山本 吉兵衛(やまもと きちべえ、1830年 - 1904年… 山本 吉兵衛(やまもと きちべえ、1830年 - 1904年4月10日)は、三河国碧海郡高浜村(現・愛知県高浜市)出身の瓦職人。 三州瓦の鬼師(鬼板師とも、鬼瓦の製作者)であり、三河国における鬼師の元祖とされる。2021年(令和3年)時点で日本には70人から80人の鬼師がいるとされるが、うち約50人は三州瓦の産地である高浜市と碧南市に集中しており、これは2代目永坂杢兵衛と山本吉兵衛の存在が大きいとされる。 享保5年(1720年)には徳川吉宗や町奉行の大岡忠相によって瓦葺きが奨励され、町屋における屋根瓦の需要が増した。周辺地域で良質の粘土が取れたこと、燃料の入荷や製品の出荷のための海上交通が発達していたことなどから、近世の三河国では屋根瓦(三州瓦)の生産が盛んとなった。
鹿島 重好(かしま しげよし、天保元年(1830年) - 明… 鹿島 重好(かしま しげよし、天保元年(1830年) - 明治25年(1892年))は、日本の商人、政治家。島根県会議員。米子町年寄。 米子に下鹿島家2代重意の四男として生まれ、嘉永7年(1854年)分家して岩倉町に住み“岩鹿”と称された。家業は質屋で醤油・砂糖・荒物も商った。 安政7年(1860年)2月米子為替座御用を務め、文久2年(1862年)には藍座にも関与、慶応元年(1865年)2月町年寄仮役に任ぜられ、以後町年寄として働き、明治2年(1869年)4月荒尾氏の自分手政治廃止後も町年寄役を命ぜられた。 明治5年(1872年)1月第83・84区の仮戸長となり、明治7年(1874年)東倉吉町戸長となった。
葛城 彦一(かつらぎ ひこいち、1818年12月2日(文政元… 葛城 彦一(かつらぎ ひこいち、1818年12月2日(文政元年11月5日) - 1880年(明治13年)1月23日)は、幕末の武士で薩摩藩士、志士。本姓は竹内。名は経成または重任。通称は伴右衛門。変名として内藤助右衛門を名乗る。死後に正五位を贈られた。 大隅国加治木町(現在の鹿児島県姶良市)の郷士の子として生まれる。早くから国学を志し、天保9年(1838年)、20歳の時に江戸へ出て平田篤胤に入門した。門下では多くの学者や志士と交流をした。鹿児島に戻ると、島津家の家督相続の内紛のお由羅騒動が勃発していた。 葛城は島津斉彬を推して、その弟の島津久光に対抗したため、身の危険を感じ、同志の相良藤次とともに脱藩し、斉彬の大叔父の福岡藩藩主黒田斉溥を頼り筑前国に逃れた。
巣内 式部(すのうち しきぶ、1818年(文政元年)11月7… 巣内 式部(すのうち しきぶ、1818年(文政元年)11月7日 - 1872年10月5日)は、江戸時代幕末から明治時代の尊攘運動家、国学者、歌人。 伊予国(愛媛県)大洲比地町の代々染物屋を営む松井八郎兵衛の子として生まれる。諱は信善。幼名は民三郎。幼くして、書籍と薬種を商っていた巣内(丸屋)久兵衛の養子となった。青年時代に阿蔵村の八幡神社宮司の常盤井厳戈の塾古学堂に入り、国学や漢学、和歌を学んだ。同門の塾生に武田竹塘や青野完治、矢野玄道、大村益次郎の暗殺犯となる神代直人がいた。その後家業を継ぎ、養父と同じ久兵衛を名乗ったが、尊王攘夷思想に傾倒していき、安政の大獄や桜田門外の変が起こると、43歳にして遂に家業を廃して国事に奔走する道を選んだ。
石井 忠行(いしい ただつら、文政元年8月26日(1818年… 石井 忠行(いしい ただつら、文政元年8月26日(1818年9月26日) - 1894年(明治27年)8月6日)は、江戸時代後期から明治時代にかけての著述家、旧久保田藩士。通称は弥五右衛門、雅号は伊頭園。 出羽国秋田郡久保田城下手形谷地町(現・秋田市手形新栄町)に生まれる。 1842年7月10日(天保13年6月3日)、忠行が数え25歳の時に父・忠潔が49歳で没する。 忠行は1863年(文久3年)、久保田藩の蝦夷地御持場見分御用出役として蝦夷地の増毛陣屋に赴任し、さらに大坂詰勘定吟味役や能代方同吟味役を歴任する。次いで財用奉行に栄進し、そのとき城下大堰端側、楢山本新町(通称裏町)の南角屋敷に移った。
三代 正田 文右衛門(さんだい しょうだ ぶんえもん、181… 三代 正田 文右衛門(さんだい しょうだ ぶんえもん、1818年8月3日〈文政元年7月2日〉 - 1895年〈明治28年〉3月26日)は、群馬県館林の商人(米穀商、質屋)、醤油醸造家。正田醤油の基礎を作った。幼名藤十郎、家督を継ぐと、先代文右衛門を襲名し、隠居後更に文七と改めた。実業家の正田貞一郎は孫。上皇后美智子は玄孫にあたる。 館林で生まれた。祖父の業を継ぎ米穀商を営み、その傍らで質屋も家業とした。17歳のころより盛んに販路を江戸へ拡張し、常に高瀬舟数十隻を利根川・渡良瀬川の両川に浮かべ、大量取引に役だてた。とくに東国での大麦の評判は高く、「本館麦」として世間にその名が広まった。 また、海路遠く大阪までその影響力が及んで、当時、道頓堀において「上州米文」の名でよく相場の変動が左右された。
市川 兼恭(いちかわ かねのり、文政元年5月11日(1818… 市川 兼恭(いちかわ かねのり、文政元年5月11日(1818年6月14日) - 明治32年(1899年)8月26日)は、幕末・明治の蘭学者。オランダ語、ドイツ語を修得。西洋兵学を学ぶ。姓は源、幼名三輔。後、岩之進または斎宮、明治2年(1869年)9月逸吉に改める。号は浮天斎。父は広島藩藩医の市川文微。母は林氏政子。市川文吉は長男。 福井藩で砲術師範となった。幕府天文台訳員を勤め、蕃書調所と開成所教授職を歴任。大番格砲兵差図役頭取勤方となる。電信機や活版印刷などの技術開発に携わる。維新後は陸軍兵学中教授となった。東京学士会院会員。 清水卯三郎「和蘭文典前後編」によれば蘭学の文法書「セインタキス」を翻刻したのは箕作阮甫であるとしているが、市川兼恭「経歴談」によると、市川が杉田のところにいた際に箕作から頼まれて版下を書き下ろして印刷したとある。
宮崎 政賢(みやざき まさかた、文化15年2月20日(181… 宮崎 政賢(みやざき まさかた、文化15年2月20日(1818年3月26日) - 明治12年(1879年)10月10日)江戸時代後期から明治時代初期にかけての肥後国玉名郡荒尾村(現熊本県荒尾市)の郷士。自由民権運動や辛亥革命支援で知られる宮崎兄弟の父。長蔵、長兵衛とも。 郷士・宮崎政明の子として肥後国玉名郡荒尾村に生まれる。初名は長兵衛。宮崎家は遠祖を菅原道真とする荒尾村随一の地主であり、寛文7年(1667年)頃、肥後藩に一領一疋で召し抱えられて以降、郡内の諸役を務める郷士として代々世襲し、長兵衛が9代目となる。 武人として学問・剣術・居合・砲術・軍学などを学ぶ。嘉永元年(1848年)頃、隣村・長洲の士族・永屋清次の長女・佐喜(サキ)と結婚。
佐藤 元萇(さとう げんちょう、文政元年(1818年)- 明… 佐藤 元萇(さとう げんちょう、文政元年(1818年)- 明治30年(1897年)8月7日)は、日本の医師。江戸幕府医学館教授。森鷗外の漢詩、漢文の師である。号は応渠。 父は佐藤重俊である。陸奥国会津に生まれ、会津藩藩主松平容保の侍講を務めた高津淄川に学んだ。江戸詰御医師として五人扶持を給され、藩邸を拠点に多紀元堅(多紀茝庭)から医学を学ぶ。佐藤は多紀塾の塾頭に進んだ。黒船来航後に種痘を学び、郷里で施術を行っている。安政4年(1857年)に幕命によって医学館医書校正となり、講師を経て教授に進んだ。文久3年(1863年)には征夷大将軍徳川家茂に拝謁し、袋杖登城を許された。藩命により幕末の京へも赴いている。
大原 観山(おおはら かんざん、1818年 - 1875年4… 大原 観山(おおはら かんざん、1818年 - 1875年4月11日)は、伊予国出身の儒者。本名は有恒。通称は武右衛門。
杣ヶ花 渕右エ門(そまがはな ふちえもん、1818年(文政元… 杣ヶ花 渕右エ門(そまがはな ふちえもん、1818年(文政元年) - 1849年10月12日(嘉永2年8月26日))は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県鴻巣市)出身で雷部屋に所属した力士。本名は岡戸、諱は不明。身長体重不明。最高位は東前頭5枚目。 1837年1月に雷部屋から初土俵を踏み、1846年11月、数え29歳にして入幕を果たした。入幕までは時間がかかったが、入幕後は実力を発揮、1849年3月に5枚目まで番付を上げたが、8月に巡業中の庄野宿で現役中のまま没した。兄弟の孫に紅葉川孝市がいる。 幕内6場所23勝19敗11休7分預 紅葉川浪藏→杣ヶ花渕右エ門
伊藤 鳳山(いとう ほうざん、文化3年(1806年) - 明… 伊藤 鳳山(いとう ほうざん、文化3年(1806年) - 明治3年(1870年))は、出羽庄内藩領の酒田(現在の山形県酒田市)出身の儒学者。 田原藩家老渡辺崋山に見出され、以降田原藩藩儒として仕える。家老渡辺崋山、藩医鈴木春山とともに田原の三大山と謳われた。崋山の影響を受けた鳳山は、ペリー来航時には「鎖港攘夷の策はとるべきではなく、開港進取の策こそ守るべき」と積極的開国を主張し、欧米文化の摂取を主張した。 儒学者としては、京都、江戸、酒田などに私塾を開塾した。孫子の注解書である著書『孫子詳解』は高い評価を得ている[誰によって?]。
牧庵 鞭牛(ぼくあん べんぎゅう、宝永7年(1710年) -… 牧庵 鞭牛(ぼくあん べんぎゅう、宝永7年(1710年) - 天明2年9月2日(1782年10月8日))は、江戸時代中期に陸奥国で活動した僧。 1710年(宝永7年)、和井内村(現在の岩手県宮古市)の農家にて出生。成長後は炭鉱夫などに従事していたが、22歳の時、母の死を機に仏門に入る。1748年、32歳の時に栗林村(現在の岩手県釜石市)曹洞宗常楽寺住職、38歳で林宗寺住職になる。 1755年(宝暦5年)、46歳の時に三陸・閉伊地方を襲った飢饉(宝暦の飢饉)の被害のあまりの大きさに直面し、古くから陸の孤島であったこの地方と内陸とを結ぶ道を築く事を決意し、以後は三陸沿岸の海辺道をはじめ、宮古から盛岡に至る往路などの開削に生涯を捧げることとなる。
青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日〈1698… 青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日〈1698年6月19日〉 - 明和6年10月12日〈1769年11月9日〉)は、江戸時代中期の、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者。さつまいもの普及を図り、甘藷先生(かんしょせんせい)と呼ばれる。名は敦書(あつのり、あつぶみ)、字は厚甫(原甫とも)、通称は文蔵、昆陽と号した。 江戸日本橋小田原町(現在の東京都中央区)の魚屋・佃屋半右衛門の1人息子として生まれる。先祖は近江国の人で、蒲生氏一族という。 浪人として京都の儒学者である伊藤東涯の古義堂に入門して儒学を学ぶ。江戸町奉行所与力・加藤枝直(又左衛門)と懇意で、享保18年(1733年)に加藤の推挙により南町奉行・大岡忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許される。
陸奥守 吉行(むつのかみ よしゆき、1650年 - 1710… 陸奥守 吉行(むつのかみ よしゆき、1650年 - 1710年)は、陸奥国中村(現:福島県相馬市中村)、または摂津国住吉(現:大阪府大阪市住吉区)出身の刀工。本名は森下平助。土佐に移住したことから土佐吉行とも呼ばれる。 同じく刀工である播磨守吉成の次男で、上野守吉国の弟。山岡家の養子となり、のち父兄ともに大坂の刀工・初代大和守吉道に入門し、作刀を修行する。土佐藩の山岡家の養子となった際に山岡姓を名乗る。吉行は元禄年間に土佐藩に招聘され、同藩の鍛冶奉行となった。後に受領名として陸奥守を受領する。大坂にてその生涯を終えたとされている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
トマス西六左衛門(トマス にし ろくざえもん、1590年 -… トマス西六左衛門(トマス にし ろくざえもん、1590年 - 1634年11月17日(寛永11年9月17日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教(カトリック)の司祭。1987年に「聖トマス西と15殉教者」の一人としてカトリック教会の聖人に列せられた。 1590年(天正18年)、ガスパル西の次男として肥前国松浦郡生月島(現在の長崎県平戸市)で誕生。母はウルスラ・トイ。両親は敬虔なキリシタンであり、自身もカトリックの幼児洗礼を受けた。幼少のころ有馬(現在の長崎県南島原市)のセミナリオで勉学に励み、同宿(教会や修道院で奉仕する人)になり、1620年にマニラに渡る。1624年、ドミニコ会に入り「ロザリオのトマス」の修道名を授かる。
セバスチャン木村(セバスチャンきむら、1566年(永禄9年)… セバスチャン木村(セバスチャンきむら、1566年(永禄9年)ごろ - 1622年9月10日(元和8年8月5日))はカトリック教会の日本人最初の司祭、また日本人最初の殉教司祭である。イエズス会士。元和の大殉教のときに長崎・西坂で殉教した55人の中の一人であり、教皇ピウス9世により1867年7月7日に列福された。記念日は9月10日。 1566年(永禄9年)ごろ、平戸のキリシタン一家に生まれる。祖父は、フランシスコ・ザビエルが1550年秋、鹿児島からミヤコに向かう途中の平戸で宿泊した屋敷の主人で、同地でのザビエルからの最初の受洗者であった。1580年(天正8年)に開設された有馬のセミナリオに最初の生徒20人の一人として入学した。