鬼ヶ谷 才治(おにがたに さいじ、1855年4月19日(安政… 鬼ヶ谷 才治(おにがたに さいじ、1855年4月19日(安政2年3月3日) - 1931年(昭和6年)2月2日)は、伊予国宇摩郡(現:愛媛県四国中央市)出身の元大相撲力士。本名は鈴木 才治(すずき さいじ)。 1855年4月19日(旧暦3月3日)に伊予国宇摩郡(現:愛媛県四国中央市)で生まれた。当初は時津風部屋(大坂相撲)に入門し、本場所に登場するまでの巡業では愛媛潟と名乗った。1886年に梅ヶ谷藤太郎 (初代)から勧誘されて東京相撲に加入することが決まると、東京相撲では雷部屋に所属し、同年1月場所に二段目(現:幕下)格付出で東京相撲の初土俵を踏んだ。1887年1月場所で新入幕を果たすと、際立った好成績を残すことは無かったが地道な努力を重ね、1891年5月場所で小結昇進、この場所を5勝3敗1分で勝ち越して翌場所も小結を務めた。
西ノ海 嘉治郎(にしのうみ かじろう、1855年2月19日(… 西ノ海 嘉治郎(にしのうみ かじろう、1855年2月19日(安政2年1月3日) - 1908年(明治41年)11月30日)は、薩摩国高城郡(現:鹿児島県薩摩川内市)出身で高砂部屋(入門時は京都相撲の鯨波部屋)に所属した大相撲力士。第16代横綱。本名は小園 嘉次郎(おぞの かじろう)。 1855年に薩摩国高城郡高城郷麓村(現在の鹿児島県薩摩川内市高城町)で農業を営む家に長男として生まれる。子供の時から土地相撲で活躍。 京都に上り、京都相撲の鯨波部屋に入門、1873年8月だった。 西ノ海嘉治郎を名乗り、1874年7月(興行は延期し9月、三都合併相撲)西三段目に出る。1876年入幕、小結まで昇進した。
猫又 三吉(ねこまた さんきち、1855年1月8日(嘉永7年… 猫又 三吉(ねこまた さんきち、1855年1月8日(嘉永7年11月20日) - 1909年(明治42年)10月9日)は越中国射水郡横田村(現・富山県高岡市横田)出身の大相撲力士。本名は江川三吉(のち八島姓)。大阪相撲で活躍し最高位は大関。珍名で知られる。 9代小野川に入門。初名を小猫 三吉と名乗り1873年(明治6年)7月中相撲四段目が初見。1876年(明治9年)の紛擾で脱走、高越山谷五郎一派に参加し猫又 三吉と改めた。 1878年(明治11年)9月の和解本場所には姿を見せず翌1879年(明治12年)9月いきなり前頭筆頭に出た。1883年(明治16年)8月小結、1884年(明治17年)9月関脇、1886年(明治19年)11月31歳で大関となった。
釈迦ヶ嶽 清一郎(しゃかがたけ せいいちろう、1855年1月… 釈迦ヶ嶽 清一郎(しゃかがたけ せいいちろう、1855年1月1日(嘉永7年11月13日) - 1929年(昭和4年)9月19日)は大和国宇智郡二見村(現・奈良県五條市二見)出身の大相撲力士。本名は西出栄治郎(のち清一郎、一時柴田姓?)。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 鏡山の弟子となり、のちに藤嶋部屋に移籍。1871年(明治4年)初土俵。初名を若柳と名乗るというが番付未確認。1875年(明治8年)6月中相撲二段目にある釈迦ヶ嶽 栄次郎が初見。1876年(明治9年)6月下の名を清一郎と改める。 1884年(明治17年)9月入幕。大柄ではないが怪力として知られた。好不調の波があり暫く停滞したが1889年(明治22年)9月関脇。
鬼鹿毛 清七(おにかげ せいしち、1855年(安政2年5月)… 鬼鹿毛 清七(おにかげ せいしち、1855年(安政2年5月)- 1931年1月15日)は、阿波国名東郡徳島寺町出身の大相撲力士。本名は末長 清七。年寄7代中川。 兄は大坂相撲で立浪と名乗る力士であり、本人も草相撲で小立浪と名乗り活躍していた。素人相撲の壽組合に入り鬼鹿毛と名乗っていた。この四股名は贔屓が化粧回しを贈ろうとしたとき、質屋に鬼鹿毛という力士の質流れの化粧回しがあり、名前を直そうとしたが無駄になるので四股名を変えたとのことである。その後大坂相撲の竹縄部屋に入り、1881年7月見習格番付外で出場。1882年9月三段目に出て鬼鹿毛清介。その後京都相撲に移り、華ノ峰善吉の弟子となる。1885年には東京相撲の梅ヶ谷の門下に入り、1885年5月幕下十枚目格番付外となる。
海山 太郎(かいざん たろう、1854年7月8日(嘉永7年6… 海山 太郎(かいざん たろう、1854年7月8日(嘉永7年6月14日) - 1926年(昭和元年)12月30日)は、高知県香南市香我美町岸本出身の大相撲力士。本名は河野 貞太郎(こうの(かわの) さだたろう)。 1854年(嘉永7年)7月8日(旧暦6月14日)に高知県香南市香我美町岸本の武士の家に生まれる。子供の時から板垣退助の相撲道場に入り、脇の磯と名乗って土地相撲で活躍する。あまりに強すぎて歯の立つ相手がいないので、「当たるもの皆散る」という意味の「皆散」というニックネームを同僚から呈上されていた。1877年(明治10年)に仲間と共に大坂相撲猪名川部屋へ加入して「皆散」を「海山」と書き換え、1879年9月場所に「海山貞吉」の四股名で新入幕を果たした。
荒馬 吉五郎(あらうま きちごろう、文化6年(1809年) … 荒馬 吉五郎(あらうま きちごろう、文化6年(1809年) - 嘉永7年5月18日(1854年6月13日))は、下総国葛飾郡(現在の千葉県船橋市本町)出身で宮城野部屋に所属した江戸時代の大相撲力士。八戸藩のお抱え力士。本名は松本。最高位は西関脇。幕内通算成績は27場所 86勝54敗29分7預4無83休。嘉永7年、現役中のまま死去。数え46歳没。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
9代 式守 伊之助(きゅうだい しきもり いのすけ、1854… 9代 式守 伊之助(きゅうだい しきもり いのすけ、1854年6月 - 1910年6月28日)は、大相撲の立行司。本名は水戸部→刀根福造。出身地は現在の栃木県栃木市。 初めは力士志望だったが、行司に転向した。6代式守伊之助に師事し、1871年3月場所で式守竹二郎の名で初めて番付に載った。その後、初代式守錦之助に改め、2代式守錦太夫から4代式守与太夫を経て、1882年1月幕内格(紅白房)。1898年5月に9代伊之助を襲名した。声や態度も凛然としていた行司だった。1910年6月28日死去。享年56。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
大達 羽左エ門(おおだて うざえもん、1854年1月13日(… 大達 羽左エ門(おおだて うざえもん、1854年1月13日(旧暦嘉永6年12月15日) - 1904年8月17日)は、出羽国田川郡(現:山形県鶴岡市)出身の元大相撲力士。5代千賀ノ浦。本名は諏訪 辯治(すわ べんじ)。最高位は西大関。 1854年1月13日(旧暦嘉永6年12月15日)に出羽国田川郡(現:山形県鶴岡市)で農家を営む家に二男として生まれる。幼少期から地元の土地相撲で活躍したことで村民から「鬼童」と呼ばれて評判だったが、大食漢・大の相撲好きが災いして家業を疎かにすることが多くなったために養子先から離縁され、本職の力士を目指して上京、立田川部屋へ入門した。1873年12月場所において序二段で初土俵を踏むが、素行が悪かったためにまもなく脱走して新潟県を放浪し、村上の酒造家で奉公しながら再び土地相撲で活躍した。
追手風 常吉(おいてかぜ つねきち、1854年(嘉永7年) … 追手風 常吉(おいてかぜ つねきち、1854年(嘉永7年) - 1919年(大正8年)8月8日)は肥前国彼杵郡三重村(現・長崎県長崎市三重町)出身の大相撲力士。本名は林(のち浜本)常吉。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 7代陣幕(陣浪)の弟子となり追手風 順吉の名で1878年(明治11年)9月脱走組番付の四段目が初見。1881年(明治14年)7月鯱鉾と改めるが1882年(明治15年)8月元の追手風に戻す。1885年(明治18年)10月入幕、1888年(明治21年)9月関脇に登り下の名を常吉と改める。1889年(明治22年)9月大関昇進。1891年(明治24年)9月二枚鑑札で10代陣幕 常重を襲名、頭取(年寄)兼務となる。
大鳴門 灘右衛門(おおなると なだえもん、1853年6月20… 大鳴門 灘右衛門(おおなると なだえもん、1853年6月20日(嘉永6年5月14日) - 1908年(明治41年)1月15日)は、淡路国津名郡塩尾(現・兵庫県淡路市)出身の大相撲力士。本名は大空 由藏。身長173cm、体重108kg。所属部屋は小野川部屋(大阪)→玉垣部屋(東京)→梅ヶ谷部屋→雷部屋。最高位は大関。剣山谷右衛門・鞆ノ平武右衛門とともに梅ヶ谷門弟三羽烏と謳われた。 淡路島に育ち最初大坂の小野川に入門、司天龍 芳五郎と名乗った。1879年(明治12年)1月初代梅ヶ谷を頼って東上、二段目に付け出された。1880年(明治13年)5月入幕、1881年(明治14年)5月小結、入幕から4場所目の1882年(明治15年)1月関脇とトントン拍子に出世した。
大綱 銀之助(おおつな ぎんのすけ、1852年6月24日(嘉… 大綱 銀之助(おおつな ぎんのすけ、1852年6月24日(嘉永5年5月7日) - 1911年)は、明治時代の大相撲力士。本名:沼波銀之助。 現在の岐阜県大垣市出身。京都相撲から高砂の門下となり1879年5月に序ノ口。1885年の新聞記事では阿武松和介門弟となっている。その後高砂部屋所属となった。 1884年5月には幕下に昇進したが幕下中位で10年一進一退だった。1891年5月最高位の幕下15枚目。1896年頃からは三段目が定位置となっている。 1893年頃からは3日ほど出場し残り2日を休場しており、若者頭を兼務していたようである。1905年頃からは常に三段目中位から下位に位置しており、若者頭を兼務しているためと思われる(同時期ののちに若者頭となった若梅も同様に三段目中位から下位に記されている)。
劔山 谷右エ門(つるぎざん たにえもん、1852年2月9日(… 劔山 谷右エ門(つるぎざん たにえもん、1852年2月9日(嘉永5年1月20日) - 1910年(明治43年)11月21日)は、阿波国麻植郡鴨島村(現・徳島県吉野川市)出身の大相撲力士。本名は吉原 熊十郎。最高位は大関。所属部屋は猪名川部屋(大阪)→梅ヶ谷のち雷部屋(東京)。身長177cm、体重120kg。 1870年(明治3年)、大坂相撲で鶴ヶ濱という力士であった父の縁での猪名川の門に入り響矢 熊吉で初土俵。1875年(明治8年)6月入幕(西前頭12)。翌1876年(明治9年)大坂相撲で脱走事件が起き、脱走組は「開化組」を名乗った。響矢も開化組に加わり大関を務めた。1878年(明治11年)9月帰参。
常陸山 虎吉(ひたちやま とらきち、1850年2月25日(嘉… 常陸山 虎吉(ひたちやま とらきち、1850年2月25日(嘉永3年1月14日) - 1915年(大正4年)11月1日)は、現在の茨城県水戸市出身で入間川部屋に所属した大相撲力士。最高位は前頭筆頭。本名は五十嵐 虎吉(後出羽ノ海姓)。4代出羽ノ海。横綱常陸山谷右エ門の師匠。 1873年(明治6年)4月入間川部屋から初土俵を踏む。徐々に番付を上げ、1878年(明治11年)5月二段目10枚目以内(現在の十両相当)昇進。1882年(明治15年)に入幕した。幕内上位から中堅で活躍し、1886年(明治19年)5月大関剣山と預かり、1891年(明治24年)1月、1892年(明治25年)1月剣山、1894年(明治27年)1月関脇朝汐を破っている。
16代 木村 庄之助(じゅうろくだい きむら しょうのすけ、… 16代 木村 庄之助(じゅうろくだい きむら しょうのすけ、嘉永2年11月12日〈1849年12月26日〉 - 明治45年〈1912年〉1月6日)は、大相撲の立行司。本名は柘→大家→柘新助。出身地は、現在の愛知県豊橋市。 吉田船町(現・豊橋市船町)で煮売屋の長男として生まれる。田舎相撲の強豪だった父親の影響で相撲に興味を持つが、体格に恵まれなかったため行司として研鑽を積むようになる。 安政6年(1859年)秋、吉田で江戸相撲の興行があり、その折に3代目清見潟に預けられ入門。13代庄之助に師事し、元治元年(1864年)4月に木村新介の名で初めて番付に載った。明治4年(1871年)4月に、3代木村龍五郎を襲名。
綾瀬川 三左エ門(あやせがわ さんざえもん、1849年(嘉永… 綾瀬川 三左エ門(あやせがわ さんざえもん、1849年(嘉永2年)または1850年(嘉永3年) - 1887年(明治20年)8月29日)は、大阪府大阪市(旧摂津国西成郡)出身で雷部屋に所属した力士。大坂相撲時代には枝川部屋、東京へ移行してからは梅ヶ谷部屋にも所属していた。本名は北井 三右衛門(後に宮下に改姓)。身長は不明、体重は95kg。小兵力士だった。最高位は東前頭5枚目。 最初は大坂相撲に所属。1885年1月、東上して東前頭9枚目格番付外でデビューした。この場所3勝2敗2休3分の好成績を挙げ、幕内に定着した。その後、2年余り相撲を取っていたが、1887年5月場所終了後の8月29日に急死した(死因及び死没場所は不明)。
梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1845年3月16日… 梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1845年3月16日(弘化2年2月9日) - 1928年(昭和3年)6月15日)は、筑前国上座郡志波村梅ヶ谷(現・福岡県朝倉市)出身で玉垣部屋(入門時は大坂相撲の湊部屋)に所属した大相撲力士。第15代横綱。本名は小江 藤太郎(おえ とうたろう)。 明治時代前期の角界の第一人者であり、「古今十傑」「明治以後の五大力士」等、相撲史上でも特筆される存在となっている。 1845年3月16日(弘化2年2月9日)に、筑前国上座郡志波村梅ヶ谷で生まれる。にわかには信じがたいが赤子の頃から石臼を引き摺るほどの怪童で、母乳や菓子より酒を欲しがったため、酒で育てられたという。
嶌田川 儀兵衞(しまだがわ ぎへえ、1844年8月 - 19… 嶌田川 儀兵衞(しまだがわ ぎへえ、1844年8月 - 1922年2月15日)は、上野国邑楽郡(現在の群馬県館林市)出身で東関部屋に所属した大相撲力士。本名は東関 庄助(あずまぜき しょうすけ)、旧姓は濱野儀兵衛(はまの ぎへえ)。 最高位は東前頭9枚目。 1844年(天保15年)生まれ。1869年染手綱で序ノ口。三段目で嶌田川と改名し、1875年幕下二段目10枚目(十両格)。負け越しが多かったが十両を維持し、1880年5月36歳で新入幕。4場所在位したが5勝しかできず1882年5月十両陥落。1886年5月41歳で引退し年寄東関を襲名。長く在職し勧進元を3回務めた。1918年横綱太刀山に年寄名跡を譲り73歳で廃業、1922年77歳で死去。
荒虎 敬之助(あらとら けいのすけ、1844年(天保14年)… 荒虎 敬之助(あらとら けいのすけ、1844年(天保14年)1月4日(旧暦11月15日) - 1882年(明治15年)9月19日)は、武蔵国北埼玉郡(現:埼玉県加須市)出身の元大相撲力士。本名は小室 敬之助(こむろ けいのすけ)。 幼少期から相撲好きで身体も大きく、古川藩の二人の侍と喧嘩した際には相手を掴んで拍子木のように打ち合わせたと伝わる。若藤部屋に入門し、1865年2月場所で序ノ口から初土俵を踏むと1871年3月場所で新十両に昇進、1874年12月場所で新入幕を果たした。突っ張って動き回る取り口で幕内での勝率は5割前後で推移したが、精悍な容貌で人気があり、当時の力士としては珍しく読み書きができ、数理に明るかった。
8代 式守 伊之助(はちだい しきもり いのすけ、天保14年… 8代 式守 伊之助(はちだい しきもり いのすけ、天保14年5月14日(1843年6月11日) - 明治30年(1897年)12月18日)は、大相撲の立行司。本名は後藤文次郎(与太夫)。出身地は現在の岩手県北上市。 6代式守伊之助の弟子。初代の式守錦太夫で、安政3年(1856年)11月に初めて番付に載る。明治4年(1871年)3月に3代式守与太夫を襲名し、地道に昇進していった。明治17年(1884年)5月に8代式守伊之助を襲名。1年後に次席となった。堅実な軍配裁きに定評があった。明治30年(1897年)12月18日死去した。享年54。墓所は東京都江東区の万徳院。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
勝ノ浦 与一右エ門(かつのうら よいちえもん、1843年〈天… 勝ノ浦 与一右エ門(かつのうら よいちえもん、1843年〈天保14年〉 - 1888年〈明治21年〉7月22日)は、勝ノ浦部屋及び境川部屋に所属した力士。 本名は吉井→川島 力之助。身長162cm,体重105kg(成人時)。出身地は現在の千葉県山武市(旧・上総国武射郡)。 最高位は東前頭筆頭。 農家の次男として出生。子供の時から体格が大きく、怪童力士として1850年11月に初土俵を踏んだ。当時数え8歳で、121cm,68kgあったと伝わる。嘉永年間は土俵入りのみだった(番付上は西張出前頭。当時の四股名は鬼若力之助だった)が、1860年10月に序ノ口として相撲を取り始めた。最初は苦労したが、明治に入って力を付け始め、1870年4月に十両昇進(西二段目7枚目となり十両相当となった)。
大纒 長吉(おおまとい ちょうきち、1843年(天保14年)… 大纒 長吉(おおまとい ちょうきち、1843年(天保14年) - 1889年(明治22年)12月2日)は、現在の東京都出身で玉垣部屋に所属した大相撲力士。本名は竹馬 長吉。7代出来山。最高位は関脇。 実家は神田の蕎麦屋で、幼少期から体が大きく、玉垣部屋に入門。1856年(安政3年)1月に怪童力士として1場所だけ番付に載り、土俵入りをつとめた。翌1857年(安政4年)に角界に入り直し、11月場所で序ノ口に就いた。1867年(慶応3年)に入幕し、同期、同時入幕の境川浪右衛門(のち横綱)と出世を争い、その取組は人気を集めた。番付を順調に上げ、1869年(明治2年)4月に小結に昇進、8年に渡って三役の座を維持し、1871年(明治4年)3月関脇に昇進した。
淀川 音吉(よどがわ おときち、1842年9月13日(天保1… 淀川 音吉(よどがわ おときち、1842年9月13日(天保13年8月9日) - 1915年(大正4年)2月17日)は、明治時代の大相撲力士。本名:松崎音吉。年寄白玉。讃岐国丸亀(現・香川県丸亀市)出身。 数え21 - 22歳ごろに江戸へ出て雷の弟子となったと伝えられ、数え27歳の1868年5月に讃岐川で序ノ口1871年11月に幕下に昇進と比較的早い出世であったがその後幕下に低迷した。1877年頃和田ノ森との対戦で、40回以上の仕切りとなり審判が預かりとしようとしたが、仕切りの形が和田ノ森のほうが良かったということで和田ノ森の勝ちとなったことがある。1878年5月に幕下二段目12枚目の最高位に昇進。
若嶌 久三郎(わかしま きゅうざぶろう、1842年9月 - … 若嶌 久三郎(わかしま きゅうざぶろう、1842年9月 - 1891年1月6日)は、福島県会津若松市出身の大相撲力士。本名は小沢 久三郎(旧姓根本)。最高位は大関。現役時代の体格は174cm、113kg。福島県出身の力士でただ一人大関になっている。 漆器塗師の二男として生まれ、家業を手伝いながら宮相撲で活躍していた。江戸に出て5代楯山(元・大槇)に入門、文久元年(1861年)10月場所で初土俵を踏んだ。押し相撲を得意としたが取り口が慎重すぎたためか出世が遅く、幕下十枚目(十両)内に入ったのが明治3年(1870年)11月場所、入幕は明治7年(1874年)3月場所ですでに数え年で33歳になっていた。
小ノヶ崎 仙吉(おのがさき せんきち、1842年〈天保13年… 小ノヶ崎 仙吉(おのがさき せんきち、1842年〈天保13年〉 - 1877年〈明治10年〉4月24日)は、尾張国中島郡(現在の愛知県一宮市)出身で境川部屋に所属した元力士。本名は山田 仙吉(安吉とする資料もある)。身長・体重は不明。最高位は東前頭5枚目。 故郷の尾張藩では良く働く親孝行者だったが、突然として江戸へ行って入門した。1867年11月場所で初土俵(序ノ口)を踏んだ。1873年12月場所で、尾張藩のお抱え力士となり、東十両7枚目(十枚目格)に昇進。十両では5割強の勝率だったが、番付運に恵まれ順調に昇進を重ねた。1876年4月場所で、新入幕を果たした。國見山半五郎,甲喜三郎と共に「尾張三人衆」との呼び名が高く、将来を大いに期待されたが、翌1877年1月場所後の4月24日に36歳(満34歳)で急死。
雷電 震右エ門(らいでん しんえもん、1842年 - 188… 雷電 震右エ門(らいでん しんえもん、1842年 - 1884年11月16日)は、能登国羽咋郡(現在の石川県羽咋市)出身で千賀ノ浦部屋(入門時は阿武松部屋)に所属した大相撲力士。本名は和吉→楠 和助。現役時代の体格は身長177cm、体重125kg。得意手は突き、押し。最高位は大関。 史上最強と言われる雷電爲右エ門引退後、ただ一人雷電の四股名を名乗った人物である。彼以後、雷電の名を名乗る力士はおらず、止め名となっている。 文久2年(1862年)ごろ江戸に出て、3代阿武松(元松ヶ枝)のもとに入門したと伝わる。元治元年(1864年)4月場所に序ノ口から初土俵。四股名は初め「槇割」、のち「里神楽」から「北ノ浦」、「兜山」と次々替わるが実力は高く評価されており、まだ入幕もしていないのに姫路藩お抱え力士になったほどである。
境川 浪右衛門(さかいがわ なみえもん、1841年5月28日… 境川 浪右衛門(さかいがわ なみえもん、1841年5月28日(天保12年4月8日) - 1887年(明治20年)9月16日)は、下総国葛飾郡(現・千葉県市川市高谷)出身で境川部屋に所属した大相撲力士。第14代横綱。本名は宇田川 政吉(うだがわ せいきち(まさきち))で、のちに市川 政吉(いちかわ - )から市川 浪右衛門( - なみえもん)。 1841年に下総国葛飾郡(現:千葉県市川市)で製塩業を営む家に三男として生まれる。13歳で江戸・新川(現:東京都中央区新川)にあった酒問屋「小西屋」に奉公へ出たが、四斗樽を楽々と運ぶ政吉を見た相撲好きの主人が力士転向を熱心に勧め、境川部屋に入門、1857年11月場所で初土俵を踏んだ。
八尾ヶ関 周藏(やおがせき しゅうぞう、1841年(天保12… 八尾ヶ関 周藏(やおがせき しゅうぞう、1841年(天保12年) - 1909年(明治42年)12月13日)は尾張国海東郡佐織村草平(現・愛知県愛西市草平町)出身の大相撲力士。本名は京谷周蔵。大阪相撲で活躍し最高位は大関。 三保ヶ関に入門し、初名は平勇と名乗る。1869年(明治2年)3月二段目で黒柳、1870年(明治3年)3月八尾ヶ関と改め1871年(明治4年)6月東前頭12枚目となる。 1876年(明治9年)6月小結、1877年(明治10年)9月も同地位だったが場所前の紛擾で多くの力士が脱走したため1878年(明治11年)9月幸運にも残留組番付の大関となる。 その後2場所張り出され1880年(明治13年)9月限りで引退。
朝日嶽 鶴之助(あさひだけ つるのすけ、1840年(1838… 朝日嶽 鶴之助(あさひだけ つるのすけ、1840年(1838年説も) - 1882年4月4日)は、山形県鶴岡市出身(生地は現在の新潟県村上市)の大相撲力士。本名は本間→佐藤 庄蔵、本間姓の前の苗字は不明。最高位は大関。現役時代の体格は180cm、113kgと伝わる。 越後国の農家に生まれ、漁師に奉公に出された。庄内藩出入りの船人足として働いていたところが藩主の目に止まり、藩主の勧めで同郷の立田川(7代、元関脇常山五良治)に入門した。初土俵は万延元年(1860年)10月場所、幕下二段目に付け出された。最初の四股名は「由良ノ海庄蔵」だが、文久2年(1862年)2月に朝日嶽と改名した。朝日嶽の名は地元の名山大朝日岳に因んだ。
15代 木村 庄之助(じゅうごだい きむら しょうのすけ、天… 15代 木村 庄之助(じゅうごだい きむら しょうのすけ、天保10年10月20日(1839年11月25日) - 明治30年(1897年)9月22日)は、大相撲の立行司。本名は深山八三郎。出身地は東京都江東区富岡。 11代木村庄之助に入門、1850年11月木村八三郎の名で番付に載る。のち木村瀬平(3代目、正三郎改め)の所属となる。木村角次郎(角治郎)から1864年10月に木村庄三郎(4代目)を襲名。1885年5月に先代の庄之助の死去に伴い、15代目木村庄之助を襲名した。人物、見識に優れ、故事に精通していた。横綱初代梅ヶ谷の信頼厚く、横綱土俵入りを許されると土俵入りに従った。年寄木村松翁を兼務。1897年9月22日現役没。
高砂 浦五郎(たかさご うらごろう、天保9年11月20日(1… 高砂 浦五郎(たかさご うらごろう、天保9年11月20日(1839年1月5日) - 明治33年(1900年)4月8日)は、上総国山辺郡(現在の千葉県東金市)出身で明治期の大相撲力士・年寄。最高位は前頭筆頭。身長170cm、体重100kg。本名は山崎 (後に一時今井姓)伊之助(後に浦五郎)。現在まで続く高砂部屋の開祖である。 農家の三男で土地相撲で活躍し、20代半ばで妻子ある身ながら江戸へ出て、3代阿武松庄吉の門下に入った。東海大之助の初名で1863年(文久3年)8月場所に初土俵を踏み、1865年(元治2年)に序ノ口についた。1867年(慶応3年)に三段目に昇進、ここで姫路藩のお抱え力士になり「高見山大五郎」の四股名を名乗るようになった。
小柳 常吉(こやなぎ つねきち、1838年〈天保9年〉 - … 小柳 常吉(こやなぎ つねきち、1838年〈天保9年〉 - 1881年〈明治14年〉8月20日)は、阿武松部屋、武隈部屋、鬼面山部屋に所属した元力士。本名は御簾生 春吉(御簾納とする資料もある)。上総国市原郡戸田村岩崎(現在の千葉県市原市南岩崎)出身。身長170cm・体重115kg。最高位は西関脇。 1858年1月場所で初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1861年10月場所5日目に千草山と改名し、徳島藩のお抱え力士となった。1866年3月場所で東十両9枚目(十枚目格)に昇進。その場所で、いきなり7勝1敗の優勝次点の好成績を挙げた(優勝相当成績は同じ徳島藩お抱えの千羽ヶ嶽兵右エ門〈8勝1分け〉)。
八陣 信蔵(はちじん しんぞう、1837年8月13日(天保8… 八陣 信蔵(はちじん しんぞう、1837年8月13日(天保8年7月13日) - 1902年(明治35年)1月9日)は淡路国津名郡尾崎村(現・兵庫県淡路市)出身の大相撲力士。本名は岩井 信蔵。所属部屋は小野川部屋(大坂)玉垣部屋(江戸)。大坂相撲で最初の横綱となった。吉田司家の免許ではないため日本相撲協会公認の横綱には加えられていない。 淡路島の農家に育ち大坂に出て8代小野川に入門、1859年(安政6年)7月白藤 信蔵で中相撲三段目に名を出す。1860年玉龍と改める。この頃既に人気となっており、1861年(文久元年)評判を聞いた阿波藩に抱えられ江戸行きを命じられて10月場所幕下に付け出される。翌1862年(文久2年)蜂須賀公から黒神 玉之助の四股名を賜ったが同年11月を最後に江戸では出場していない。
投石 菊治郎(なげいし きくじろう、1837年〈天保8年〉 … 投石 菊治郎(なげいし きくじろう、1837年〈天保8年〉 - 1887年〈明治20年〉6月22日)は、讃岐国豊田郡(現在の香川県観音寺市)出身で雷部屋、音羽山部屋、井筒部屋に所属した力士。本名は長田 菊治郎。6代井筒。最高位は西前頭4枚目。身長体重は不明。 1860年3月に雷部屋から初土俵を踏んだ。のちに雷部屋と縁が深い音羽山部屋に転籍し、十両昇進は初土俵から11年が経った1871年3月のことである。十両で4年が経過した1875年4月、東十両筆頭の地位で6勝3敗の成績を上げて同成績の藤田川利助と優勝を分け合い(ただし番付上位の投石が優勝扱い)、1876年1月に新入幕を果たした。1878年に師匠の8代音羽山が亡くなり、1879年1月以降は年寄・井筒として二枚鑑札となった。
木村 瀬平(きむら せへい、1837年 - 1905年2月5… 木村 瀬平(きむら せへい、1837年 - 1905年2月5日)は、明治時代の大相撲の立行司。本名:柴崎留吉。下総国岡田郡豊岡村(のち茨城県結城郡豊岡村→水海道町→水海道市、現・常総市)出身。 1846年12代木村庄之助に入門し、1850年11月木村留吉、正五郎、のち庄五郎となる。1881年三役格。1884年緋房免許で同じころ年寄木瀬を兼務。1891年行司名も木村瀬平と改める。1893年に番付面に不満があり、一時引退したが1895年に復帰。1897年に15代木村庄之助と8代式守伊之助が相次いで亡くなり、翌1898年5月に9代式守伊之助と同時に立行司となった。1899年3月吉田司家より紫房の免許が下り、その後1905年の死去まで16代木村庄之助と9代式守伊之助の間で立行司であった。
四海波 静太夫(しかいなみ せいだゆう、1836年4月16日… 四海波 静太夫(しかいなみ せいだゆう、1836年4月16日(天保7年3月1日) - 1883年(明治16年)11月1日)は、伊勢国員弁郡(現在の三重県いなべ市員弁町大泉)出身で境川部屋、宮城野部屋、再度境川部屋に所属した力士。本名は水谷 清八。2代鏡山。身長体重不明。最高位は東前頭2枚目。 1859年11月境川部屋に入門し、故郷の大泉を四股名にしたが、伊勢ノ濱大五郎に改名。期待をされて盛岡藩の抱えになった。1871年4月、34歳で入幕。宮城野部屋に転籍して荒馬大五郎に改める(宮城野の婿になった為)。その後巡業中の女性問題から破門、同時に離縁され、四海波に改名して古巣に復帰。幕内上位を保っていたが三役昇進はならず、1879年6月限りで引退し鏡山を襲名。
象ヶ鼻 平助(ぞうがはな へいすけ、1836年(天保7年) … 象ヶ鼻 平助(ぞうがはな へいすけ、1836年(天保7年) - 1890年(明治23年)3月18日)は、安房国館山(現・千葉県館山市)出身の大相撲力士。最高位は大関。身長171cm、体重103kg。所属部屋は谷川部屋→雷部屋→高砂改正組。幸運かつ異例なスピード出世で知られる。 元幕下二段目・鍬形の4代谷川の門人となり1859年(安政6年)11月鍬形 平次の名で幕下に付出される。1861年(万延2年)轟 平助と改め1866年(慶応2年)11月場所4日目より丸亀藩の抱えとなり象ヶ鼻 平助を名乗る。1868年(慶応4年)6月入幕。1870年(明治3年)4月小結を飛ばして関脇、翌1871年(明治4年)3月鬼面山谷五郎の引退を受けて大関に昇進。
綾瀬川 山左エ門(あやせがわ さんざえもん、1835年10月… 綾瀬川 山左エ門(あやせがわ さんざえもん、1835年10月 - 1877年3月8日)は、大阪府大阪市中央区(愛知県稲沢市説も)出身の大相撲力士。最高位は大関。本名は川村 藤次郎。現役時代の体格は173cm、113kgと伝わる。 生地は摂津国東成郡とも、尾張国中島郡ともされている(幸国寺の墓誌によれば前者)。はじめは大坂相撲の湊(8代横綱不知火諾右エ門)の門下にあって「登り舟」「達ノ森」の四股名で取っていたが、のちに江戸へ移り9代横綱秀ノ山に入門、江戸相撲ゆかりの「達ヶ関」の名で文久元年(1861年)10月場所で番付の幕下二段目に付け出される。秀ノ山門下には強豪陣幕(のちの12代横綱)らがおり、稽古をつけてもらううちに頭角を現し慶応2年(1866年)3月には幕下力士でありながら姫路藩のお抱えとなり、名を姫路藩の景勝相生の松に因んだ相生松五郎と改めた。
盤石 力勝(ばんじゃく りきかつ、1834年〈天保5年〉 -… 盤石 力勝(ばんじゃく りきかつ、1834年〈天保5年〉 - 1875年〈明治8年〉10月15日)は、木瀬部屋,錦戸部屋に所属した元力士。江戸時代最後の新入幕力士である。 本名は古茶とのみ伝わっている(姓か名かは不明)。上総国市原郡養老村(現在の千葉県市原市養老)出身。身長・体重は不明。 最高位は西前頭筆頭。 津藩のお抱え力士として、1857年11月場所で初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1863年7月場所で、西十両9枚目(十枚目格)に昇進。十両時代は5割程度の勝率だったこともあり、比較的ゆっくりと昇進を重ねていった。1867年6月場所で、新入幕を果たした(ちなみに前述の通り、江戸時代最後の新入幕力士となった)。
陣幕 久五郎(じんまく きゅうごろう、文政12年5月3日(1… 陣幕 久五郎(じんまく きゅうごろう、文政12年5月3日(1829年6月4日) - 明治36年(1903年)10月21日)は、出雲国意宇郡意東村(現・島根県松江市東出雲町下意東)出身で秀ノ山部屋(入門時は滝登部屋)に所属した大相撲力士。第12代横綱(江戸最後の横綱)。本名は石倉 槇太郎(いしくら まきたろう)。 「負けず屋」と言われた強豪で、明治維新の後に大阪頭取総長となり横綱の代数を創案した。 文政12年5月3日(1829年6月4日)に、出雲国意宇郡意東村の農家に生まれる。14歳だったある日、兄と友人の3人で小舟に乗って海釣りを楽しんでいると、昇った月が3個に分割してその間に3個の星が出ているのが見え、左から右へ旋回する様子が15分ほど見られた。
常盤山 小平治(ときわやま こへいじ、1826年〈文政9年〉… 常盤山 小平治(ときわやま こへいじ、1826年〈文政9年〉 - 1869年10月2日〈明治2年8月27日〉)は、現在の長崎県南島原市(旧・肥前国高来郡)出身の大相撲力士。本名、身長、体重は不明。最高位は西関脇。常盤山部屋及び玉垣部屋に所属した。鷲ヶ濱音右エ門の岳父に当たる。 1851年4月から1852年閏2月までは八戸藩、1852年11月以降は島原藩のお抱えだった。岳父が自殺して嫌疑を受けたので脱藩したが、途中で参勤行列と出合い、運良く同郷の者が居たので一行に加えてくれるように頼み、怪力を買われて駕籠担ぎとして加わった。江戸に出てからは仲間として働いていたが怪力を見出され、勧誘されて入門した。
宮城野 馬五郎(みやぎの うまごろう、1826年(文政9年)… 宮城野 馬五郎(みやぎの うまごろう、1826年(文政9年) - 1889年(明治22年)8月17日)は、伊勢国三重郡(現在の三重県四日市市)出身で宮城野部屋に所属した力士。本名は宮城野 馬五郎(旧姓近藤)。4代宮城野。身長体重不明。最高位は東小結。 1844年1月に宮城野部屋に入門し、一時は八戸藩の抱えになるほどに期待をされた。しかしなかなか番付が上がらず、入幕を果たしたのは1858年11月で既に数え33歳であった。師匠の元の四股名の荒馬大五郎を名乗り幕内を務めたが、引き分け・預かりが多く番付は小康状態であった。1866年に二枚鑑札となり、その後1868年7月に数え43歳で小結に昇進している。
東関 庄助(あずまぜき しょうすけ、1824年 - 1885… 東関 庄助(あずまぜき しょうすけ、1824年 - 1885年7月10日)は、現在の栃木県足利市(下野国安蘇郡)出身で東関部屋に所属した力士。本名は東関 庄助(旧名は不明)。5代東関。身長、体重不明。最高位は東関脇。 東関部屋に入門し、1846年11月初土俵を踏む。当時は4代目東関であったが、3代東関は本人と同じく下野国安蘇郡(現在の佐野市)出身の元前頭・東関勝五郎であった。1862年11月に入幕を果たし、以来17場所幕内を務める。1868年には小結に、1870年4月に関脇に昇進、11月は二枚鑑札の関脇であったが、この場所限りで力士を引退した。不動明王のような顔付きをしていたという。また、二枚鑑札前の四股名は嶌田川又吉で、のちに弟子で6代東関の嶌田川儀兵衞が名乗った。
雲龍 久吉(うんりゅう きゅうきち(ひさきち)、1823年 … 雲龍 久吉(うんりゅう きゅうきち(ひさきち)、1823年 - 1890年6月15日)は、筑後国山門郡大和村(現:福岡県柳川市)出身で追手風部屋(入門時は陣幕部屋)に所属した大相撲力士。第10代横綱。本名は塩塚 久吉で、のちに佐藤 喜太郎と名乗る。 1823年に筑後国山門郡で半農半漁を営む家の長男として生まれたが、1835年に大流行した疫病で両親・祖母を相次いで失ったため、生来の怪力を活かして力仕事をこなし、幼い弟と妹を養った。やがて力仕事だけでは養っていけなくなり、土地相撲で頭取を務めていた小櫻(京都相撲の元力士だったと伝わる)、箕嶋に指導を受けた。 やがて、土地相撲から陣幕部屋(大坂相撲)に入門したが、1846年に江戸へ出て江戸相撲・追手風の弟子となり、1848年11月場所において幕下二段目付け出しで初土俵を踏むと同時に、柳川藩の抱え力士となる。
錦木 塚右エ門(にしきぎ つかえもん、1822年〈文政5年〉… 錦木 塚右エ門(にしきぎ つかえもん、1822年〈文政5年〉 - 1861年12月27日〈文久元年11月26日〉)は、現在の岩手県北上市(旧・陸奥国和賀郡)出身で二所ノ関部屋に所属した力士。本名は工藤とのみ伝わっている。身長、体重ともに不明。最高位は西前頭筆頭。南部藩の抱えであった。 最初は南部相撲で相撲人生をスタートさせた。1845年3月に初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1852年11月西二段目8枚目にあがり、現在でいう十枚目昇進を果たす。この場所、6勝3敗1預の優勝次点という好成績を挙げた。1856年11月場所で新入幕を果たした。幕内では目立った成績を残せず、勝ち越しも一度きり(西前頭4枚目だった1859年11月場所)と芳しくなかった。
杣ヶ花 渕右エ門(そまがはな ふちえもん、1818年(文政元… 杣ヶ花 渕右エ門(そまがはな ふちえもん、1818年(文政元年) - 1849年10月12日(嘉永2年8月26日))は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県鴻巣市)出身で雷部屋に所属した力士。本名は岡戸、諱は不明。身長体重不明。最高位は東前頭5枚目。 1837年1月に雷部屋から初土俵を踏み、1846年11月、数え29歳にして入幕を果たした。入幕までは時間がかかったが、入幕後は実力を発揮、1849年3月に5枚目まで番付を上げたが、8月に巡業中の庄野宿で現役中のまま没した。兄弟の孫に紅葉川孝市がいる。 幕内6場所23勝19敗11休7分預 紅葉川浪藏→杣ヶ花渕右エ門
寶川 石五郎(たからがわ いしごろう、1816年〈文化13年… 寶川 石五郎(たからがわ いしごろう、1816年〈文化13年〉 - 1858年8月26日〈安政5年7月18日〉)は、雷部屋に所属した力士。大坂相撲時代には朝日山部屋、東京へ移行してからは粂川部屋にも所属していた。本名は佐伯 石五郎。 身長,体重とも不明だが、体格は大きく3尺(約90cm)の入り口では常に体を斜めにして入ったと伝わる。出身地は現在の香川県観音寺市(旧・讃岐国豊田郡。 最高位は西前頭筆頭。丸亀藩の抱え。 最初は4代朝日山(真鸖政吉)の弟子として大坂相撲で取り、その後東上して1840年10月初土俵(序二段附出し)。1848年1月新十両(東二段目10枚目となり十両相当となった)。1849年3月場所では7勝1敗1分の好成績を挙げ、優勝相当成績を挙げた。
一力 長五郎(いちりき ちょうごろう、1815年(文化12年… 一力 長五郎(いちりき ちょうごろう、1815年(文化12年) - 1859年9月21日(旧暦8月25日))は、常陸国河内郡若柴村(現在の茨城県龍ケ崎市若柴)出身で木瀬部屋に所属した大相撲力士。本名は山崎 安好(やまざき やすよし)。 常陸国河内郡若柴村で生まれる。1837年10月場所において序ノ口から初土俵を踏み、1849年11月場所で新入幕を果たした。結果的に三役昇進は果たせなかったものの、劔山谷右エ門、小柳常吉に強く、両者には無敗だったことから江戸相撲の中では「大物食い」として名を馳せた。1859年に奥州・一ノ関で行われた巡業に参加中、急逝した。44歳没。死因は病死または斬殺と伝わる。 出身地である龍ケ崎市若柴の星宮神社には、一力が奉納したと伝わる灯篭2基が残っている。
黒岩 壽太郎(くろいわ じゅたろう、1814年(文化11年)… 黒岩 壽太郎(くろいわ じゅたろう、1814年(文化11年) - 1857年6月13日(安政4年5月22日))は、讃岐国香川郡(現・香川県高松市錦町)出身の大相撲力士。本名は不明。幕末屈指の強豪でありながら不幸にも三役に登れぬまま現役で亡くなった。最高位西前頭筆頭。 始め大坂相撲の5代押尾川に入門。のち江戸に下り7代雷の弟子となり1845年(弘化2年)10月二段目に付け出される。好成績を残しながら番付はあまり上がらなかったが1849年(嘉永2年)11月相撲会所の英断により二段目11枚目から一躍入幕を果たした。 入幕後も期待に応え大関小柳常吉に3勝1敗4分、のちの大関猪王山森右エ門に4勝2敗3分1預、のちの横綱雲龍久吉に1勝1敗5分と強豪相手に一歩も譲らぬ活躍を見せた。
嚴嶋 関右エ門(いつくしま せきえもん、1810年 - 18… 嚴嶋 関右エ門(いつくしま せきえもん、1810年 - 1854年5月9日(旧暦4月13日))は、香川県丸亀市出身の元大相撲力士。本名は不明。 1810年に香川県丸亀市で生まれる。1834年11月場所において雷部屋から丸亀藩の抱え力士として初土俵を踏む。1844年10月場所で新十両昇進を果たした。現役中の1854年2月場所で二枚鑑札によって2代・稲川を襲名したが、2月場所終了から間もない同年4月13日(旧暦)に入水自殺を遂げた。45歳没。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。