日)は、日本の陸軍軍人、実業家、経営評論家。 軍人として第53軍参謀・東部軍参謀等を務め、階級は陸軍中佐に至る。戦後東洋精密工業社長、同社相談役や偕行社副会長を歴任する。愛知県蒲郡市出身。 明治39年11月陸軍中佐大橋崧次郎の四男として生まれ、愛知四中・名古屋陸軍幼年学校・陸軍士官学校予科を経て昭和2年7月19日に陸軍士官学校を卒業。同年10月25日、陸軍砲兵少尉に任官され、野戦重砲兵第2連隊附を命ぜられる。士官候補生第39期の大橋の同期には陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、関東軍作戦主任参謀の草地貞吾大佐がいる。
松山 英夫(まつやま ひでお、1906年3月27日 - 19… 松山 英夫(まつやま ひでお、1906年3月27日 - 1986年4月11日)は、日本の映画プロデューサー、実業家である。マキノトーキー製作所企画部長、大映専務取締役、ダイニチ映配取締役社長を歴任した。和製英語「ゴールデンウィーク」と「シルバーウィーク」の名付け親として知られる。 1906年(明治39年)3月27日、愛知県宝飯郡蒲郡町(現在の同県蒲郡市)に生まれる。 1928年(昭和3年)、関西学院を卒業する。 満29歳であった1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに入社して「企画部長」に就任、翌年1936年(昭和11年)1月、同社の陣容を発表した際に名を連ね、同部のメンバーには岡本潤、中川信夫、坂田重則らがいた。
三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明… 三浦 万太郎(みうら まんたろう、三浦萬太郎、1869年〈明治2年〉2月25日 - 1935年〈昭和10年〉7月)は、宝飯郡形原村(現・蒲郡市)出身の眼科医・実業家。妻は東三河地方初の女医である三浦こう。 1869年(明治2年)2月25日に宝飯郡形原村(現・愛知県蒲郡市)に生まれた。旧制宝飯中学校を卒業すると、1890年(明治23年)に医術開業試験に合格し、順天堂医院の佐藤泰然博士や須田博士に師事した。東京ではスワン石鹸会社を設立するなどしている。 やがて故郷の形原村に戻ると村岡こうと結婚し、1892年(明治25年)には形原村に三浦こうとともに愛明堂医院を開業した。三浦こうの義兄である小川平吉が鉄道大臣となると、奥飛騨温泉郷の平湯温泉の開発に尽力したが、平湯温泉への鉄道の敷設は実現しなかった。