大場 美和(おおば みわ、1998年3月7日 - )は、日本… 大場 美和(おおば みわ、1998年3月7日 - )は、日本のフリークライマー。身長163cm。O型。マネジメント契約先はスポーツビズ。 愛知県岡崎市出身。岡崎市立竜海中学校卒業、光ヶ丘女子高等学校卒業、フェリス女学院大学文学部中退。 父は歯科医。9歳からクライミングを始める。近所にジムがなかったため、父がつくった3面の自宅ウォールで練習に励んでいた。この壁は「MIWA-WALL」と呼ばれ、後に野口啓代や小山田大など名だたる選手が訪れている。知人には不定期に開放され、2015年には「MIWA-CUP」というコンペも開催した。 13歳のとき、JFAユース選手権女子リード種目、第14回JOCジュニアオリンピックカップ大会で優勝。
長澤 奏喜(ながさわ そうき、1984年 - )は、日本の登… 長澤 奏喜(ながさわ そうき、1984年 - )は、日本の登山家。世界初の「ラグビー登山家」である。 ラグビー登山の創始者。愛知県立明和高等学校時代にラグビー部に所属し、大学でもラグビーを続けた。ラグビーワールドカップ2019のPRのため、「ワールド・トライ・プロジェクト」を掲げ、過去の全出場国にあたる25か国の国と地域の最高峰にラグビーボールをトライする活動を実施。 七大陸最高峰や8000m峰14座を筆頭にピークハント(英語版)は欧米で生まれ、それが日本に伝えられるものが多い中、世界の最高峰を舞台にしたピークハントを設計、及び自ら実践した初めての日本人としての価値が長澤の冒険の中には潜んでいる。
大西 宏(おおにし ひろし、1962年5月14日 - 199… 大西 宏(おおにし ひろし、1962年5月14日 - 1991年10月16日、29歳没)は、日本の登山家。名古屋市出身。1989年、スキーによる北極点到達とエベレスト登頂の「2極」征服を達成した。 名古屋市に生まれた。1978年、東京都立九段高等学校に入学、山岳部に入部した。明治大学に進学し、2年生のときから山岳部に入って活動した。 卒業後も、一度は食品会社に就職したが、肉体労働のアルバイトをしながら登山中心の生活を送り、OB会である炉辺会(ろばたかい)のメンバーとして活動した。 1985年、日本山岳会の80周年記念行事として行なわれた中国登山隊に参加し、崑崙山脈カカサイジモンカに登頂した。 1987年、日本・中国・ネパール1988チョモランマ・サガルマタ友好登山隊に参加し、北稜ルートでエベレストに登頂した。
成瀬 陽一(なるせ よういち、1962年 - )は、日本の登… 成瀬 陽一(なるせ よういち、1962年 - )は、日本の登山家、沢登り家。 20歳の時に沢登りに出会い、それ以降沢登りにのめり込む。日本国内だけでなく、韓国、台湾、中国大陸、ハワイカウアイ島、レユニオン、タヒチなどで沢登りをしている。
田辺 治(たなべ おさむ、1961年1月4日 - 2010年… 田辺 治(たなべ おさむ、1961年1月4日 - 2010年9月28日)は、日本の登山家。元日本ヒマラヤ協会理事。日本山岳会東海支部員。東海山岳会長。 1961年1月4日、愛知県名古屋市に生まれる。刈谷市立富士松中学校、愛知県立刈谷高等学校を経て、1984年に信州大学農学部を卒業。大学時代は山岳部に所属し、1982年ガネッシュヒマールⅡ峰(7,111m/ネパール)登攀を始めとし、25回ヒマラヤ登攀隊に参加、8000メートル峰全14座のうち9座に登頂した。その多くを冬季や未踏の難ルートからの登攀で達成した。 2006年12月ローツェ南壁冬季初登攀に成功、その功績が認められ、2008年12月、日本山岳会東海支部冬季ローツェ南壁登山隊として秩父宮記念山岳賞を受賞した。
池沼 慧(いけぬま さとし、1946年 - 2016年)は、… 池沼 慧(いけぬま さとし、1946年 - 2016年)は、登山家、ロッククライマー。 海洋上に浮かぶ岩峰の登攀を「洋上登攀」と称し、実践していた。日本列島の洋上の100m級の岩である針之岩とナポレオン岩を初登頂している。日本山岳会東海支部所属。 この項目は、探検家や冒険者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝)。
石岡 繁雄(いしおか しげお、1918年1月25日 - 20… 石岡 繁雄(いしおか しげお、1918年1月25日 - 2006年8月15日)は、日本の応用物理学者、登山家。ナイロンザイル事件の追究を通じ登山用品の安全性向上に貢献した。三重県鈴鹿市の山岳会、岩稜会会長を歴任した。日本山岳会東海支部名誉会員。鈴鹿工業高等専門学校教授。日本山岳会会員(1953−1996年)。 父の移民先である、アメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメントにて生まれる。3歳で父の故郷である愛知県愛西市に父とともに帰国する。 愛知県立旧制津島中学校(現・愛知県立津島高等学校)、旧制第八高等学校をへて、1940年(昭和15年) 名古屋帝国大学工学部電気学科卒業。 旧制三重県立神戸中学校(現・三重県立神戸高等学校)教員、名古屋大学職員をへて、1964年(昭和39年)に豊田工業高等専門学校の助教授となる。