スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
小坪 慎也(こつぼ しんや、1978年〈昭和53年〉11月1… 小坪 慎也(こつぼ しんや、1978年〈昭和53年〉11月16日 - )は、日本の政治家。行橋市議会議員。 2013年12月に、福岡県行橋市役所で、共産党市議らから日本共産党の政党機関紙「しんぶん赤旗」の勧誘、販売、集金があり、少なくとも20年以上前から役所内で、管理職職員が購読を続けていることが小坪の調査により判明した。これについて、「市議の立場を利用した「心理的強制」にあたる可能性もある」と述べており、部課長級職員以上の半数以上が「しんぶん赤旗」を講読し、役所内の職場の机の上に配達されていた。同市は、「職場での購読は地方公務員法で定める「政治的中立性」に疑念を持たせる」と実態調査を行う検討をしている。
綿涙 粉緒(めんるい こなお、1977年(昭和52年)1月1… 綿涙 粉緒(めんるい こなお、1977年(昭和52年)1月18日 - )は、日本のライトノベル作家。福岡県築上郡築上町出身。代表作は、『名湯『異世界の湯』開拓記 〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜』。 福岡県築上郡築上町出身。三人兄弟の次男。築城町立(現築上町)上城井小学校、築城町立(現築上町)城井中学校(廃校)、福岡県立豊津高校(現育徳館中学校・高等学校)、国立琉球大学教育学部。中学時代に星新一の小説に触れ、自分でも創作ができるのではないかと考え創作を始める。その後、30年以上の下積みを経てWEB小説を書きはじめ、小説投稿サイト「ノベルアップ+」(ホビージャパン)にて2019年9月6日より連載開始。
古宮 洋二(ふるみや ようじ、1962年〈昭和37年〉11月… 古宮 洋二(ふるみや ようじ、1962年〈昭和37年〉11月26日- )は、日本の経営者。九州旅客鉄道株式会社代表取締役社長。
永井 龍雲(ながい りゅううん、1957年11月4日 - )… 永井 龍雲(ながい りゅううん、1957年11月4日 - )は、日本のシンガーソングライター。作詞・作曲家。 福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)出身。中学時代にフォーク愛好会を作り音楽活動を開始。また、野球少年でもあり、ポジションは投手であった。 福岡県立豊津高等学校(現・育徳館高等学校)から大学進学を目指したが、受験した4校全てに失敗し、本格的にミュージシャンを目指すこととなり、1978年にキャニオン・レコード(F-LABEL)より「想い」でデビューした。 1979年、5枚目のシングル「道標ない旅」がグリコアーモンドチョコレートのCMソングとなりヒット。前年に松山千春が同CMソング「季節の中で」でブレイクしたことから、富澤一誠は70年代を牽引した陽水や拓郎に例え、80年代は千春や龍雲が音楽シーンを引っ張るのではと期待した。
尾崎 仙次(おざき せんじ、1948年1月2日 - 2017… 尾崎 仙次(おざき せんじ、1948年1月2日 - 2017年4月1日[要出典])は、日本の実業家。B-R サーティワン アイスクリーム株式会社代表取締役社長や、同社取締役会長を務めた。
石田 比呂志(いしだ ひろし、1930年10月27日 - 2… 石田 比呂志(いしだ ひろし、1930年10月27日 - 2011年2月24日)は、日本の歌人。福岡県出身。本名は裕志。 福岡県京都郡小波瀬村二崎(現苅田町)に父嘉平次、母清香の長男として生まれる。1944年、福岡県立豊津中学校(旧制)を素行不良によって退学処分となる。1945年、国家総動員法によって筑豊の炭鉱に徴用されて採炭に従事させられる。乙種飛行練習生(海軍)に合格するも8月敗戦。 1946年、石川啄木の『一握の砂』を読んで歌人を志す。水道工事人夫、キャバレーの支配人など40以上の職を転々とする。1954年、山口県宇部市の土方飯場からの投稿歌が「毎日歌壇」(窪田空穂選)に採用され、自作が初めて活字となる。
鶴田 知也(つるた ともや、1902年2月19日 - 198… 鶴田 知也(つるた ともや、1902年2月19日 - 1988年4月1日)は日本の小説家、農業指導者。小説『コシヤマイン記』で第3回芥川龍之介賞を受賞。 1902年(明治35年)2月19日、福岡県小倉市大阪町(現:北九州市小倉北区)でに高橋乕太郎、アサの三男として生まれる。実父乕太郎は植村正久門下のクリスチャンであり、リベラルな知識人として知られていた。兄弟に音楽家高橋信夫、画家の福田新生がいる。1909年(明治42年)、7歳の時に母アサの兄にあたる鶴田和彦、ミヨ夫妻の養子となり鶴田姓となる。鉄道技師であった養父和彦の転勤に伴い、小倉市、直方市、田川市、大分市の小学校を転々とし、最後に豊津尋常高等小学校で卒業した。
劔木 亨弘(劒木 亨弘、けんのき としひろ、1901年9月3… 劔木 亨弘(劒木 亨弘、けんのき としひろ、1901年9月3日 - 1992年11月29日)は、日本の政治家、文部官僚。参議院議員(4期)、文部大臣(第88-89代)。位階は正三位。 福岡県田川郡大任村(現大任町)に、開業医・劔木元享の長男として生まれる。豊津中学、第五高等学校を経て、1927年、東京帝国大学法学部を卒業。2年後の1929年、文部省に入省する(嘱託)。香川県学務課長、本省教学局思想課長、専門教育局大学教育課長などを務め、戦後の1947年、学校教育局次長となり、6・3・3・4制導入に伴う法整備や予算確保に尽力する。その後大学学術局長、文部事務次官を経て、1951年、周囲の推しにより福岡県知事選に出馬するも落選、首相吉田茂のはからいにより、内閣官房副長官に就任する。
田原 春次(たはら はるじ、1900年(明治33年)7月28… 田原 春次(たはら はるじ、1900年(明治33年)7月28日 - 1973年(昭和48年)7月14日)は、日本の政治家、部落解放運動家。衆議院議員(7期)。 福岡県京都郡行橋町(現行橋市)の被差別部落の出身。田原寅次郎の長男。豊津中学校(現・育徳館高校)卒業後、早稲田大学に入学し学生団体 黎民創生会の一員として活動した。1922年、早稲田大学専門部法律学科を卒業。翌年渡米しミズーリ州立大学に留学。1924年、福岡日日新聞社に入り同社海外特派員として北米中米南米に滞在。 1928年、帰朝。同年4月東京朝日新聞社に転じ1930年8月まで在社。その後、全国大衆党に入党。機関誌主任になる。農民運動にも参加した。
奥村 喜和男(おくむら きわお、1900年1月4日 - 19… 奥村 喜和男(おくむら きわお、1900年1月4日 - 1969年8月19日)は、日本の逓信官僚。内閣情報局次長。革新官僚の代表的人物の一人。号は東陽。 福岡県今川村(現在の行橋市)出身。豊津中学、第五高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。1923年に高等文官試験に合格、1925年に大学を卒業して逓信省に入省。 同盟通信社や満洲電信電話株式会社の設立に参画し、1935年の内閣調査局設立時に調査官に任じられ、出弟二郎とともに電力国家管理案を作成して電力会社の「民有国営」の実現に奔走した。1937年の企画院創設によって同院調査員に転ずる。統制経済の推進役、革新官僚(新官僚)の代表的存在であった。 1941年には東条内閣の内閣情報局次長に任ぜられ、戦時体制下における言論統制及び統制経済の確立に努める。
高原 逸人(たかはら はやと、1899年〈明治32年〉1月2… 高原 逸人(たかはら はやと、1899年〈明治32年〉1月23日 - 1977年〈昭和52年〉9月2日)は、昭和時代の台湾総督府官僚、陸軍司政長官。高雄州知事、花蓮港庁長。旧姓は早川。 高原金治の長男として福岡県京都郡豊津村(現・みやこ町豊津)に生まれる。豊津中学(現在の福岡県立育徳館高等学校の前身のひとつ)、旧制第五高等学校を経て、1925年(大正14年)3月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。在学中の1924年(大正13年)11月に高等試験行政科に合格。 大学卒業後直ちに渡台し、台湾総督府専売局書記庶務課勤務を拝命。ついで専売局副参事、台南州内務部地方課長、府中央研究所事務官庶務課長、府審議室事務官、新竹州警務部長、高雄州内務部長、府事務官殖産局農務課長を経て、1942年(昭和17年)9月、陸軍司政長官に任命され、高雄州知事を務めた。
坂 千秋(さか ちあき、1895年(明治28年)8月28日 … 坂 千秋(さか ちあき、1895年(明治28年)8月28日 - 1959年(昭和34年)5月29日)は、大正後期から昭和前期の内務官僚、政治家。内務次官、官選県知事、北海道庁長官、貴族院勅選議員。 山口県厚狭郡厚西村厚狭(厚狭町、山陽町厚狭を経て現山陽小野田市厚狭)で、呉服業・坂幾一の二男として生まれる。豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)、第一高等学校(独法科、首席)を経て、1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格し、1919年7月、内務省に入り内務属となり地方局事務官室兼府県課勤務となる。その後、佐賀県視学官、石川県理事官、内務省地方局地方債課長、専任内務書記官、地方局財務課長、同局行政課長などを歴任。
葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12… 葉山 嘉樹(はやま よしき、1894年(明治27年)3月12日 - 1945年(昭和20年)10月18日)は、日本の小説家。本名嘉重。 福岡県京都郡豊津村(現・みやこ町)出身。早稲田大学高等予科文科中退。労働運動に従事し、職を転々とする傍ら、「文芸戦線」に発表した『淫売婦』で注目され、作家生活に入る。『セメント樽の中の手紙』や長編『海に生くる人々』などで労働者階級の生活と反抗と連帯感を描き、初期プロレタリア文学の代表的存在となった。その後開拓団員として満洲に渡り、敗戦後、引揚げの車中で病没した。農民小説も書いた。 士族の家庭に生まれる。旧制豊津中学(現:福岡県立育徳館高等学校)から1913年に早稲田大学高等予科に進学するも、学費未納により除籍。
森本 義夫(もりもと よしお、1893年〈明治26年〉1月2… 森本 義夫(もりもと よしお、1893年〈明治26年〉1月27日 - 1954年〈昭和29年〉12月6日)は、大正後期から昭和期の鉄道官僚、政治家。衆議院議員。 福岡県京都郡白川村(現・苅田町)で生まれる。1912年(明治45年)豊津中学校(現・福岡県立育徳館中学校・高等学校)を卒業。第五高等学校(現・熊本大学)を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。 法制局に入り法制局属に任官したが、鉄道省に転じ鉄道属となる。以後、鉄道局副参事、在外研究員、国際観光局書記官、鉄道局参事、鉄道省大臣官房保健課長、新潟鉄道局長を歴任し、鉄道調査部長で退官した。 その後、鉄道省嘱託、陸軍省嘱託、華中鉄道公司嘱託、大日本労務報国会厚生局長、同理事、恩給金庫評議員、鉄道会議議員などを務めた。
前田 稔靖(まえだ としやす、1889年(明治22年)11月… 前田 稔靖(まえだ としやす、1889年(明治22年)11月9日 - 1945年(昭和20年)12月4日)は、日本の内務官僚。小倉市助役。九州帝国大学学生主事、講師。九州法学校設立者。福岡県出身。 福岡県企救郡足立村(現北九州市小倉北区)の素封家に生まれる。旧制豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)、第一高等学校を経て、1915年、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格し、大阪市役所を経て台湾総督府に移り、1922年、台湾総督府財務局事務官で退官し、その後、長崎高等商業学校教授に就任した。 1926年から1929年まで小倉市助役を務めた。また時の市長・神崎慶次郎と共に陸軍造兵廠を誘致した。
緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - … 緒方 健三郎(おがた けんざぶろう、1888年4月1日 - 1967年11月17日)は、日本の英文学者、教育者、鹿児島大学初代学長・名誉教授。旧制の第六高等学校教授、姫路高等学校第6代校長、第七高等学校第10代校長も歴任した。 福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)出身で、旧制福岡県立豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を卒業した。1910年、旧制第六高等学校(岡山大学の前身のひとつ)大学予科第一部乙類を卒業。1913年、東京帝国大学文科大学(現東京大学文学部)英文学科を卒業。大学卒業後、旧制愛知県立第二中学校(現愛知県立岡崎高等学校)、旧制愛媛県立西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)で教員を務める。
小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7… 小宮 豊隆(こみや とよたか、1884年〈明治17年〉3月7日 - 1966年〈昭和41年〉5月3日)は、日本の独文学者・文芸評論家・演劇評論家。東北大学名誉教授。日本学士院会員。 福岡県仲津郡久富村(現・京都郡みやこ町)に生まれる。少年期に父を失うが、祖母と母のもと裕福な家庭で育つ。旧制の福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館高等学校)を経て第一高等学校 (旧制)(現・東京大学教養学部)に進む。同期に安倍能成、中勘助、藤村操、尾崎放哉、岩波茂雄がいた。 1905年(明治38年)東京帝国大学文科大学独文科に入学。大学時代に夏目漱石の門下(木曜会)となり、寺田寅彦、森田草平、芥川龍之介、内田百閒、鈴木三重吉、久米正雄、松岡譲、野上豊一郎、津田青楓たちと交際。
水野 葉舟(みずの ようしゅう、1883年4月9日 - 19… 水野 葉舟(みずの ようしゅう、1883年4月9日 - 1947年2月2日)は、日本の詩人、歌人、小説家、心霊現象研究者。本名は盈太郎(みちたろう)。別号蝶郎。 東京府生まれ。新詩社に入り、詩文集『あららぎ』、窪田空穂との合著歌集『明暗』で登場。『微温』、小品集『草と人』などで自然主義文学に独自の地位を占めた。のち、千葉県三里塚で半農生活に入った。建設大臣などを務めた水野清は次男。 東京下谷区仲御徒町生まれ。父は農商務省の官吏。父の転任で1891年(明治24年)から福岡で暮らし、1900年(明治33年)に東京に戻る。福岡県立豊津中学校(現・福岡県立育徳館中学校・高等学校)卒業。 中学時代から詩作を行っていたが、上京して与謝野鉄幹に師事し、水野蝶郎名義で新進詩人として知られる。
片山 秀太郎(かたやま ひでたろう、1881年(明治14年)… 片山 秀太郎(かたやま ひでたろう、1881年(明治14年)1月21日 – 1959年(昭和34年)12月9日)は、明治末から昭和前期の台湾総督府官僚、弁護士、政治家。衆議院議員(立憲政友会)。 福岡県企救郡曽根村(現:北九州市小倉南区)で片山勝太郎の長男として生まれた。1899年(明治32年)豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)を首席で卒業。1905年(明治38年)、京都帝国大学法科大学独法科を卒業。文官高等試験に合格し、台湾総督府税務官、専売局事務官、参事官、総督官房調査課長、内務局学務課長、台湾総督府高等商業学校長を歴任した。その後、弁護士を開業した。 1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙(福岡県第4区、立憲政友会公認)に出馬し、当選を果たした。
鮎川 盛貞(あゆかわ もりさだ、1880年(明治13年)6月… 鮎川 盛貞(あゆかわ もりさだ、1880年(明治13年)6月13日 – 1961年(昭和36年)5月28日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部)。 福岡県小倉市(現北九州市)出身。豊津中学校(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を経て、日本法律学校(現日本大学)に学んだ後、法律事務所で経験を積み、小倉市で弁護士を開業した。小倉市会議員に選ばれ、また破産管財人も務めた。 1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙(福岡県小倉市、立憲国民党)で落選。1920年(大正9年)5月、第14回総選挙(福岡県第4区、立憲国民党公認)に出馬し、当選を果たした。1923年(大正12年)11月13日、衆議院議員を辞職した。
杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年〈明治13年〉1… 杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1945年〈昭和20年〉9月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将従二位勲一等功一級。 福岡県出身。陸軍士官学校卒業(12期)、陸軍大学校卒業(22期)。陸軍大臣、教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長。 陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなったのは二人しかいない(もう一人は上原勇作)。また、軍要職にあった際の記録を『杉山メモ』として遺したことで知られる。 1880年(明治13年)1月2日、福岡県企救郡横代村(後の小倉市を経て現:北九州市小倉南区横代)に杉山貞の長男として生まれる。 父は天保14年(1843年)8月、豊前国企救郡横代村の農家に生まれ、慶応2年(1866年)の丙寅御変動で農兵として従軍した後、教育者として活躍しており、広寿山福聚寺(現:北九州市小倉北区)に事績が記録される。
勝 正憲(かつ まさのり、1879年(明治12年)5月21日… 勝 正憲(かつ まさのり、1879年(明治12年)5月21日 - 1957年(昭和32年)11月11日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員、逓信大臣。 福岡県出身。元小倉藩士・勝平八郎の長男として生まれる。豊津中学、第五高等学校を経て、1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。塩務局属兼大蔵属となり横浜塩務局兼理財局国債課勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1906年(明治39年)12月、税務監督局事務官・大阪税務監督局勤務となり、以後、税務行政を担当する。1907年(明治40年)5月、松江税務監督局長に就任。さらに、兼松江塩務局長、長崎税務監督局長、鹿児島税務監督局長、長野税務監督局長、税務監督官・東京税務監督局、函館税関長、仙台税務監督局長、大蔵書記官・主税局国税課長、兼大蔵省参事官、東京税務監督局長、海外駐箚財務官(米国駐在)、兼米国大使館付などを歴任。
矢頭 良一(やず りょういち、1878年(明治11年)6月3… 矢頭 良一(やず りょういち、1878年(明治11年)6月30日 - 1908年(明治41年)10月16日)は、日本の発明家。「漢字早繰辞書」や自働算盤と呼んだ機械式計算機を発明し、これらの製造、販売で得た資本をもとにして中学校時代から興味を持った鳥類の飛翔を研究し、動力航空機の発明を試みたが31歳で没した。 福岡県上毛郡黒土村(現在の豊前市)で、後に岩屋の村長となった父、道一、母、タミの長男として生まれた。久路土小学校と岩屋小学校を経て13歳の時、豊津中学校(現:福岡県立育徳館高等学校)に進んだが鳥の飛翔に関心を持ち、さらに研究するために16歳で退学し大阪へ出た。大阪で数学、工学や語学などの知識の必要性を痛感し、英国人の私塾にもかよって学習したと伝えられる。
堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3… 堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3年11月25日) - 1933年〈昭和8年〉1月23日)は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚 渋六。 堺は没落士族の三男として、豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(現:福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂)に生まれる。旧制豊津中学校を首席で卒業して上京後、進学予備校であった共立学校にて受験英語を学んだのちに第一高等中学校に入学するが、学費を滞納して除籍処分される。除籍後は大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら文学の世界で身を立てるべく、小説の執筆を始める。その後、同郷の末松謙澄の招待で東京に設けられた毛利家編輯所で「防長回天史」の編纂に従事し、同僚の山路愛山らと親交を深める。
中村 春堂(なかむら しゅんどう、慶応4年7月3日〈1868… 中村 春堂(なかむら しゅんどう、慶応4年7月3日〈1868年8月20日〉 - 1960年〈昭和35年〉3月14日)は、日本の能書家。漢学者中村芳平の子。豊前国仲津郡祓郷村大字田中(現在の福岡県京都郡みやこ町田中)出身。名は尚友、字は玄郷、通称を楳太郎(梅太郎)、雅号を春堂または耕心斉と称した。 旧制豊津中学校(豊津高校→現福岡県立育徳館中学校・高等学校)を経て、大分県中津町の河野私塾に学んだ後、郷里で初等教育に従事していたが、1896年(明治29年)に上京。法制局長官・末松謙澄(現行橋市出身)の推薦により内閣法典調査会に奉職した。勤務のかたわら専修学校(現専修大学)に入学して、法律学・経済学を学んだ。
岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857… 岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857年10月2日) - 昭和16年(1941年)12月20日)は技術者、日本の実業家。日本で最初の外資との合弁企業である日本電気(NEC)の創業者。勲五等。 豊前国豊津(現在の福岡県京都郡みやこ町、旧・豊津町)に小倉藩士・喜田村修蔵の次男として生まれる。兄・寛治(娘婿・喜田村朔治の養父)は豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)教師であった。 父・修蔵は岩垂家から喜田村家に婿養子として入ったが、岩垂家の後嗣がなかったため、邦彦が岩垂家を継ぐこととなった。1868年(明治元年)[要検証 – ノート]に修蔵が東京で暗殺されたため、仇討ちを志して兄とともに上京した。
飯森 辰次郎(いいもり たつじろう、1856年11月12日(… 飯森 辰次郎(いいもり たつじろう、1856年11月12日(安政3年10月15日)- 1918年(大正7年)10月12日)は、明治から大正前期の教育者、政治家。衆議院議員。 豊前国企救郡小倉城下(福岡県企救郡小倉町、小倉市を経て現北九州市小倉北区)で、小倉藩士、槍指南役・飯森辰蔵の第二子として生まれる。藩校・育徳館(現福岡県立育徳館中学校・高等学校)で学び、13歳で長崎遊学に選抜され、重野成斎(重野安繹)に師事した。 1880年(明治13年)鹿児島中学校(中学造士館の前身)の教員となり、その後、各地の旧制中学校、商業学校で教員を務め、1890年(明治23年)実業界に転じた。 1900年(明治33年)から17年間、小倉市会議員に在任し、この間、学務、水道、防疫、築港などの委員を務めた。
小川 又次(おがわ またじ、嘉永元年7月24日(1848年8… 小川 又次(おがわ またじ、嘉永元年7月24日(1848年8月22日) - 明治42年(1909年)10月20日)は、明治時代の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。幼名、助太郎。諱は長利。 小倉藩士・小川兼宣の長男。幼名は助太郎。江川塾で学んだ後、小倉藩士として長州征討に出征した。 明治3年(1870年)7月、兵学寮生徒となる。明治4年(1871年)1月、権曹長心得となり、少尉心得を経て、明治5年(1872年)2月に少尉に昇進。1874年(明治7年)4月、台湾征討軍に従軍。1875年(明治8年)1月、東京鎮台歩兵第1連隊付となる。1876年(明治9年)4月、歩兵第13連隊大隊長に就任し、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征。
奥 保鞏(おく やすかた、1847年1月5日〈弘化3年11月… 奥 保鞏(おく やすかた、1847年1月5日〈弘化3年11月19日〉- 1930年〈昭和5年〉7月19日)は、日本の陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。皇族、薩長出身者以外で最初の元帥となった。 豊前(現在の福岡県)小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男として小倉(現在の北九州市)に生まれる。幼名為次郎。15歳のとき本家・奥保義の養子となり家督を継ぐ。家系の詳細については奥家 (伯爵家)を参照。 馬廻・知行300石となって七郎左衛門と改名。小姓、物頭を務めた。 幕末は幕府側に立つ主家に従い、長州征討に参加。1869年(明治2年)1月に足軽隊長となり、翌月、東京に遊学。1871年(明治4年)5月、常備4番小隊長に就任。
小澤 武雄(おざわ たけお、1844年12月19日(天保15… 小澤 武雄(おざわ たけお、1844年12月19日(天保15年11月10日) - 1926年1月29日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・直之丞。 小倉藩士・小澤義房の長男として生まれる。1866年、第二次長州征伐において軍議役兼陣場奉行を勤める。1868年、戊辰戦争に出征し越後・会津へ転戦した。明治政府の若松民生局に出仕し、軍務官筆生、兵部少録、兵部権大録、兵部大録、兵部権少丞、兵部省7等出仕を経て、1871年、陸軍少佐に任官。第二副官、陸軍省官房長、アメリカ出張、陸軍省第1局長代理などを歴任。1877年2月から10月まで西南戦争に征討総督本営参謀として出征。 1878年11月、陸軍少将に進級。