二宮 隆久(にのみや たかひさ、1955年〈昭和30年〉3月… 二宮 隆久(にのみや たかひさ、1955年〈昭和30年〉3月7日 - )は、日本の政治家。愛媛県大洲市長(3期)。 愛媛県大洲市出身。立命館大学法学部卒業。卒業後は大洲市役所に入庁。税務課長、財政課長、教育委員会教育長などを歴任した経験がある。 2018年3月30日に清水裕大洲市長が任期中に死去。それに伴い行われた大洲市長選挙に、清水市政を支えてきた各種団体の関係者らでつくる「大洲市を元気にする会」から候補者として指名を受け立候補。1万2967票を獲得し、前市議会議員の上田栄一を5463票差で制し初当選を果たした。
大森 隆雄(おおもり たかお、1948年(昭和23年)9月1… 大森 隆雄(おおもり たかお、1948年(昭和23年)9月13日 - 2009年(平成21年)8月15日)は、日本の政治家。愛媛県大洲市長、大洲市議会議員などを歴任した。 愛媛県大洲市生まれ。農業協同組合職員を経て、1978年(昭和53年)旧大洲市の市議会議員に当選して政界入り、以後連続7期務めた。 平成の大合併で新設合併により誕生した2005年(平成17年)の新・大洲市の市長選挙に出馬、旧大洲市長ら2人を破り、初当選。2009年(平成21年)には新人を退け、2期目の当選を果たしたものの、任期途中に60歳で病没した。 市長在任中は、懸案であった大洲市立図書館の整備、循環バスの運行開始のほか、農産物直売所の整備などに道筋をつけた。
沼田 恒夫(ぬまた つねお、1895年3月29日 - 196… 沼田 恒夫(ぬまた つねお、1895年3月29日 - 1967年4月9日)は、日本の政治家。元愛媛県大洲市長、今治市長。 旧制大洲中学校(現:愛媛県立大洲高等学校)卒業。喜多郡役所書記を経て、1939年愛媛県属となり、地方課長・商工課長などを歴任した。1942年に今治市長阿部秀太郎に招かれて助役になり、1943年12月今治市長に就任して戦時下の市政を担当した。敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の政令第3号によって市長職を離れた。 1954年に大洲市長選挙に立候補し元菅田村村長の有友寿次郎を破り初当選、初代大洲市長に就任した。1958年の市長選挙において無投票で当選を果たし、2選。3選を目指し、1962年の大洲市長選挙に立候補したが新人で愛媛県議会議員の森永冨茂に破れ落選。
三瀬 俊蔵(みせ しゅんぞう、1868年(慶応4年) - 1… 三瀬 俊蔵(みせ しゅんぞう、1868年(慶応4年) - 1936年(昭和11年))は、日本の政治家・愛媛県会議員、愛媛県喜多郡大谷村長、篤農家。 伊予国喜多郡大谷村(現・愛媛県大洲市)出身。里正・三瀬通綱の三男。1902年から1918年、大谷村長を務めて村政を担当した。篤農家として知られた。畜牛の改良発展に尽力した。 『喜多郡の華 附・上浮穴郡小田郷』には「本郡今日に於ける産牛の進歩は一に氏の尽力に帰すものと謂うべし、本県に於ける畜産王として世人の推称浅からず」とある。1911年から1915年、県会議員に在職して政友会に所属した。1922年、再び大谷村長に選任された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
高山 長幸(たかやま ながゆき/ながよし、1867年8月7日… 高山 長幸(たかやま ながゆき/ながよし、1867年8月7日(慶応3年7月8日) - 1937年(昭和12年)1月19日)は、明治から昭和にかけての衆議院議員(6期)、銀行家、帝国商業銀行取締役会長、東洋拓殖総裁等を歴任。号は孤竹。勲四等瑞宝章。 伊予国喜多郡大洲城下中村(喜多村、大洲村、大洲町を経て現大洲市)出身。大洲藩士・高山文兵衛の長男。上京して慶應義塾に入り一時東京英語学校に遊学し、明治23年(1890年)に慶應義塾大学部を卒業。 1893年(明治26年)三井銀行に入り、大阪支店を経て函館・長崎などの要所の支店長を歴任し、三井銀行本店副支配人に就任する。また、明治石油、大日本製糖、朝鮮産業鉄道、蓬莱相互生命保険、東邦炭鉱、三井物産、雨龍炭鉱、第一火災海上保険、名古屋製糖などで重役を歴任。
井上 要(いのうえ かなめ、旧姓・有友 、1865年5月29… 井上 要(いのうえ かなめ、旧姓・有友 、1865年5月29日(慶応元年5月5日) - 1943年(昭和18年)3月18日)は、日本の弁護士、政治家・衆議院議員(憲政本党)、実業家。松山商工会議所会頭。早稲田大学評議員。松山高等商業学校理事。北予中学会理事。族籍は愛媛県士族。号は不去庵。伊予鉄道会社(現伊予鉄グループ)3代・5代社長。 伊予国喜多郡菅田村(現在の愛媛県大洲市)の庄屋の家に生まれた。有友平衛の長男。のちに井上家の養嗣子となる。地元の小・中学校を経て1882年(明治15年)に上京して丸山作楽塾、岡松甕谷塾で学び、翌年漢学者鈴村譲の海南書院(松山)で学ぶ。法学を独習して代言人(弁護士)試験に合格。
有友 正親(ありとも まさちか、旧姓・檜田、1855年11月… 有友 正親(ありとも まさちか、旧姓・檜田、1855年11月30日(安政2年10月21日)‐ 1913年(大正2年)2月15日) は、明治期の篤農家、名望家、実業家、政治家。衆議院議員。族籍は愛媛県平民。 伊予国喜多郡若宮村(現愛媛県大洲市) の檜田家に生まれ、9歳で同郡菅田村(現大洲市)の有友平右衛門(正盛)の養子となる。藩校で学んだが、ほとんどは独学で学問を習得した。農業を営む。 明治維新後、喜多郡租税掛、愛媛県地租改正顧問、戸長、学務委員、県勧業委員などを務めた。1882年(明治15年)に結成された立憲改進党に入党。1884年(明治17年)5月、愛媛県会議員に選出された。松方デフレで困窮した農民たちを代弁して、県の四国新道開削計画に反対した。