藤田 真照(ふじた しんしょう、1907年(明治40年)4月… 藤田 真照(ふじた しんしょう、1907年(明治40年)4月1日 - 1966年(昭和41年)1月6日)は、日本の宗教家。天光教教祖。愛媛県四国中央市出身。本名は照見。 愛媛県宇摩郡土居町(現:四国中央市)で農家の三男として生まれた。1928年(昭和3年)京都帝国大学法学部を卒業後、外交官試験に合格して外務省に入り、上海領事館、漢口領事館に勤務した後、1935年(昭和10年)に退官、その後は満洲にて事業を営んだ。 19歳のときに大祖神からの神示を受けたとし、1938年(昭和13年)に「道照明神」の神号を名乗った。1948年(昭和23年)に東京都大田区大森で信修会教団を設立。1958年(昭和33年)に天光教と改称し、本部が大阪市天王寺区堂ヶ芝へ移る。
出口 宇知麿(でぐち うちまる、1903年(明治36年)1月… 出口 宇知麿(でぐち うちまる、1903年(明治36年)1月15日 - 1973年(昭和48年)5月6日)は、日本の宗教家。大本教主補佐。教祖の出口王仁三郎の第三女・八重野の夫。本名は伊佐男で、「宇知麿」は王仁三郎に命名された宗教名。 愛媛県喜多郡大洲村(現・大洲市)の佐賀家に生まれる。1918年(大正7年)8月23日、綾部の皇道大本へ初参拝。10月に愛媛県立八幡浜商業学校(現愛媛県立八幡浜高等学校)本科1年を中退して、綾部へ移住し、大本で奉仕生活に入る。 1922年(大正11年)、王仁三郎の近侍となる。 1924年(大正13年)2月、八重野と結婚して出口家に婿入りする。同年4月、大本教主補佐に任命される。
中山 吾一(なかやま ごいち、1900年 - 1995年)は… 中山 吾一(なかやま ごいち、1900年 - 1995年)はカナダで活動した聖公会の司祭。 19歳で単身カナダに渡り、英国人の牧師の説教を契機に神学を学び、聖公会の司祭となった。伝道活動に生涯を捧げ、参事司祭(Canon)の称号をたまわり、イギリス女王エリザベス2世から銀メダルを授与された。娘は詩人・作家のジョイ・コガワ。 1900年(明治34年)、愛媛県喜多郡蔵川村(現 大洲市)に生まれた。14歳の時、京都に上洛。新聞配達をしながら京都市左京区聖護院にあった京都正則予備学校(現在の京都両洋高等学校)に学び、ここで中根正親(後の両洋学園長)に邂逅した。1918年(大正7年)同校を卒業後、立命館大学予科に進学したが、ある日、日本を離れて世界に雄飛しようとの大志を立て、バンクーバー在住のおばを頼って単身カナダへ渡った。
押川 方義(おしかわ まさよし、1850年1月17日〈嘉永2… 押川 方義(おしかわ まさよし、1850年1月17日〈嘉永2年12月5日〉 - 1928年〈昭和3年〉1月10日)は、日本人のキリスト教宗教家、教育者。東北学院及び宮城学院の創立者。日韓同志組合代表者の一人。新島襄、本多庸一、植村正久、内村鑑三、新渡戸稲造と並び、明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者とされる。長男は、冒険小説家の草分け押川春浪(本名、方存)。二男は、プロ野球の生みの親である押川清。 NHK朝の連続テレビ小説『はね駒』の登場人物・松浪毅のモデルである。 押川方義の生年に関しては諸説あったが、押川家の鎧櫃から「熊三郎 産髪包紙銘記 嘉永二年十二月五日出生 熊三郎産髪」 と記された和紙が発見され(実際に産髪が包装されていた)、嘉永2年生まれ(グレゴリオ暦への換算では1850年)であることがほぼ確実となった。