井上好三郎(いのうえ こうざぶろう、1881年(明治14年)… 井上好三郎(いのうえ こうざぶろう、1881年(明治14年) - 1943年(昭和18年))は日本の商人、実業家。井上好三郎商店(現:井上鋲螺工業株式会社)創業者。滋賀県甲賀市水口町出身。
滋賀県:12人
井上好三郎(いのうえ こうざぶろう、1881年(明治14年)… 井上好三郎(いのうえ こうざぶろう、1881年(明治14年) - 1943年(昭和18年))は日本の商人、実業家。井上好三郎商店(現:井上鋲螺工業株式会社)創業者。滋賀県甲賀市水口町出身。
大和田 金之助(おおわだ きんのすけ、旧姓・大橋、1866年… 大和田 金之助(おおわだ きんのすけ、旧姓・大橋、1866年9月17日〈慶応2年8月9日〉 - 没年不明)は、日本の商人(雑貨商)、実業家。大和田銀行監査役。大和田貯蓄銀行取締役。族籍は福井県平民。 滋賀県東浅井郡大郷村字曽根(現・長浜市)出身。大橋嘉兵衛の二男。24歳の頃に大和田荘七の二女たかの入夫となり、1910年に分家して一家を創立した。大和田家は敦賀町(現・敦賀市)で船舶代弁、倉庫、貿易業を営んでいたため金之助も大和田家に入った当初これに携わっていたが、1892年10月より旭町に煙草小売業を開始した。 1905年4月に福井県煙草之売捌人13名と計り煙草元売捌組合を創立し組合長に推され、1906年10月に嶺南四郡煙草元売捌組合長となり1931年7月に煙草元売捌官営に至る迄煙草元売捌を経営し、傍ら洋品雑貨業を始めた。
田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(18… 田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(1864年1月23日) - 昭和8年(1933年)4月26日)は、日本の近江商人、実業家。大阪紡績取締役。東洋紡・日清紡ホールディングス・江商(現・兼松)の設立に関与した。また、綿糸相場師として活躍し『田附将軍』と呼ばれた。「売りの田附」として有名。ニュース・キャスターの国谷裕子の曾祖父。 文久3年(1864年)に近江国佐生村(後の滋賀県神崎郡五峰村佐生、神崎郡能登川町佐生を経て現・東近江市佐生町)に産まれる。船場八社の一つの田附商店を開業し、綿花取引や、綿業界をリードする存在であった。また、社会貢献として、京都大学に財団法人田附興風会、郷里の神崎郡五峰村に公益財団法人五峰興風会、帝塚山学院、大阪市に北野病院などを開設している。
西川 貞二郎(にしかわ ていじろう、1858年5月31日(安… 西川 貞二郎(にしかわ ていじろう、1858年5月31日(安政5年4月19日)-1924年(大正15年)3月9日)は、明治期の起業家・近江商人。西川傳右衛門家の10代目、諱は昌一。カニ缶を初めて商品化、八幡銀行(後の滋賀銀行の一部)・帝国水産等を創業した。 1858年5月31日((旧暦)安政5年4月19日)、近江国野洲郡江頭村(現近江八幡市江頭町)の井狩只七の次男定次郎として誕生した。母は蒲生郡中野村(現東近江市)小泉弥右衛門の娘。1864年(元治元年)、定次郎は第9代西川傳右衛門昌武(1862年(文久9年)死去)の後継となるため西川家に入る。定次郎の祖母は第5代傳右衛門昌康の娘に当たり、定次郎の叔母は西川家分家善六家に嫁ぎ、西川家と井狩家は姻戚関係にあった。
秋元 源彌(秋元 源弥、あきもと げんや、1855年9月5日… 秋元 源彌(秋元 源弥、あきもと げんや、1855年9月5日〈安政2年7月24日〉 - 1915年〈大正4年〉7月26日)は、日本の商人(皮革商、近江屋主)、会社役員。日本肥料取締役。族籍は東京府平民。 近江国坂田郡甲田村(のち滋賀県坂田郡鳥居本村、現彦根市甲田町)出身。秋元平太郎の三男。分家して一家を創立する。僅かに旅費を持ち、1879年に単身で東京に来る。 製皮事業が有利であることを予知し、2年間某商の徒弟となり、1881年に独立して近江屋商店を開業する。「都下に於ける皮革商中の大商賈」と称され、直接国税約1000円を納める。 所得税調査委員、東京製革業組合頭取などをつとめる。長らく病気のところ薬石効なく1915年7月26日に死去する。
11代西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、諱は重威(しげたけ… 11代西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、諱は重威(しげたけ)、1849年1月10日(嘉永元年12月16日) - 1905年(明治38年)4月6日)は、江戸時代末期から明治期の近江商人。西川甚五郎家山形屋11代、明治維新動乱期を越えて西川への発展の基礎を固めた。 1849年1月10日((旧暦)嘉永元年12月16日)に近江国蒲生郡八幡(現近江八幡市)において山形屋10代西川甚五郎の二男二女の第四子次男として誕生、長男夭折に伴い跡継ぎとして育てられ、幼名は伊三郎と称した。 1840年代(天保弘化年間)、越前国において近江より熟練工を招き蚊帳織りを開始したことから近江蚊帳の営業者は1878年(明治11年)当時5軒まで減っていた、加えて1866年(慶応2年)には徳川幕府の長州征伐のための御用金1千8百両の上納を求められ経営環境は極度に悪化していた。
野口正章(のぐち まさあき、嘉永2年(1849年) - 大正… 野口正章(のぐち まさあき、嘉永2年(1849年) - 大正10年(1921年)11月)は、明治維新期の近江商人・実業家。『十一屋』主人、日本初の市販国産ビールを作った。 野口正章は、滋賀県蒲生郡綺田村(後の桜川村、現東近江市綺田町)で造酒業を営む十一屋の跡取りとして誕生した。父である野口正忠は美術愛好家で漢詩家、柿村と号し近江・京の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は正忠との交遊から長く野口家に居候をしていた。正章も父の影響を受け関西南画壇の重鎮である日根対山に師事し、絵画を学んでいた。明治10年(1877年)、画業を通じ予てより野口家と親交があり、また師(日根対山)を同じくする小蘋こと松村親と結婚し、翌年に娘の郁子(後に小蕙と号す)が生まれた。
阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、天保11年7月21日(184… 阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、天保11年7月21日(1840年8月18日) - 明治37年(1904年)5月5日)は、明治維新期の近江商人・実業家。阿部市郎兵衛家の分家。 阿部彦太郎は、近江国神崎郡能登川村(現・滋賀県東近江市能登川町)に生まれた。本家筋にあたる5代阿部市郎兵衛の三男が分家した阿部市次郎の長男である。 彦太郎は『布彦』と呼ばれ、父と共に攘夷運動が激しかった文久年間(1861年-1863年)に、室町姉小路に唐金巾(とうかなきん、キャラコ)・唐木綿・唐糸・唐縞・唐紅・唐桟に加えラシャ・ケット・モヘール・シャッポン・洋紙・インキ・鉛筆・靴・蝙蝠傘・シャツ・メリヤス・石鹸・洋酒類等の洋物を取り扱う『唐物店』を開いた。
7代目阿部 市郎兵衛(あべ いちろべい、天保8年(1837年… 7代目阿部 市郎兵衛(あべ いちろべい、天保8年(1837年) - 明治37年(1904年))は、明治維新期の近江商人。繊維産業・鉄道・銀行など各種事業の支援者となり、日本の産業育成に貢献した。 天保8年(1837年)近江国神崎郡能登川村(現・滋賀県東近江市能登川町)に生まれ、幼名を元太郎と言った。父は近江商人阿部市郎兵衛家(屋号『紅屋』)の分家阿部市太郎家の2代目当主(通称吉太郎)である。本家市郎兵衛家には継嗣がなく、元太郎が伯父である6代市郎兵衛の養子になり、安政4年(1857年)7代市郎兵衛として家督を継いだ。 家督継承後、紅屋家業の麻布商を営むと共に、米穀肥料問屋業務を新たに始め、その発展に伴い千石船を十数隻支配して、北海道・九州など各地の物産を江戸・大阪輸送し、販売を行った。
塚本 正之(つかもと まさゆき、天保3年5月1日(1832年… 塚本 正之(つかもと まさゆき、天保3年5月1日(1832年5月30日) - 大正7年(1918年)2月28日)は、江戸時代後期から明治時代の近江商人、社会事業家。湖国治山の父とも呼ばれる。塚本家はツカモトコーポレーションの創業一族。 塚本正之は、天保3年(1832年)に近江神崎郡川並村(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の豪商初代定右衛門(1789年-1860年)の次男として誕生し、通称粂右衛門と称した。兄塚本定次(1826年-1905年)は勝海舟も大物と称した商人で、正之は兄を助け家業に精励し、県会議員を務めると共に一生を通じて公共事業に尽くした。 明治6年(1873年)6月学校世話方に選ばれ故郷川並村における小学校創立に力を注ぎ、明治9年(1876年)以降戸長・副区長・村会議員・連合村会議員、明治15年(1882年)6月第二回滋賀県会議員選挙において当選し(同19年(1886年再選)、神崎・愛知郡衛生会議員、勧業諮問委員等を歴任した。
木田 弥平(きだ やへい)は、現在の滋賀県湖南市下田に居住し… 木田 弥平(きだ やへい)は、現在の滋賀県湖南市下田に居住した江戸期の商人。 なお、「木田 弥平」の名を持つ人物は襲名によって複数人存在する。 出身地の湖南市下田では口頭でぼくだ やへえと呼ばれている。旧代及び略書は、弥兵栄、彌平、弥兵衛、弥平 (「やへい」または「やへえ」、口頭では「やへえ」)。 代々国内物産の商いを生業としていた。 第6代は下田村助役を務め、下田の並び、日枝神社向いあたりで、材木商、金融業も営んでいた。 第7代、第8代もこの地に居住したが、長男が麻疹により難聴となったため、第9代は、京都市右京区・京都府立聾学校近くの宇多野へ移住した。 現在から150年以上前に木田弥平が美濃から下田に持ち帰った。
3代 阿部 市太郎(あべ いちたろう、天保11年(1840年… 3代 阿部 市太郎(あべ いちたろう、天保11年(1840年) - 大正12年(1923年))は、明治維新期の近江商人・実業家。日本の産業と人材の育成に務めた。 3代目阿部市太郎は、天保11年(1840年)に近江国神崎郡能登川村(現・滋賀県東近江市能登川町)に生まれた。父である2代市太郎は本家に当たる阿部市郎兵衛家第5代当主の次子で、初代市太郎に継子なく養子となった。また、兄は本家の養子となり7代目市郎兵衛となり、弟は市三郎家に養子に入り2代目市三郎となった。 3代目家督相続後、明治4年(1871年)本家市郎兵衛家と共に大阪(現大阪市東区)に支店を出し、家業である麻布販売と共に持ち船を回漕して塩・蜜柑を北陸地方・東北地方で売り、帰路北海道に立ち寄り物産を仕入れ大阪で販売した。