田中 順子(たなか じゅんこ、1973年10月2日 - )は… 田中 順子(たなか じゅんこ、1973年10月2日 - )は、日本の元アーティスティックスイミング(シンクロナイズドスイミング)選手である。学校法人常葉大学系列中学・高等学校教諭、体育教諭。現姓は平島 順子(ひらしま じゅんこ) 1973年(昭和48年)生まれ。静岡県静岡市出身。天理大学卒業。1996年アトランタオリンピックシンクロで銅メダルを獲得した。 この項目は、水泳選手(飛込競技選手・アーティスティックスイミング選手・水球選手を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJスポーツ人物伝)。
青木 まゆみ(あおき まゆみ、本名・西口まゆみ、1953年5… 青木 まゆみ(あおき まゆみ、本名・西口まゆみ、1953年5月1日 - )は、日本の競泳選手。オリンピック金メダリスト。現在は教師。熊本県山鹿市(旧菊鹿町)出身。
和田 映子(わだ えいこ、1939年4月25日 - )は、日… 和田 映子(わだ えいこ、1939年4月25日 - )は、日本の元競泳選手。愛媛県出身。1956年メルボルンオリンピック・1960年ローマオリンピック日本代表。自由形の元日本記録保持者。 南宇和郡御荘中学校、奈良県立五條高等学校、天理大学卒。 1956年のオリンピック選考会で100m自由形で4位に入り、400mフリーリレー要員としてメルボルンオリンピック日本代表に選出された。メルボルンオリンピックでは400m自由形と400mフリーリレーに出場し、ともに予選落ちだった。 1958年アジア競技大会では400m自由形で3位に入った。 1960年ローマオリンピック日本代表にも2大会連続で選出され、400m自由形と400mフリーリレーに出場した。
高松 好子(たかまつ よしこ、1938年4月16日 - )は… 高松 好子(たかまつ よしこ、1938年4月16日 - )は、日本の元競泳選手。和歌山県出身。ローマオリンピック日本代表。100m平泳ぎ・200m平泳ぎ元日本記録保持者。 伊都高校時代の高校総体で100m平泳ぎで3連覇を達成した。高1・高3では200m平泳ぎで優勝。個人種目で高校総体3連覇したのは女子史上初。 日本選手権では1955年から1960年にかけて100m平泳ぎ・200m平泳ぎで2冠かつ6連覇を達成した。100m平泳ぎでの6連覇は7連覇の長崎宏子に次ぐ歴代2位、6回の優勝は8回の田中雅美・7回の長崎宏子の次ぐ歴代3位の記録。200m平泳ぎでの6連覇は8連覇の長崎宏子・7連覇の前畑秀子に次ぐ歴代3位、6度の優勝は8度の長崎宏子・田中雅美、7度の前畑秀子に次ぐ歴代4位の記録。
佐藤 喜子(さとう よしこ、現在の氏名:大崎 喜子(おおさき… 佐藤 喜子(さとう よしこ、現在の氏名:大崎 喜子(おおさき よしこ)、1938年3月30日 - )は、日本の元競泳選手(種目は自由形)。アジア競技大会では1958年と1962年に合計7つの金メダルを獲得した。1956年メルボルンオリンピックおよび1960年ローマオリンピックでは短距離で合計5種目に出場し、最上位の成績は4×100mメドレーリレーの第7位であった。 奈良県五條市出身。中学校では当初陸上競技部に所属していたが、3年生の時に県大会にリレー選手として出場し、以後競泳選手となる。 奈良県立五條高等学校から天理大学に進む。 国内では日本選手権水泳競技大会の100mで1958年から1961年まで4年連続、200mで1955年から1961年まで7年連続で優勝した。
宮部 シズエ(宮部 シズヱとも、みやべ しずえ、1937年8… 宮部 シズエ(宮部 シズヱとも、みやべ しずえ、1937年8月3日 - )は、日本の元競泳選手。奈良県出身。ヘルシンキオリンピック・ローマオリンピック日本代表。50m自由形・100mバタフライ・200mバタフライ元日本記録保持者。現姓は辻内。 奈良県宇智郡野原町(現五條市)出身。 野原町立野原中学校在籍時の1952年6月に行われた日本選手権兼ヘルシンキオリンピック最終選考会において50m自由形2位・100m自由形4位に入り、ヘルシンキオリンピック日本代表に選出された。7月から8月にかけてヘルシンキオリンピックが開催されたが、100m自由形予選落ちに終わった。 高校は五條高等学校に進学。1953年、日本選手権の50m自由形で初の日本一になる。
神野 眸(じんの ひとみ、1937年3月8日 - )は、日本… 神野 眸(じんの ひとみ、1937年3月8日 - )は、日本の女子競泳選手。現姓:岩井。 愛知県名古屋市出身。少女時代は病弱だった為に医師から水泳を勧められて小学校時代から始める。名古屋市立桜山中学校から愛知淑徳高校に進学する。高校時代に自由形の選手としてインターハイ優勝、日本選手権などを経験し、当時競泳の名門であった奈良県の天理大学へと入学した。入学初年度に1956年メルボルンオリンピックに出場している。 その後大学は中退し、愛知淑徳高校の体育科講師に赴任して1958年の東京アジア競技大会に出場、女子100m自由形で3位となり銅メダルを獲得。また1960年ローマオリンピックに出場した。 ローマオリンピックを最後に現役を引退、引退後暫くは愛知淑徳高校の教員をしていたが、結婚を機に退職。