楠瀬 耕作(くすのせ こうさく、1960年〈昭和35年〉1月… 楠瀬 耕作(くすのせ こうさく、1960年〈昭和35年〉1月25日 - )は、日本の政治家。高知県須崎市長(4期)。 高知県土佐市出身。12歳の時に須崎市に転居。高知中学校・高等学校卒業。1982年(昭和57年)3月、東京経済大学経営学部卒業。同年4月、東プレ株式会社に就職。中学、高校時代は野球部に属し、1977年(昭和52年)第59回全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)に右翼手として出場し、ベスト8まで進む。1984年(昭和59年)4月、ハイヤーの会社に転職。1993年(平成5年)11月、同社の代表取締役に就任。1989年(平成元年)に設立された高知県西部情報通信研究会の事務局長に就任し、須崎ケーブルテレビ株式会社(現よさこいケーブルネット株式会社)の設立メンバーとなる 1994年(平成6年)から同社の常務取締役を務め2011年(平成23年)10月、市長選挙出馬のため辞職。
板原 啓文(いたはら けいぶん、1955年〈昭和30年〉7月… 板原 啓文(いたはら けいぶん、1955年〈昭和30年〉7月31日 - )は、日本の政治家。高知県土佐市長(5期)。 高知県土佐市出身。高知高等学校、高知大学卒業。 1978年(昭和53年)土佐市役所入庁。企画調整課長、總務課長。 2007年(平成19年)10月21日投開票の土佐市長選挙に立候補し初当選を果たした。投票率は過去最低の49.17%。10月29日、市長就任。 2011年(平成23年)、無投票により再選。 2015年(平成27年)7月16日、平和安全法制関連2法案が衆議院本会議で可決され、参議院へ送付された。これを受けて、同年9月開催の土佐市議会において板原は「安保関連法案は、多くの憲法学者が憲法に抵触すると言っている以上、法案に問題があると判断している。
西岡 瑠璃子(にしおか るりこ、1934年7月22日 - )… 西岡 瑠璃子(にしおか るりこ、1934年7月22日 - )は、日本の政治家、歌人。元日本社会党参議院議員(1期)。 高知県土佐市出身。1953年土佐高校卒。卒業後はNHK高知放送局に就職する。以後、参院選に立候補するまで勤務。労働運動と女性運動に身を投じ、日放労高知分会書記長、高知県労働組合総評議会婦人部長、日本婦人会議高知県本部議長などを歴任。また、「高知歌人」や「新日本歌人」に所属して歌人としても活動する。 1989年の第15回参議院議員通常選挙に高知県選挙区から日本社会党公認で立候補して初当選。小選挙区制導入に反対を表明し、1994年に栗原透(社会党高知県本部委員長、高知県議)らと共に離党。
板原 伝(いたはら つたえ、1910年(明治43年)2月8日… 板原 伝(いたはら つたえ、1910年(明治43年)2月8日 - 1984年(昭和59年)11月7日)は、昭和時代の政治家。農民運動家。高知県土佐市長。 板原信衛、うまの二男として高知県高岡郡高岡町(現土佐市)に生まれる。高岡町高等小学校を中退し、農業に就いた。小作農家として楮加工、養蚕に従事した。 1929年(昭和4年)高知県穀物検査の制度化に反対し、農民運動を進め、制度は廃案となる。その後、岡崎精郎を委員長とする全国農民組合県支部、高東地区で兄の板原正気、西原貞らと共に激しい農民運動を展開した。 1945年(昭和20年)戦後の農民開放指令、農地改革となり、1946年(昭和21年)農民組合が新たに発足し農地改革推進の中心的役割を担うようになる。
塩見 俊雄(しおみ としお、1899年(明治32年)11月1… 塩見 俊雄(しおみ としお、1899年(明治32年)11月18日 - 1988年(昭和63年)2月27日)は、日本の地方政治家。土佐市長。位階は正六位。 塩見熊吉の長男として高知県高岡郡戸波村(現・土佐市)に生まれる。農業のかたわら青年団に入り戸波青年団会長、高岡青年団会長(5ケ町村連合)などを歴任。1922年(大正11年)戸波村産業組合の職員に採用され、翌年には専務理事に抜擢される。1926年(大正15年)には高知県産業組合中央高知市会の職員となる。 その後高知県農業会高岡支部経理課長、農業会金融課長(昭和20年)となるが、翼賛壮年団長をしていたため、GHQによる公職追放を受ける。サンフランシスコ講和条約の締結により、日本が主権を回復したことに伴い、1953年(昭和28年)追放解除。
西原 清東(さいばら せいとう、さいばら きよき、1861年… 西原 清東(さいばら せいとう、さいばら きよき、1861年10月11日(文久元年9月8日) - 1939年(昭和14年)4月11日)は、高知県出身の衆議院議員、同志社第4代社長(現在の総長)。のちに日本を離れてアメリカや南米で農場を経営した。 土佐国高岡郡出間村(現・土佐市)で十寸弥と金の長男として生まれる。1875年陶冶学校、1876年立志学舎、1880年茂松法学校で学ぶ。1881年、請われて福島県三春の正道館講師を務める。1883年、山脇泰子と結婚、翌年息子清顕が生まれる。1886年、代言人試験に合格。1887年、代言業を始める。1890年神戸に転居、多聞協会で受洗。 板垣退助や片岡健吉などに従って、自由民権運動に参加。
中島 信行(なかじま のぶゆき、旧名:中島 作太郎〈なかじま… 中島 信行(なかじま のぶゆき、旧名:中島 作太郎〈なかじま さくたろう〉、1846年10月5日〈弘化3年8月15日〉 - 1899年〈明治32年〉3月27日)は、明治時代の官僚、政治家。号は長城。元土佐脱藩浪士(海援隊士)。初代衆議院議長。先妻は陸奥宗光の妹初穂で長男は中島久万吉。後妻は男女同権論者の岸田俊子(中島湘煙)。 明治維新後、外国官及び兵庫県に徴され、通商正・出納正、紙幣権頭、横浜税関長、神奈川県令、元老院議官(国憲取調委員)を歴任後、野に下って民選議院開設・自由民権運動に加わり自由党副総理・立憲政党総理を兼任。民権派の大同団結の立場を堅持し、第1回衆議院議員選挙で当選、初代衆議院議長を務めた。