ねづっち(1975年2月18日 - )は、日本のお笑いタレン… ねづっち(1975年2月18日 - )は、日本のお笑いタレント、漫談家。漫才協会・落語芸術協会所属。所属事務所はプロデューサーハウスあ・うん。東京都日野市出身。血液型O型。既婚。出囃子は「ずいずいずっころばし」。本名は根津 俊弘(ねづ としひろ)。 小学校の頃から「ねづっち」と呼ばれ、中学校時代からお笑いの道を目指すようになった。日本大学明誠高等学校時代は柔道部に所属し、柔道三段の段位を有する。古文が好きになった影響で、一時は国語教師を志望したが、大学受験に失敗して断念。一浪した後、東洋大学法学部に進学した。なお、落研に所属していた経験はない。大学在学中に、お笑いのライブに誘われたことがきっかけで、再びお笑い芸人を志すようになった。
ホーキング青山(ホーキング あおやま、本名:青山 世多加(あ… ホーキング青山(ホーキング あおやま、本名:青山 世多加(あおやま せだか)、1973年12月7日 - 2023年12月12日)は、日本のお笑いタレント、漫談家、作家。 東京都大田区出身。芸名は理論物理学者で青山と同じく両手両足が不自由なスティーヴン・ホーキングに由来している。 落語をやる際の高座名は『古今テー志んショー者』改め『古開院亭大麻(こかいんていたいま)』(後述)。 先天性多発性関節拘縮症(せんてんせい たはつせいかんせつこうしゅくしょう)のため、生まれたときから両手両足は使えなかった。本名の世多加は、両親の初デートがニール・セダカのコンサートだったことからつけられた。 1994年6月、大川興業の若手芸人コンテスト『すっとこどっこい』によってデビュー。
山田 邦子(やまだ くにこ、1960年〈昭和35年〉6月13… 山田 邦子(やまだ くにこ、1960年〈昭和35年〉6月13日 - )は、日本のお笑いタレント、漫談家、女優、司会者、作詞家、小説家。日本喜劇人協会会長。ノースプロダクション所属。愛称は「邦ちゃん」。 東京都荒川区東尾久八丁目の社宅に、兄・弟と両親による5人家族の長女として生まれる。幼稚園に入る前に江東区森下町の母の実家に家族で転居し、祖父母が以前経営していたアパートを1つの大きな家に改造して家族、祖父母、母の兄妹という大所帯となって暮らし始めた。小学校5年の時に板橋区高島平に転居したが、卒業するまで江東区立八名川小学校に通い続けた。 川村中学校・高等学校在学中、在校生を相手にものまねを披露して学校中の人気者となる。
泉 ピン子(いずみ ピンこ、1947年〈昭和22年〉9月11… 泉 ピン子(いずみ ピンこ、1947年〈昭和22年〉9月11日 - )は、日本の女優、コメディアン、漫談家、歌手、タレント。東京都中央区日本橋生まれ。静岡県熱海市在住。所属は pi企画株式会社。血液型はB型。身長154cm。戸籍名:坂井 小夜(さかい さよ)、旧姓:江口(えぐち)。デビュー直後の芸名は三門 マリ子(みかど マリこ)。 東京都品川区立第二日野小学校、品川区立日野中学校卒業。日本音楽高等学校中退後の1966年、牧伸二に師事し三門 マリ子(みかど まりこ)の芸名で歌謡漫談家としてデビューするがキャバレー巡りを続ける。1975年に日本テレビ『テレビ三面記事 ウィークエンダー』で出演者に欠員が生じた際に話しぶりの面白さでリポーターに起用され、芸名を泉ピン子へ改名する。
コロムビア・ライト(1927年3月30日 - 2010年10… コロムビア・ライト(1927年3月30日 - 2010年10月26日)は、日本の漫才師、漫談家。落語芸術協会所属。社団法人あゆみの箱常務理事。本名、鳥屋 二郎(とりや じろう)。
坂野 比呂志(さかの ひろし、1911年(明治44年)10月… 坂野 比呂志(さかの ひろし、1911年(明治44年)10月6日 - 1989年(平成元年)5月25日)は、昭和時代の漫談家。活動弁士を経て、浅草名物の芸人となった。ガマの油売りやバナナの叩き売り等の物売り芸(大道芸)で、1982年(昭和57年)第37回文化庁芸術祭大衆芸能部門1部大賞受賞。 東京・深川に生まれる。活動弁士・熊岡天堂の弟子となった後、浅草オペラの田谷力三や榎本健一の舞台を踏み、軽演劇、漫才、漫談、司会など、スタイルを変えながらも、第二次世界大戦前後も浅草を離れることなく芸能活動を続けた根っからの「浅草芸人」で、浅草の生き字引と呼ばれた。 1945年(昭和20年)、陸軍恤兵部から命令を受けた松竹演芸部の仕事で慰問団の一員として満州に渡り「比呂志・美津子」の名で夫婦漫才を行なった。
山野 一郎(やまの いちろう、1899年12月15日 - 1… 山野 一郎(やまの いちろう、1899年12月15日 - 1958年12月18日)は、日本の活動写真弁士、漫談家、俳優。本名は山内幸一。 弟の山地幸雄(本名:山内倉司)も活動写真弁士である。 1919年、三浦さくと結婚。第1子は夭逝したが、第2子・山内明は俳優、第3子・山内久は脚本家、第4子・山内正は作曲家、また、第5子山内幸子は作曲家小杉太一郎(俳優小杉勇の長男)の妻となった。タレント・エッセイストの山内美郷は孫(明の長女)。 新潟県古志郡半蔵金村生まれ。幼年期に一家で東京に出て、向島に育つ。なお、生涯、自分が東京生まれでないことを隠していたという。東京府立第三中学校卒業。 はじめ俳優を志したが叶わず、三越の店員などを経て弁士となる。
大辻 司郎(おおつじ しろう、本名:大辻 四郎、1896年(… 大辻 司郎(おおつじ しろう、本名:大辻 四郎、1896年(明治29年)8月5日 - 1952年(昭和27年)4月9日)は、日本の活動弁士、漫談家。 漫談という言葉をつくり、自らを漫談宗家、漫談家元と名乗った文字通り漫談家の草分け。もく星号墜落事故犠牲者のひとりとしても知られる。 東京市日本橋出身。甲洋学舎卒業、父がやっていた「尾張屋」という株屋を経て活動弁士染井三郎や柳思外に師事。浅草帝国館で初舞台。活動写真の弁士を目指し、独学で1916年(大正5年)に外国映画の弁士としてスタート。きっかけはその年の徴兵検査で甲種合格したため、兵役から逃れる為だったという。喜劇専門の弁士として活躍。独特の奇声で喋る『勝手知ったる他人の家』、『胸に一物、手に荷物』、『ハラハラと落つる涙を小脇に抱え』といったフレーズで一躍、人気弁士に躍り出る。