谷尻誠(たにじり まこと、1974年 -)は、日本の建築家。… 谷尻誠(たにじり まこと、1974年 -)は、日本の建築家。SUPPOSE DESIGN OFFICE代表。 yado代表取締役。Mietell代表取締役。 1974年、広島県三次市生まれ。 広島県立日彰館高等学校、穴吹デザイン専門学校卒業。本兼建築設計事務所、HAL建築工房を経て、2000年にSupposedesign officeを設立。2014年SUPPOSE DESIGN OFFICE Co.,Ltd. を吉田愛とともに共同設立。 2018年に公開されたアニメーション映画『未来のミライ』では、作品の舞台となる主人公の自宅を設計した。
松永 務(まつなが つとむ、1958年2月24日 - )は、… 松永 務(まつなが つとむ、1958年2月24日 - )は、日本の建築家。アーキテクツデスク会長。アトリエMアーキテクツを主宰して活動展開中。静岡産業技術専門学校建築科講師。広島県広島市生まれ。 1981年 日本大学理工学部建築学科卒業後、一色建築設計事務所。1990年、同事務所取締役。1998年「アトリエM」を設立し、一色建築設計事務所のパートナーオフィスという形式をとる。1999年 同社退社。2000年 一級建築士事務所アトリエMアーキテクツ設立。2000年から、静岡産業技術専門学校非常勤講師、トヨタ自動車スチールハウスアドバイザー。2001年、米国大使館/国土交通省後援のAF&PA 全米林産物製紙協会他主催の第5回日米住宅シンポジウムで講演。
藤岡 洋保(ふじおか ひろやす、1949年 - )は、日本の… 藤岡 洋保(ふじおか ひろやす、1949年 - )は、日本の建築学者・建築史学者。東京工業大学。名誉教授。専門は、建築史。 広島県広島市出身。1973年、東京工業大学工学部建築学科を卒業、1975年、同大学院修士課程建築学専攻修了、1979年同博士課程建築学専攻修了、工学博士。明治大学工学部助手(建築学科)、東京工業大学工学部附属高等学校教諭を経て、1984年、東京工業大学工学部助教授(建築学科)、1996年同教授(建築学科)、2000年同大学院理工学研究科教授(建築学専攻)、2015年に定年退職。 神奈川大学、ワシントン大学大学院(シアトル)、明治大学大学院、北海道大学大学院で非常勤講師。2015~18年明治神宮特任研究員(非常勤)。
今川 憲英(いまがわ のりひで、1947年4月1日 - )は… 今川 憲英(いまがわ のりひで、1947年4月1日 - )は、日本の外科医的建築家、日本を代表する構造家の一人、構造エンジニア、構造デザイナー、構造設計家、構造的建築家。 広島県尾道市生まれ。1962年に三原工業高等学校付属中学校、1965年に三原工業高等学校機械科を卒業し1969年日本大学理工学部建築学科を卒業。大学時代は坪井善勝研究室に所属。その後東京大学生産技術研究所川股研究室、渡辺邦夫擁する構造設計集団(S.D.G)を経て1978年に構造設計事務所T.I.S. & PARTNERSを設立。 職業能力開発大学校(現・職業能力開発総合大学校)、武蔵野美術大学、女子美術大学、明治大学、東海大学、近畿大学、京都工芸繊維大学非常勤講師を経て、2000年から東京電機大学工学部建築学科教授。
瀧 光夫(たき みつお、1936年11月19日 - 2016… 瀧 光夫(たき みつお、1936年11月19日 - 2016年12月8日 )は日本の建築家。広島県尾道市出身。1961年に京都大学大学院修士課程修了、1963年にコロンビア大学大学院を修了。国際万国博覧会・EXPO’70のワーキングスタッフを経て、1972年に東京にて瀧光夫建築・都市設計事務所を設立。1993年から2009年までは福山大学工学部建築学科教授を務めた。1998年に千里山第1噴水再整備計画に携わり、2005年からは阪急千里山駅周辺再開発計画に吹田市のアドバイザーとして携わった。 植物園や園芸建築など自然と人工物の造形を活かした建築設計で知られ、建築業協会賞や日本建築学会賞、公共建築賞などを受賞した。
茶谷 正洋(ちゃたに まさひろ、1934年2月18日 ‐ 2… 茶谷 正洋(ちゃたに まさひろ、1934年2月18日 ‐ 2008年11月19日)は、日本の建築学者、建築家。建築意匠、図学、建築の構法と形態、視環境知覚を専門としていた。
藤井 厚二(ふじい こうじ、1888年〈明治21年〉12月8… 藤井 厚二(ふじい こうじ、1888年〈明治21年〉12月8日 - 1938年〈昭和13年〉7月17日)は、日本の建築家・建築学者。広島県出身。建築環境工学の先駆者の一人。東京帝国大学工科大学建築学科卒業。 広島県福山市の酒造家・金融業の「くろがねや」の次男として生まれる。経済的にも文化的にも恵まれた環境で育ち、福山中学校(現・福山誠之館高校)、第六高等学校を経て、1913年(大正2年)に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した後、竹中工務店に就職。大阪朝日新聞社などの設計を手がけ、1919年(大正8年)まで勤務。同社退職後から約9ヶ月間、欧米諸国を巡遊し、環境工学への関心を高めた。 欧米から帰国した後の1920年(大正9年)、同郷の武田五一が創設した京都帝国大学工学部建築学科に招かれ、1926年(大正15年)に教授となった。