喜多 徹人(きた てつと、1960年 - )は、日本の教育者… 喜多 徹人(きた てつと、1960年 - )は、日本の教育者、著述家、カウンセラーで神戸セミナー校長。兵庫県予備校連盟会長、全国予備学校協議会副会長、日本ブリーフサイコセラピー学会理事を歴任。 滋賀県近江八幡市に生まれる。小学時代には宿題はほとんどやらない"問題児"だったが、小学4年生の時の夏休みの宿題の課題が"自由研究"だったことで突如やる気を起こし、人のやらないことをやって驚かそうと思いついたのが「往復3㎞の山道を毎日走ること」であった。それを毎日、タイムを計り変化をグラフ化し、20日間全60㎞の日記を書き、さらに写真を貼って提出した。叔父を初め、担当教師、クラスの生徒のほとんどが喜多のこの行動に驚いた。
福井 達雨(ふくい たつう、1932年3月25日 - 202… 福井 達雨(ふくい たつう、1932年3月25日 - 2022年9月6日)は、日本の教育者。滋賀県近江八幡市生まれ。
清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 198… 清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 1988年1月17日)は、日本の教育者・牧師。北京に崇貞学園を設立・経営。戦後に妻郁子とともに桜美林学園を創立。桜美林学園第3代理事長。 1891年、滋賀県高島郡新儀村北畑(現在の高島市)に豪農の子として生まれたが、5歳で父を亡くす。1905年、滋賀県立第二中学校(08年膳所中学校と改称)に入学。英語講師で宣教師のウィリアム・メレル・ヴォーリズからキリスト教の感化を受け、1908年に受洗。1910年、同志社神学校に進学。同志社在学中、宣教師ホラース・ピットキン(en:Horace Tracy Pitkin)の殉教の話(義和団事件で死去)に感銘を受けた。
西川 吉之助(にしかわ よしのすけ、1874年9月3日 - … 西川 吉之助(にしかわ よしのすけ、1874年9月3日 - 1940年7月18日)は、日本の教育者。大正から昭和初期に日本の聾学校/聾教育に口話教育の普及を推進した教育者。大阪市立聾学校(学校名は当時。現在は大阪府立中央聴覚支援学校)校長の高橋潔とは、『手話の高橋、口話の西川』と対比された。 1874年、滋賀県蒲生郡八幡町(現・近江八幡市)生まれ。父は八十二郎、母はきち(西川吉輔の五女)。東京の私立商業素修学校卒業後、1895年に私立小樽商業夜学校を設立するが2年で廃校となる。その後、西川傳右衛門家を継ぎ、西川貞二郎の長女・君と結婚した。 元からの教育者ではなく、耳が聴こえない三女の濱子(はま子)のために始めた口話法が当時の社会で評判を博したため、教育者の道に進んだ人物である。
塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8… 塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8月30日) - 昭和3年(1928年)1月4日)は、明治時代から大正時代の教育者。近江商人の妻。名は里子とも。 塚本さとは、天保14年(1843年)に近江神崎郡川並村(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の豪商初代塚本定右衛門の五女として誕生した。数え21歳の時に店の奉公人であった源三を婿に迎え塚本源三郎家を立て、近江商人の妻として5男3女を儲けた。さとは、「読み、書き、算盤」を寺子屋で学び、女子としての嗜みとして家庭で「裁縫、生け花、茶道」を学んだが、明治に入り新しい世の中の商家の妻として女子教育の大切さを痛感するようになっていた。『女子として時勢に順応すると共に、古来の美風と祖先の偉業を継承せしめるには、義務教育に加え、商業上の常識を養い、日常の業務に習熟させることが必要』との考えを持つようになった。
杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう、1855年4月19日〈安政… 杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう、1855年4月19日〈安政2年3月3日〉- 1924年〈大正13年〉2月13日は、明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家・政治家。幼名は謙次郎。父は膳所藩の儒者杉浦重文。近江国膳所藩(現:滋賀県大津市)出身。 親王時代の昭和天皇と秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の弟宮に帝王学の一環として倫理を進講する。号は梅窓または天台道士。学生時の渾名は紙魚(しみ)。後に『人格高邁の国士』と評される。理学宗の世界観を確立。 近江国膳所藩の儒学者・杉浦重文(蕉亭)と妻・八重の間に次男として生まれる。3歳のとき、護送される頼三樹三郎を目撃する。数え年6歳で藩校・遵義堂に入学を許され、高橋正功(坦堂、作也)、黒田麹廬、岩垣月洲に漢学・洋学を学ぶ。