小村 大樹(おむら だいじゅ、1976年4月25日 - )は… 小村 大樹(おむら だいじゅ、1976年4月25日 - )は、文化人、教育者、作家、キャリアアドバイザー、メンタルトレーナー、掃苔家、トータルプロデューサーである。 東京都立川市で生まれる。立川市立第八中学校から日本大学明誠高等学校を経て、1996年、法政大学経済学部経済学科に入学し、経営学部組織心理のゼミで学ぶ。大学3年時に1年間休学し、1998年にアメリカ合衆国ロサンゼルスでレストラングループ「新撰組(英語: Shin-Sen-Gumi)」のオーナーである重田光康のもとで修業をし、またカリフォルニア州立大学ロングビーチ校に留学する。 2001年、法政大学経済学部経済学科を卒業後、スポーツメンタルトレーナーの第一人者である高畑好秀に師事し、メンタルやコーチングの普及活動を行いながら、スポーツ領域のメンタルコーチ、教育機関や消防庁に対してメンタルトレーニングに関する講演するなど幅広く活動する。
山﨑 善久(やまざき よしひさ、1967年7月22日 - 2… 山﨑 善久(やまざき よしひさ、1967年7月22日 - 2017年8月12日)は、日本の教育者。学校法人駿河台大学理事長。 1967年に東京都で山崎春之を父に生まれる。駿台甲府高等学校へ進学し、駿河台大学法学部を卒業した。また、同大学院法学研究科を修了する。その後、駿河台大学の事務職員となり、事務局長、常務理事を歴任した。2007年に山崎春之の後を継ぎ、学校法人駿河台大学および学校法人駿台甲府学園の理事長に就任した。系列である学校法人駿河台学園の現理事長の山崎良子は継母にあたる。駿台グループで一貫教育を歩んだ稀有な存在である。 2017年8月12日午前11時53分、肺腺がんのため東京都千代田区の病院で死去、50歳没。
赤池 誠章(あかいけ まさあき、1961年〈昭和36年〉7月… 赤池 誠章(あかいけ まさあき、1961年〈昭和36年〉7月19日 - )は、日本の政治家、教育者。 衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)、山梨県専修学校各種学校協会会長、明治大学政治経済学部客員教授、自由民主党副幹事長、自由民主党政務調査会副会長、文部科学大臣政務官(第2次安倍改造内閣・第3次安倍内閣)、参議院文教科学委員長、自由民主党文部科学部会長、内閣府副大臣などを務めた。 山梨県甲府市生まれ。山梨県立甲府第一高等学校、明治大学政治経済学部政治学科卒業。明治大学在学中は雄辯部に所属し、全関東学生雄弁連盟中央執行委員長を務めた。大学卒業後、松下政経塾に入塾した。 1993年、第40回衆議院議員総選挙に山梨県全県区(定数5)から無所属で出馬したが、得票数7位で落選。
清水 秀樹(しみず ひでき、1944年 - )は、日本の教育… 清水 秀樹(しみず ひでき、1944年 - )は、日本の教育者。向上高等学校校長および学校法人向上学園理事長、自修館中等教育学校初代校長、学校法人文京学園監事および特別顧問などを歴任。 山梨県北杜市出身。山梨県立韮崎高等学校、駒澤大学文学部卒業。大学卒業後、高等学校にて英語教諭として教壇に立つ。のち学校法人向上学園理事長、1987年同学園向上高等学校校長、1998年新設開校の自修館中等教育学校初代校長に就任。神奈川県私立中学高等学校協会理事、同研究部生徒指導研究委員会委員長。日本私学教育研究所特任研究員。同研究所教員免許更新講習運営委員、生徒指導委員会委員を兼務。教員初任者全国研修会、10年経験者全国研修会の指導講師。
古屋 かのえ(ふるや かのえ、1910年8月23日 - 19… 古屋 かのえ(ふるや かのえ、1910年8月23日 - 1993年8月)は、日本の看護教育者。戦後の看護教育の基礎を築くとともに、看護学校の大学化への運動を行った。歌人として八代 かの江の筆名も用いた。 山梨県東八代郡御代咲村(現・笛吹市)に生まれる。両親はともに小学校教員で、父盛治は校長を務めたが結核に罹患し47歳で他界した。 1930年に山梨県女子師範学校本科第一部を卒業し、1930年4月から1934年3月まで山梨県御代咲小学校教員を務める。1934年4月に日本赤十字社中央病院看護婦養成所(甲種)に入学、1937年3月に卒業し、成績優秀により橋本記念賞受賞。同年4月、日本赤十字社山梨支部診療所に勤務。
小林 信一(こばやし しんいち、1908年(明治41年)1月… 小林 信一(こばやし しんいち、1908年(明治41年)1月27日 - 1983年(昭和58年)8月15日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 山梨県東山梨郡松里村上井尻(塩山町、塩山市を経て現甲州市塩山上井尻)出身。日川中学校(現山梨県立日川高等学校)を経て、1926年(大正15年)山梨県師範学校第2部を卒業した。 南都留郡盛里小学校訓導、旭尋常高等小学校訓導、山梨国民学校教頭、峡東青年学校長などを歴任し、1947年(昭和22年)松里中学校長に就任。1948年(昭和23年)山梨県教職員組合執行委員長となり、山梨県連合教育会副会長も務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から無所属で出馬して当選。
大木 金次郎(おおき きんじろう、1904年(明治37年)8… 大木 金次郎(おおき きんじろう、1904年(明治37年)8月3日 - 1989年(平成元年)8月3日)は、日本の教育者、経済学者、経済学博士。青山学院大学第11代院長、青山学院理事長。 1904年8月3日、山梨県甲府市に生まれる。1922年3月、甲府商業学校を卒業し、校長の推薦により同年4月に朝鮮銀行に就職する。同年10月、同行大邱支店在勤中にF.H.スミスから洗礼を受け、さらにクリスチャンだった支店長の薦めにより、1925年に青山学院高等学部商科に無試験入学する。1929年3月に卒業した後、同年6月に同学院の留学生として渡米し、アメリカのオハイオ・ウェスリアン大学経済学部に留学し、その卒業後さらにコロンビア大学大学院で経済政策を専攻してマスター・オブ・アーツの学位を取得する。
鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月… 鈴木 弼美(すずき すけよし、1899年〈明治32年〉11月21日 - 1990年〈平成2年〉5月26日)は、日本の教育者。内村鑑三の弟子で、基督教独立学園高等学校の創設者。初代校長。 山梨県北都留郡七保村大字葛野(現・大月市)で、800年続いた甲斐絹問屋・鈴木商店の店主鈴木治作の次男として生まれる。 1920年、東京帝国大学理学部物理学科に入学。1924年1月27日、東京府柏木の内村鑑三邸内にある今井館で行われた聖書研究会に出席。6月頃、内村が柏木集会に参加していた青年に山形県小国郷と岩手県の北上山地への伝道を呼びかける。この2ヵ所は、内村がアメリカに留学していた頃に日本地図を広げて、将来伝道すべき所として選んだ、人跡稀な34ヵ所の場所の一つであった。
雨宮 敬作(あまみや けいさく、明治12年(1879年)11… 雨宮 敬作(あまみや けいさく、明治12年(1879年)11月5日 - 昭和39年(1964年)7月21日)は、日本の教育者。山梨英和女学校における初の日本人校長。 山梨県東山梨郡日下部村七日市場(現在の山梨市)に、日下部村会議員を務めた父「景通」、母「じつ」の長男として生まれる。敬作の上に「くま」,「と美」,「まさじ」の三女がいる。 明治32年(1899年)に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を卒業後、同年4月に東京専門学校歴英科に入学し、明治36年(1903年)3月に同校を卒業、同年4月から静岡県の榛原郡立榛原中学校(現在の静岡県立榛原高等学校)に2年間勤務した後、明治38年(1905年)4月からカナダ・メソジスト教会のミッションスクールである山梨英和女学校(現在の山梨英和学院)の教諭として勤務。
堀内 柳南(ほりうち りゅうなん、1873年4月20日 - … 堀内 柳南(ほりうち りゅうなん、1873年4月20日 - 1932年2月1日)は、山梨県巨摩郡大八田村(現・北杜市長坂町)出身の教育者・俳人。出生名は堀内 常太郎(ほりうち つねたろう)であり、柳南は号である。 1873(明治6)年4月20日、山梨県北巨摩郡秋田村(現・北杜市長坂町大八田)に生まれる。父親は堀内与右衛門。10代後半、自由民権派新聞「峡中日報」編集長を通して俳句と出会う。山梨尋常師範学校卒業後、南都留郡谷村尋常小学校を初任地として33歳まで山梨県内で教鞭を執る。この間、25歳で結婚、28歳で校長職。俳句への思いを断つことができず33歳で職を辞して上京、自由律俳誌「層雲」の同人となるが、同年妻きくを鉄道事故で失い、上京生活1年で郷里へ帰る。
根津 一(ねづ はじめ、1860年6月20日(万延元年5月2… 根津 一(ねづ はじめ、1860年6月20日(万延元年5月2日) - 1927年2月18日)は、日本の教育者・陸軍軍人。陸軍少佐。幼名は伝次郎、のちに一、山洲と号した。軍人として日清戦争に従軍する一方、荒尾精の盟友として上海の日清貿易研究所の運営にあたり、また上海の東亜同文書院の初代・第3代院長として日中間で活動する人材の育成につとめた。 甲斐国山梨郡一町田中村(のち山梨県東山梨郡日川村一町田中、現:山梨県山梨市一町田中)の富家根津勝七の次男として生まれる。幼少より武術だけでなく学問を好み経書に親しんだという。 西南戦争の際、下士官養成のための陸軍教導団に入る。従軍はしなかったものの、同団を首席で卒業する。