長野 聡(ながの さとし、1982年8月2日 - )は、福岡… 長野 聡(ながの さとし、1982年8月2日 - )は、福岡県みやこ町出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはディフェンダー、フォワード。 2010年までディフェンダーとしてプレイしていたが、2011年よりフォワードにコンバートされる。しかし翌年からは本人の申し出によりディフェンダーに再転向した。 2013年からはタイのナコーンラーチャシーマーFCに所属。2012年シーズン8位だったチームに安定感もたらし、チームも5位と躍進した。2014年シーズンは、約1ヵ月間、週に2試合行う超過密日程もあった中で34試合中32試合に出場し、圧倒的な強さでタイディビジョン1優勝。国内1部リーグであるTPLへの昇格に大きく貢献。
柿本 倫明(かきもと みちあき、1977年10月6日 - )… 柿本 倫明(かきもと みちあき、1977年10月6日 - )は、福岡県京都郡みやこ町(旧犀川町)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード (FW)。 大阪体育大学在学中の1999年、ユニバーシアードマヨルカ大会で日本代表に選出され2ゴールをあげるなど活躍し、2000年、J1・アビスパ福岡へ入団。しかし、出場機会を得られないまま1年で戦力外通告を受け退団、シンガポールリーグのクレメンティー・カルサFCに移籍した。そこで29試合に出場し14得点と結果を出すと、福岡在籍時にサテライト監督を務めていた当時の大分トリニータ監督、小林伸二から声がかかり、2002年シーズンからJリーグに復帰。
永井 龍雲(ながい りゅううん、1957年11月4日 - )… 永井 龍雲(ながい りゅううん、1957年11月4日 - )は、日本のシンガーソングライター。作詞・作曲家。 福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)出身。中学時代にフォーク愛好会を作り音楽活動を開始。また、野球少年でもあり、ポジションは投手であった。 福岡県立豊津高等学校(現・育徳館高等学校)から大学進学を目指したが、受験した4校全てに失敗し、本格的にミュージシャンを目指すこととなり、1978年にキャニオン・レコード(F-LABEL)より「想い」でデビューした。 1979年、5枚目のシングル「道標ない旅」がグリコアーモンドチョコレートのCMソングとなりヒット。前年に松山千春が同CMソング「季節の中で」でブレイクしたことから、富澤一誠は70年代を牽引した陽水や拓郎に例え、80年代は千春や龍雲が音楽シーンを引っ張るのではと期待した。
葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12… 葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12日 - 1945年(昭和20年)10月18日)は、日本の小説家。本名嘉重。 福岡県京都郡豊津村(現・みやこ町)出身。早稲田大学高等予科文科中退。労働運動に従事し、職を転々とする傍ら、「文芸戦線」に発表した『淫売婦』で注目され、作家生活に入る。『セメント樽の中の手紙』や長編『海に生くる人々』などで労働者階級の生活と反抗と連帯感を描き、初期プロレタリア文学の代表的存在となった。その後開拓団員として満洲に渡り、敗戦後、引揚げの車中で病没した。農民小説も書いた。 士族の家庭に生まれる。旧制豊津中学(現:福岡県立育徳館高等学校)から1913年に早稲田大学高等予科に進学するも、学費未納により除籍。
小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7… 小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7日 - 1966年〈昭和41年〉5月3日)は、日本の独文学者・文芸評論家・演劇評論家。東北大学名誉教授。日本学士院会員。 福岡県仲津郡久富村(現・京都郡みやこ町)に生まれる。少年期に父を失うが、祖母と母のもと裕福な家庭で育つ。旧制の福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館高等学校)を経て第一高等学校 (旧制)(現・東京大学教養学部)に進む。同期に安倍能成、中勘助、藤村操、尾崎放哉、岩波茂雄がいた。 1905年(明治38年)東京帝国大学文科大学独文科に入学。大学時代に夏目漱石の門下(木曜会)となり、寺田寅彦、森田草平、芥川龍之介、内田百閒、鈴木三重吉、久米正雄、松岡譲、野上豊一郎、津田青楓たちと交際。
堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3… 堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3年11月25日) - 1933年〈昭和8年〉1月23日)は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚 渋六。 堺は没落士族の三男として、豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(現:福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂)に生まれる。旧制豊津中学校を首席で卒業して上京後、進学予備校であった共立学校にて受験英語を学んだのちに第一高等中学校に入学するが、学費を滞納して除籍処分される。除籍後は大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら文学の世界で身を立てるべく、小説の執筆を始める。その後、同郷の末松謙澄の招待で東京に設けられた毛利家編輯所で「防長回天史」の編纂に従事し、同僚の山路愛山らと親交を深める。