羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22… 羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22日 - 大正10年(1921年)12月5日)は、幕末期の武士(庄内藩士)、郷土史研究家。慶應義塾大学図書館に勤務して考古学、民俗学、人類学を研究・編纂し「奥羽人類学会」を創設した。号は千瓢庵猿面、別名は久明または良策。 飽海郡(現・酒田市松山地区)に、庄内藩の医師・羽柴服笥(養倫)の子として生まれる。阿部灌策や海保弁之助に漢学を学び、慶応4年(1868年)7月、戊辰戦争に二番大隊軍監兼参謀として出征。敗戦後、庄内藩に対して朝敵の汚名を着せた官軍を批判した論文『東北人謬見考評論』を発表する。松山藩の家老であった松森胤保とも親交があった。旧松山藩校・里仁館の教師などを経て、成興野、狩川、大広、鼠ケ関各小学校の教師を勤める。
北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永… 北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永2年8月5日)- 1905年(明治38年)7月26日)は、幕末の米沢藩士、明治期の裁判官・検察官。官選岩手県知事。位階は従四位、勲等は勲三等。旧名・河村徳次。 出羽国置賜郡米沢館山口町(現:山形県米沢市)で米沢藩士・河村徳友の二男として生まれ、万延元年(1860年)北条源四郎と「はる」の養子となる。戊辰戦争では、振勇隊士官として板谷峠防禦陣地の構築に従事した。 明治4年(1871年)上京して築地の明治協會学院に入学しドイツ語を学ぶ。明治政府に出仕し、明治5年4月4日(1872年5月10日)東京府権区長に就任。その後、警視庁で権中警部などを務めた。
曾根 俊虎(そね としとら、1847年11月13日〈弘化4年… 曾根 俊虎(そね としとら、1847年11月13日〈弘化4年10月6日〉 - 1910年〈明治43年〉5月30日)は、幕末期の武士(米沢藩士)、大日本帝国海軍大尉、号は暗雲、中国名は曾嘯雲。幼名は小太郎。近代日本史におけるアジア主義の中の最重要人物とされ、興亜会の創立者としてよく知られている。 米沢藩の儒者・曽根敬一郎の子。曽根家は明治元年まで代々上杉家の家臣(馬廻組)を勤め、戊辰戦争後に父・魯庵を失った後、俊虎は百五十石を賜っている。藩校興譲館で漢学を学び、雲井龍雄の感化を受けた。戊辰戦争で父を失った後、米沢で渡辺洪基に英学を学び、さらに江戸に出て慶應義塾に入り、福澤諭吉・吉田賢輔に洋学を学んだ。
小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年)… 小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年) - 1917年(大正6年)3月13日)は、幕末の米沢藩士、明治期の海軍法務官。初期海軍の法制度確立に努め、海軍省法務部長に至る。また郷里の後進を海軍に勧誘し、米沢海軍の祖とされる人物である。米沢有為会第二代会長。 旧名は宮島琢蔵。父は米沢藩右筆・宮島吉利、兄は宮島誠一郎である。 明治維新後に米沢藩少属となり、次いで兵部省海軍所文官に採用され、海軍省発足とともに海軍大録に任じられた。小森沢の海軍入りは兄の宮島誠一郎と親しかった勝海舟の影響があったともいわれる。 長く海軍大臣を務めた西郷従道の知己を得たといわれ、1877年(明治10年)太政官権大書記官、翌年には海軍大書記官を兼ねる。
下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842… 下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842年8月29日(天保13年7月24日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、幕末の米沢藩士、明治・大正期の海軍軍人、政治家、日本画家。最終階級は海軍主計大佐。貴族院勅選議員。雅号・桂谷(けいこく)。 出羽国置賜郡米沢(現山形県米沢市)で、米沢藩士・下条半兵衛の長男として生まれ、慶応2年6月(1866年)下条武兵衛の養子となり家督を相続。明治2年12月(1870年1月)権少属任官。1873年以降、海軍少秘書、同大秘書、同少書記官、同主計少監、同督買部理事官、横須賀鎮守府会計監督部長、佐世保鎮守府主計部長、海軍主計学校長、海軍部内の諸課長、海軍主計大監等を歴任し、1893年5月予備役に編入。
池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840… 池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840年6月25日〉 - 大正元年〈1912年〉10月11日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、実業家。 三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬は長男。 出羽米沢藩士五十騎組香坂昌邦の三男として生まれ、1864年(元治元年)に同じく藩士の五十騎組池田峰蔵の養子となった。 初め、貞吉、丈八と改め、のちに新次郎、さらに成章と改めた。 藩校興譲館で書・文学を学び、上杉茂憲の小姓となる。町奉行[要出典]、江戸留守居役を歴任。茂憲の側役として麻布邸に起居し、甘糟継成と行動を共にし、ここで慶應義塾の福澤諭吉や小幡篤次郎、シーボルトを初めとする人物らと知己を得た。
石井 武膳(いしい ぶぜん、文政2年7月5日(1819年8月… 石井 武膳(いしい ぶぜん、文政2年7月5日(1819年8月25日)- 明治14年(1881年)10月17日)は、庄内藩士、大泉藩権少参事。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大山 庄太夫(おおやま しょうだゆう、文化5年(1808年)… 大山 庄太夫(おおやま しょうだゆう、文化5年(1808年)- 慶応2年11月13日(1866年12月19日))は、江戸時代後期から末期の庄内藩士。留守居役。
犬塚 盛巍(いぬづか もりたか、生年不明 - 1896年〈明… 犬塚 盛巍(いぬづか もりたか、生年不明 - 1896年〈明治29年〉12月17日)は、庄内藩士。周旋方。日本の司法官僚。検察官。検事長。従三位勲三等。 犬塚盛直(父)と海老名美寿(母)の長男として生まれる。庄内藩士となり戊辰戦争時に周旋方に任じられた。明治3年8月、藩主酒井忠篤の命により、長沢惟和と共に、旧鹿児島藩主島津忠義と西郷隆盛に書簡を届け、鹿児島藩兵器製造所等を視察した。後に司法省に入省し検察官となり、累進して明治19年に大阪控訴院検事長、明治23年には宮城控訴院検事長に就任した。明治29年12月17日、薨去。 衆議院議員及び貴族院議員を務めた犬塚勝太郎は長男。三井物産常任監査役を務めた犬塚勝之丞は次男。
善野 秀(ぜんの しゅう)は、幕末から明治時代にかけての武士… 善野 秀(ぜんの しゅう)は、幕末から明治時代にかけての武士、儒学者、政治家。本姓は高山、旧名は司(つかさ)、通称は勝右衛門、号は霞城。足利藩士、足利藩権大参事。 文政5年(1825年)、出羽国山形藩士・高山新兵衛の次男として山形で生まれる。秋元氏が館林藩に転封となったため館林に移り住んだ。 天保14年(1843年)に江戸に遊学し、長戸得斎や林大学頭に師事。安政2年(1855年)31歳のとき足利藩士・善野勝右衛門家の養子に迎えられ、勝右衛門を襲名。文久元年(1861年)、37歳で栃木町の栃木陣屋奉行となった。 元治元年(1864年)、栃木町は天狗党の乱において田中愿蔵の放火に遭い、大部分を焼失。