稲川 竜汰(いながわ りゅうた、2004年2月25日 - )… 稲川 竜汰(いながわ りゅうた、2004年2月25日 - )は、山口県周南市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。 折尾愛真高校から九州共立大学に進学して、2025年ドラフト会議で2位指名を受けた。12月3日、契約金7000万円、年俸1200万円で入団に合意した(金額は推定)。背番号は13に決定した。 2026年は開幕一軍となり、4月1日、開幕5戦目の対東北楽天ゴールデンイーグルス2回戦(楽天モバイル)6-0とリードした9回裏先頭打者から4番手としてプロ初登板を果たしたものの、先頭の辰己涼介を四球で出すと、2度の暴投などで失点し、更に小郷裕哉にこの回2つ目の四球を与え二死一塁としたところで上茶谷大河と交代し降板、2/3回を2四球1失点に終わり、試合後、小久保裕紀監督は「稲川は抹消します。
藤谷 洸介(ふじたに こうすけ、1996年2月12日 - )… 藤谷 洸介(ふじたに こうすけ、1996年2月12日 - )は、山口県周南市出身の元プロ野球選手(投手、内野手)。右投右打。 周南市立福川中学校在学中に、校内の軟式野球で投手を中心にプレー。山口県立周防大島高等学校への進学後は二塁も守っていたが、2年時の夏からエースの座を確保した。打者としては、在学中の対外試合で15本塁打を記録。投手としては、長身から速球を投げ下ろす投球スタイルから「離島のダルビッシュ」と称された。3年夏の全国高等学校野球選手権山口大会では、山口県立新南陽高等学校との1回戦にNPB5球団のスカウトが集結していたが、先発で15球を投げたところで右肘を骨折したため降板。病院での応急措置を経て、右腕を包帯で吊った姿で球場へ戻ったものの、チームは初戦敗退を喫した。
片山 大樹(かたやま だいき、1975年2月24日 - )は… 片山 大樹(かたやま だいき、1975年2月24日 - )は、山口県徳山市(現:周南市)出身の元プロ野球選手(捕手)、プロ野球コーチ。 徳山商業高時代の2年春から捕手を務めつつ、外野手や投手も行う。遠投110m。高校通算36本塁打。 1992年のドラフト4位で阪神に入団。背番号は63。ウエスタン・リーグでは捕手のほか一塁手でも出場する。1997年ごろ長女が誕生。一軍経験がないまま2000年に引退した後、阪神でブルペン捕手を務める。 2022年5月1日、阪神一筋30年の人物として、NHK総合『サンデースポーツ』で特集された。 2025年からはブルペン捕手を兼任しながら一軍ブルペンコーチを務める。背番号は93。
椎木 匠(しいぎ たくみ、1971年7月25日 - )は、山… 椎木 匠(しいぎ たくみ、1971年7月25日 - )は、山口県徳山市(現:周南市)出身の元プロ野球選手(捕手、右投左打)、野球指導者。 中学時代は投手で山口県大会で優勝している。 南陽工業高校では2年間は内野手で出場し、3年の時に捕手へ転向する。1989年春季県大会決勝に進むが、桜ケ丘高に延長10回サヨナラ負け。 同年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。1995年に一軍に上がり、中村武志の控えではあるが、11試合に先発マスクを被る。1997年オフに無償トレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍。1998年には吉鶴憲治、清水将海と正捕手を争い、23試合に先発出場。その後も一軍で起用されるが、打撃面の弱さもあってレギュラーには届かなかった。
津田 恒実(つだ つねみ、1960年8月1日 - 1993年… 津田 恒実(つだ つねみ、1960年8月1日 - 1993年7月20日)は、山口県都濃郡南陽町(後に新南陽市を経て、現:周南市)出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。愛称は「ツネ」「炎のストッパー」。旧名「恒美」(読み同じ)。 山口県都濃郡南陽町(現:周南市)の山間部・和田地区(旧和田村)出身。南陽工高では、1年時からエース投手として活躍していた。 1978年の第50回選抜高等学校野球大会に出場、準々決勝に進むが福井商に敗退。同年の第60回全国高等学校野球選手権大会では2回戦まで駒を進めるが天理高に0-1で惜敗。 卒業後は防府市に本拠を置いていた社会人野球の協和発酵に入社。 1981年の都市対抗に電電中国の補強選手として出場。
竹元 勝雄(たけもと かつお、1927年7月25日 - 20… 竹元 勝雄(たけもと かつお、1927年7月25日 - 2006年5月8日)は、山口県徳山市(現:周南市)出身のプロ野球選手(投手)、プロ野球審判員。 山口県立徳山中学校在学時から投手としてプレー。戦後、社会人野球の藤山炭鉱に在籍。 1950年2月、大阪タイガースにテスト入団。1951年に一軍登録されたが、4月22日の大洋ホエールズ戦に敗戦処理として登板しただけでわずか1年で退団。 退団後は、社会人野球の篠崎倉庫に在籍していたが、1954年にセントラル・リーグが造った新日本リーグの審判となりこれを機に審判として再出発。1955年のシーズン途中に新日本リーグが解体され、関東の球団がセントラル・リーグが管理するイースタン・リーグに、愛知以西の球団がパシフィック・リーグが管理するウエスタン・リーグに転籍するとセントラル・リーグの関西審判部に入局(※ 入局は1956年)。