中貝 宗治(なかがい むねはる、1954年(昭和29年)11… 中貝 宗治(なかがい むねはる、1954年(昭和29年)11月4日 - )は、日本の政治家。兵庫県豊岡市出身。兵庫県職員、兵庫県議会議員を経て豊岡市長(5期)を務めた。山陰海岸ジオパーク推進協議会会長。 兵庫県豊岡市下宮で生まれる。豊岡南中学校・兵庫県立豊岡高等学校・京都大学法学部を卒業後、兵庫県庁に入庁し、兵庫県職員となり、兵庫県議会議員を3期務めたのち2001年に退職。 2000年には『鸛(こうのとり)飛ぶ夢』を執筆するなどコウノトリに懸ける思いは強く、2001年に市長に転身してからは、コウノトリの野生復帰をシンボルにしたまちづくりに取り組んでいる。「コウノトリも住める 豊かな自然環境や文化環境の創造は、人間にとってもすばらしいものに違いない」の信念のもと官民一体となった「コウノトリ育む農法(2003年)」、「子供野生復帰大作戦」、「豊岡市環境経済戦略(2005年)」など独自の政策を推進している。
吉岡 賢治(よしおか けんじ、1938年3月5日 - 202… 吉岡 賢治(よしおか けんじ、1938年3月5日 - 2025年2月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(通算2期)。 兵庫県豊岡市出身。兵庫県立豊岡高等学校卒業。神戸大学電気電子工学科卒業。 電電公社(現在のNTT)に入社し、豊岡局に勤務しつつ、労組活動に入る。 1986年の第38回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧兵庫5区から出馬するが落選。1990年の第39回衆議院議員総選挙に再び出馬し初当選。以後2期連続当選。 議員在任中は外務委員などを務める。本岡昭次参議院議員らと共に自社さ連立政権反対派として知られた。1994年に土肥隆一と共に日本社会党を離党し、民主改革連合に入党。 1996年の第41回衆議院議員総選挙では民主改革連合公認及び連合・五党協議会統一候補として兵庫5区より出馬するも落選。
甲斐中 文治郎(かいなか ぶんじろう、1898年(明治31年… 甲斐中 文治郎(かいなか ぶんじろう、1898年(明治31年)1月17日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員 (1期) を務めた。 兵庫県城崎郡五荘村(現・豊岡市)栃江に生まれる。苦学の末、弁護士となり、内務省嘱託や斎藤隆夫の秘書になった。1947年五荘村長に就任、1950年に合併による豊岡市発足まで務めた。斎藤隆夫の死(1949年)を受けて地盤を受け継ぎ、1952年の第25回衆議院議員総選挙において兵庫5区から自由党公認で出馬して初当選。1953年の第26回衆議院議員総選挙で落選。1958年の豊岡市長選では現職の佐川辰夫に敗れた。
小林 篤一(こばやし とくいち、1890年(明治23年)11… 小林 篤一(こばやし とくいち、1890年(明治23年)11月5日 - 1972年(昭和47年)11月23日)は、大正・昭和期の産業組合活動家、政治家。参議院議員(1期)。ホクレン農業協同組合連合会の創立者とされる。 兵庫県城崎郡、のちの日高町(現豊岡市)で生まれる。8歳で北海道に移住し、現在の岩見沢市峰延町で農業を営む。1914年(大正3年)峰延産業組合(現峰延農業協同組合)を設立し理事に就任し、組合長を30年務めた。1919年(大正8年)北海道信用購買販賣組合聯合會(北聯、現ホクレン農業協同組合連合会)を設立し理事に就任。1936年(昭和11年)北聯会長に就任。北海道食糧営団理事長、同農業会長、同青果物配給公社社長、北海道販売農協連会長、道購買農協連合会会長、道農協中央会会長、全販連理事、全購連理事などを歴任。
友田 一郎(ともだ いちろう、1888年〈明治21年〉11月… 友田 一郎(ともだ いちろう、1888年〈明治21年〉11月24日 - 1966年〈昭和41年〉7月13日)は、日本の政治家、実業家、友田酒造工場主。第46代兵庫県会議長。外交官の弟・友田二郎の孫に憲仁親王妃久子がいる。 兵庫県城崎郡日高町江原(現・豊岡市)出身。友田俊蔵の長男。1920年、家督を相続した。但馬銀行、甲子銀行各監査役などをつとめた。兵庫県参事会員であった。 兵庫県会議員に推され、1943年12月から1944年12月まで兵庫県会議長を務める。住所は兵庫県城崎郡日高町江原(現・豊岡市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
西村 佐兵衛(にしむら さへい、1882年〈明治15年〉1月… 西村 佐兵衛(にしむら さへい、1882年〈明治15年〉1月15日 - 1963年〈昭和38年〉10月12日)は、日本の政治家(兵庫県城崎郡城崎町長)、実業家(西村屋会長)。 兵庫県城崎郡城崎町(現豊岡市)出身。東京専門学校(現早稲田大学)に学び、中途にて退学し家業の温泉旅館を経営する。地方有力者として各種の業務に関係する。1924年、町長に選任され震災後の城崎温泉復興に尽力。 1912年、早稲田大学推薦校友。宗教は日蓮宗。住所は兵庫県城崎郡城崎町。著書に『山陰空のあゆみ』、『日本海制空小史』、『建武中興と隠岐』などがある。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
4代 吉村 伊助(よしむら いすけ、1873年1月23日 -… 4代 吉村 伊助(よしむら いすけ、1873年1月23日 - 1928年3月15日)は、兵庫県城崎郡日高村(現・豊岡市)出身の実業家・政治家。株式会社吉村商店を設立して縮緬(丹後ちりめん)製造業を営み、峰山町長や衆議院議員(2期)を務めた。 1873年(明治6年)1月、兵庫県城崎郡日高村(現・豊岡市)の太田治右衛門の二男として生まれた。幼名は新太郎。1880年(明治15年)2月13日生まれとされることもあり、京都府出身とされることもある。長兄の太田寿之助は江原銀行株式会社専務取締役などを務めている。 小学校卒業後に京都市の西本願寺経営学校で学んだ。高等商業学校(後の旧制東京商科大学、現・一橋大学)を卒業したとされることもある。
森本 駿(もりもと しゅん、1859年1月18日(安政5年1… 森本 駿(もりもと しゅん、1859年1月18日(安政5年12月15日)- 1944年(昭和19年)10月17日)は、明治から昭和前期の実業家・政治家。衆議院議員、兵庫県出石郡出石町長。旧姓は永井、桜井(櫻井)。 但馬国出石郡出石城下(兵庫県出石郡出石町を経て現豊岡市出石町)で、出石藩侍医・永井玄機(春嶽)の二男として生まれる。藩校弘道館で漢学を修めた。その後、東京に遊学し尺振八の塾で英学、経済学、財政学を修めた。のち森本家の養子となり、1898年(明治31年)1月に家督を相続した。 豊岡洋学校で助教を務めた。上京して桜井勉の書生となる。大蔵属に任じられ、科目条例取調委員、各庁営繕規則取調委員などを務めた。
松田 学(松田 學、まつだ まなぶ / がく、1856年9月… 松田 学(松田 學、まつだ まなぶ / がく、1856年9月17日(安政3年8月19日)- 1938年(昭和13年)1月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、札幌市会議長。 但馬国出石郡水上村(現兵庫県豊岡市)で、庄屋・松田甚次郎の長男として生まれる。 1881年6月、徳島県属に任じられ、以後、大蔵省属、根室県収税属、北海道庁属を歴任し、1891年に退官。実業に従事した後、1897年、北海道庁属に再任され、さらに台湾総督府新竹県属、台北県属を務め、1898年に退官した。 その後、札幌に移り、実業界に入った。1907年、札幌木材 (株) 取締役に就任。以後、札幌調帯 (株) 取締役社長、定山渓鉄道 (株) 取締役社長、札幌商業会議所第3代会頭などを歴任。
青木 匡(あおき ただす、1856年(安政3年9月) - 没… 青木 匡(あおき ただす、1856年(安政3年9月) - 没年不明)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。明治時代前期の政治結社「嚶鳴社」の主要メンバー。森鷗外による史伝小説の第一作「渋江抽斎」の一節にも登場する。 但馬国出石郡、現在の兵庫県豊岡市出身。私学校の教師となり、長野県で新聞社を興す。東京市会議員、東京府会議員、毎日新聞記者、大日本監獄協議会議員、本郷区衛生会幹事となる。 1878年(明治11年)に、青木匡訳の『政体論』で、Individualを「一個人」という言葉で訳した。1884年(明治17年)に文部省の訳ではじめて「個人」となる。日本語の「個人」という言葉は江戸時代にはみられなかった。
富田 仙助(冨田、とみた せんすけ、1855年12月31日(… 富田 仙助(冨田、とみた せんすけ、1855年12月31日(安政2年11月23日) - 1913年(大正2年)9月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 但馬国城崎郡豊岡内小井田町(のち兵庫県城崎郡豊岡町、現・豊岡市)に生まれる。漢学を学ぶ。酒造業と貿易業を営む。豊岡町戸長、豊岡町長を経て、城崎郡会議員となる。また、日本赤十字社終身社員に推薦された。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において兵庫9区から進歩党公認で立候補して初当選。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党から出馬して再選を果たした。1902年の第7回衆議院議員総選挙では兵庫県郡部で憲政本党から立候補したが落選した。
濱尾 新(はまお あらた、1849年5月12日〈嘉永2年4月… 濱尾 新(はまお あらた、1849年5月12日〈嘉永2年4月20日〉- 1925年〈大正14年〉9月25日)は、日本の文部官僚、政治家。旧豊岡藩士。位階勲等爵位は従一位勲一等子爵。 文部省専門学務局長、元老院議官、第8代東京帝国大学総長、文部大臣、高等教育会議議長、東宮大夫、貴族院議員、枢密顧問官、枢密院副議長・議長、内大臣を歴任した。 嘉永2年4月20日(グレゴリオ暦1849年5月12日)、但馬豊岡藩士・濱尾嘉平治の子として、豊岡(現在の兵庫県豊岡市)に生まれる。初名は貞次郎。 1869年(明治2年)9月に藩費遊学制度により、21歳で芝新銭座慶應義塾(現在の慶應義塾大学)に入学する。同窓に、中上川彦次郎、村尾真一、吉村寅太郎、矢野文雄、藤野善蔵、魔野巻蔵、秋山恒太郎、名児耶六都、小林雄七郎、城泉太郎、森下岩楠、坪井仙次郎、後藤牧太、鮫島武之助、日高壮之丞、近藤良薫、田尻稲次郎、穂積寅九郎、永田健助、中村貞吉など)慶應義塾に在学中、慶應義塾の派遣教員となって一時高島学校(藍謝堂)に赴任する。
桜井 勉(さくらい つとむ、天保14年9月13日〈1843年… 桜井 勉(さくらい つとむ、天保14年9月13日〈1843年10月6日〉 - 1931年〈昭和6年〉10月12日)は、明治時代の行政官、衆議院議員。日本の天気予報の創始者とされる。元出石藩士、維新後は徳島県、山梨県、台湾新竹県の各知事、神社局長などを務めた。 出石藩の儒官・桜井石門の長男として出石町伊木(現・兵庫県豊岡市)に生まれた。初名は「熊一」。1850年に藩校の弘道館に入門。その後、堀田省軒、芳野金陵、土井聱牙らの学者に学び、教養を深めた。 1870年に出石藩大参事となる。翌年には出石県権大参事となり出石県廃止後は松山県権大参事となる。明治新政府では内務に携わった。1873年に租税権助に就任。