宮園 雅敬(みやぞの まさたか、1953年〈昭和28年〉4月… 宮園 雅敬(みやぞの まさたか、1953年〈昭和28年〉4月19日 - )は、日本の実業家。 佐賀県鹿島市出身。ラ・サール中学校・高等学校を経て、1976年(昭和51年)3月、東京大学法学部を卒業。「金融を知れば世の中の仕組みが分かるのではないか」という考えと「農林水産業を支援したい」という願望から、同年4月、農林中央金庫に入庫。 入庫後、資金証券部資金課⻑、総務部総務課長、熊本支店長、総合企画部副部長、総務部副部長、秘書役、人事部長、総合企画部長などを歴任。宮園は自身の農林中央金庫職員時代について「47都道府県の生産現場を回り、生産者と膝をつき合わせた経験が金融マンとしての基礎をつくった。」とインタビューで語っている。
鍋島 綱利(なべしま つなとし、1910年4月14日 - 1… 鍋島 綱利(なべしま つなとし、1910年4月14日 - 1969年9月26日)は、日本の実業家。住友電気工業元社長。佐賀県鹿島市出身。 朝鮮総督府通信技手・鍋島鋼三の長男。1927年(昭和2年)に第五高等学校に入学、弓道部で主将を務めた。 1933年に東京帝国大学法学部を卒業し、住友電気工業に入社した。翌年には、高校の後輩でのち住友ゴム工業社長となる下川常雄も入社し、下宿先を貸し出した。1939年4月1日、第2期経理部甲種幹部候補生として陸軍経理学校に入学し、同年9月23日卒業。歩兵第56連隊(55連隊とも)附主計少尉として太平洋戦争を迎える。淡路山丸よりコタバル上陸作戦に参加。翌年2月のジョホール水道上陸作戦では自ら戦線を志願し、背中に銃創を負う。
尾崎 天風(おざき てんぷう、1886年〈明治19年〉12月… 尾崎 天風(おざき てんぷう、1886年〈明治19年〉12月25日 - 1960年〈昭和35年〉3月24日)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員。初名・百平。 佐賀県藤津郡古枝村(現鹿島市)で尾崎重吉の三男として生まれる。1898年頃、父の移住先北海道常呂郡常呂村に来住。すぐに働きはじめ、農業、出前持ち、馬橇の御者、馬喰などを経て、料理屋経営を行う。 1916年頃、釧路新聞通信所記者となる。北見実業新聞記者を経て、1920年、札幌に出て休刊中の『北海道報』を継承し『北海道新聞』(現『北海道新聞』とは異なる)に改題して経営を行う。同年4月、裁判所の許可を得て「天風」と改名した。その後、常呂郡置戸村の公有林伐採事件で検挙されて『北海道新聞』が休刊となり、釈放後上京して、雑誌「建設ノ日本」社長となった。
井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久… 井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久3年6月21日)- 1920年(大正9年)8月6日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県会議長、佐賀県藤津郡南鹿島村長。俳号・黄渓。 肥前国藤津郡高津原村(佐賀県藤津郡南鹿島村、鹿島町、現鹿島市横田)で、鹿島藩士・井原五兵衛(陶一、為助)の長男(長子)として生まれる。谷口藍田(中秋)から漢学を学び、鹿島変則中学で普通学を修めた。その後上京し、専修学校(現専修大学)で学び、慶應義塾を卒業した。1882年(明治15年)12月、家督を相続した。 1886年(明治19年)鹿島銀行の創立に参画し、佐世保支店長、取締役、頭取を歴任。
永野 静雄(ながの しずお、1850年11月18日(嘉永3年… 永野 静雄(ながの しずお、1850年11月18日(嘉永3年10月15日)- 1927年(昭和2年)4月1日)は、幕末の鹿島藩士、明治から昭和初期の官吏・実業家・政治家。衆議院議員。旧姓・愛野。 肥前国藤津郡、のちの佐賀県藤津郡南鹿島村(鹿島町を経て現鹿島市)で、鹿島藩士の愛野家に生まれる。鹿島藩校弘文館で学んだ。慶応2年(1866年)鹿島藩に副島種臣が逃れた際に原忠順の命を受け永田佐次郎と共に副島の警護に当たった。1877年(明治10年)東京の同人社を卒業した。 勧農局雇となり、その後、内務省取調局御用掛を務めた。1879年(明治12年)旧藩主鍋島直彬が沖縄県令として赴任した際に従い、沖縄県属となる。
永田 佐次郎(ながた さじろう、1850年11月10日(嘉永… 永田 佐次郎(ながた さじろう、1850年11月10日(嘉永3年10月7日)- 1928年(昭和3年)1月7日)は、幕末の鹿島藩士、明治から昭和初期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国藤津郡高津原村(佐賀県藤津郡南鹿島村大字高津原、鹿島町を経て現鹿島市横田)で、鹿島藩士・永田佐一の長男として生まれる。鹿島藩校弘文館で学んだ。慶応2年(1866年)鹿島藩に副島種臣が逃れた際に原忠順の命を受け永野静雄と共に副島の警護に当たった。藩では学校寮監、仏式練兵教師、予備隊長を務め、慶応4年(1868年)戊辰戦争で鹿島藩の北陸道出陣に従軍した。 1870年5月(明治3年4月)藩命で大阪兵学寮(のち陸軍士官学校)に入学したが、同年11月、父の病により退学した。
中村 良謙(なかむら よしかね / りょうけん、1844年1… 中村 良謙(なかむら よしかね / りょうけん、1844年11月17日〈弘化元年10月8日〉 - 1921年〈大正10年〉11月6日)は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、佐賀県藤津郡七浦村名誉職村長。幼名・與(与)一郎。 肥前国藤津郡音成村(佐賀県藤津郡七浦村音成を経て現鹿島市音成)で、鹿島藩士・中村良晴の息子として生まれる。12歳で鹿島藩校弘文館に入学。その後、諫早の蓮池良山、佐賀藩校弘道館で学んだ。天保13年(1842年)から鹿島藩の財産均等政策の影響を受けて家産に打撃を受けたが、業務に精励し質素倹約に努めた結果、家産の回復を果たした。 1889年(明治22年)6月、七浦村名誉村長に就任。