釼持(剣持)忠四郎(けんもち ちゅうしろう、1864年9月24日(元治元年8月24日) - 1909年(明治42年)10月1日)は、明治時代の教育者。 岡倉天心(覚三)の腹心として、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の運営や、日本美術院の創設に深く関わった。 武蔵国榛沢郡新会村(現・埼玉県深谷市)出身。1883年(明治10年)に陸軍に入隊、1885年(明治18年)9月に体操の研究のため陸軍戸山学校体操科に入学し、同年に卒業。近衛兵も務め[要出典]、1889年(明治22年)に退役。 1890年(明治23年)7月から1898年(明治31年)4月まで東京美術学校に勤務した。同校では体育を教授したほか、教務や助教授を務め、校長であった岡倉天心の秘書的役割も担った。
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