島田 啓子(しまだ けいこ、1966年6月14日 - )は、… 島田 啓子(しまだ けいこ、1966年6月14日 - )は、日本の政治家。長崎国際テレビ (NIB) の元社員(報道記者)で元同局のアナウンサー。 福岡県田川郡香春町出身。実家は上野香春焼(あがのかわらやき)の窯元。 明治学院大学を卒業後、1989年に熊本県民テレビ (KKT) に入社[要出典]。 退社後、1992年に長崎国際テレビへ移籍。報道部に所属し、記者兼アナウンサーとなる。結婚後、2008年10月に娘を出産した。 その後、2015年3月いっぱいでアナウンサーとしての活動を終えたこと、そして同年4月からは記者活動に専念していることを自身のブログで報告した。2024年7月に退職。 2025年2月23日投開票の諫早市議会議員選挙に本名の「鶴田啓子」名義で立候補し、全体の4位で当選。
大場 隆広(おおば たかひろ、1948年6月23日 - 20… 大場 隆広(おおば たかひろ、1948年6月23日 - 2016年7月16日)は、福岡県田川郡香春町出身のプロ野球選手(投手)・コーチ。息子は元巨人の大場豊千。 別府鶴見丘高校では3年次の1966年、エースとして夏の甲子園予選中九州大会準決勝に進出したが、熊本一工の田尻茂敏と投げ合い敗退。甲子園出場はならなかったが、予選では1試合平均11の三振を奪う。荒削りながら速球に魅力があり、ドロップを武器とした。1966年第1次ドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受け、1967年に入団。1年目にはジュニアオールスターに選出されるなど貴重な本格派左腕として期待されたが、一軍では結果を出せず、1970年オフに自由契約となり、近鉄バファローズへ移籍。
生原 昭宏(いくはら あきひろ、1937年1月20日 - 1… 生原 昭宏(いくはら あきひろ、1937年1月20日 - 1992年10月26日)は、日本の野球関係者。メジャーリーグ球団職員。 日米間の野球交流発展に尽力し、親身になって野球留学生を世話するなどして、山本昌などを初め、多くの野球人に慕われた。 福岡県田川郡香春町出身。アイク生原の愛称・通称で知られる。 福岡県立田川高校から早稲田大学へ進学し、野球部選手として活躍。1959年にはリッカーミシンに入社して社会人野球で活躍した。1961年には亜細亜大学硬式野球部監督(当時は東都大学リーグ3部)に就任し、1964年秋には同部を1部に昇格させるなど、アマチュア野球指導者として活動していた。 自身の指導法に疑問を抱き、野球を探求するため、1965年3月に当時読売ジャイアンツの顧問を務めていた鈴木惣太郎の紹介でアメリカ合衆国へ渡り、ウォルター・オマリー会長の指示を受けてロサンゼルス・ドジャース傘下のマイナーチームであるスポケーン・インディアンスで用具係になった。
林 えいだい(はやし えいだい、本名・林 栄代〔しげのり〕、… 林 えいだい(はやし えいだい、本名・林 栄代〔しげのり〕、1933年12月4日 - 2017年9月1日)は、日本の記録作家。アリラン文庫主宰。強制動員真相究明ネットワーク呼びかけ人。 福岡県田川郡採銅所村(現・香春町)生まれ。神主だった実父は、脱走してきた朝鮮人炭鉱労働者を匿い、特高警察に検挙され、拷問の後間もなく死去した。林は2017年の新聞記事で「私を奮い立たせるものは何か。元をたどればそこに行き着く」と述べている。早稲田大学文学部在学中に荒畑寒村の「谷中村滅亡史」を読み社会主義運動に傾倒する。大学を中退し故郷に帰る。北九州市教育委員会などに勤めた後にフリーライターとなった。独立したのは37歳の時である。
中西 績介(なかにし せきすけ、1926年〈大正15年〉2月… 中西 績介(なかにし せきすけ、1926年〈大正15年〉2月6日 - 2025年〈令和7年〉1月24日)は、日本の政治家。位階は従三位、勲等は旭日大綬章。 福岡県田川郡香春町出身。香春町名誉町民。衆議院議員(9期)、総務庁長官(第18代)、社会民主党副党首などを歴任。 福岡県田川郡採銅所村(現香春町)生まれ。旧制田川中学(現福岡県立田川高等学校)、三重農林専門学校(現三重大学生物資源学部)卒業。水泳選手として国体に連続出場した経験がある。福岡県内の公立中学校、高校で理科と農業の教諭を務めたが、校長着任拒否闘争により懲戒免職され、1976年(昭和51年)旧福岡4区から社会党公認で衆院選に出馬し初当選。
池田 禎治(池田 禎治、いけだ ていじ、1910年1月22日… 池田 禎治(池田 禎治、いけだ ていじ、1910年1月22日 - 1977年2月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 福岡県田川郡香春町出身。上京し、東京府立第五中学に学ぶ。総同盟本部書記、社会民衆党書記などを経て、労働運動に加入した。その後、都新聞、読売新聞、時事新報の政治部記者から、時事新報政治部長となった。 戦後、日本社会党の結党に参加し西尾末広系の党内社会党右派に所属。片山内閣で内閣総理大臣秘書官と西尾末広国務大臣秘書官を務めた。福岡県小倉市(現在の北九州市小倉南区蜷田若園近辺)の県営アパートの一室を借りて、かなり手狭な社会党支部を開いている。1960年1月、民主社会党(後の民社党)結党に参加。
森友 政勝(もりとも まさかつ、1907年〈明治40年〉1月… 森友 政勝(もりとも まさかつ、1907年〈明治40年〉1月8日 - 1982年〈昭和57年〉11月18日)は、戦時中から戦後にかけて日本における農業実習を説いた人物である。 福岡県田川郡香春町生まれ、福岡県立田川農林高等学校を経て鳥取高等農業学校(現・鳥取大学農学部)、農林省(現・農林水産省)を経て、秋田県農業試験場で研究員として勤務していたが、第二次世界大戦で森友三治(満州国副参事官、満州国にて死亡)、森友一(日本海軍、戦死)が亡くなり森友家の跡継ぎ不在となったため、福岡県へ帰郷。帰郷後も農業研究の経験を活かし、農業実習の指導や農村における副業についても研究・指導、また国連職員としてモンゴルでの農業普及にも貢献した。