スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
神戸暖稀羽(かんべ ののは、2003年11月5日 - )は、… 神戸暖稀羽(かんべ ののは、2003年11月5日 - )は、北海道岩見沢市出身の女子競輪選手。日本競輪選手会北海道支部所属、ホームバンクは函館競輪場。日本競輪選手養成所(以下、養成所)第124期。師匠は中里福太郎(113期)。 小学6年生の冬に、たまたま観たKEIRINグランプリ2015のテレビ中継で初めて競輪、そしてガールズケイリンを知ったことで競輪に興味を持ち、小学校の卒業文集では「競輪選手になりたい」と書いた。2016年4月には、函館競輪場に出向いてガールズケイリン(4月16日 - 18日の函館FII)を生観戦したことで、自身も競輪選手を目指すことを決意。ちなみにこの時、大好きだったチョコレートを「競輪選手になるまで食べない」と決意し「チョコ断ち」したが、競輪選手として本格デビューした2023年7月にようやく解禁した。
成田 可菜絵(なりた かなえ、1987年5月9日 - )は、… 成田 可菜絵(なりた かなえ、1987年5月9日 - )は、北海道北斗市(旧上磯町)出身の女子競輪選手。日本競輪選手会大阪支部所属、ホームバンクは岸和田競輪場。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第112期生。師匠は古原勝己(60期)。 小学校のときに陸上競技を始めて、中学2年となった2001年第28回全日本中学校陸上競技選手権大会100mと200mで優勝、翌2002年第29回全日本中学校陸上競技選手権大会100mと200mで2種目2連覇を達成し、4×100mリレーでも優勝して3冠に輝いた。函館大谷高等学校から龍谷大学国際文化学部に進む。大学卒業後、1度は就職したが陸上で鍛えた脚力を競輪に生かしたいと考え、競輪選手を目指すこととなった。
大森 慶一(おおもり けいいち、1981年10月15日 - … 大森 慶一(おおもり けいいち、1981年10月15日 - )は、北海道函館市出身の競輪選手。日本競輪学校(以下、競輪学校)第88期生。師匠は実父の大森芳明(競輪学校第41期生)。 函館大谷高等学校出身。 2003年7月4日、立川競輪場で競輪選手デビューし2着。初勝利は同年同月5日の同場。
JIRO(ジロウ、1972年10月17日 - )は、日本のベ… JIRO(ジロウ、1972年10月17日 - )は、日本のベーシストで、GLAY兼THE PREDATORSのメンバー。本名、和山 義仁(わやま よしひと)。 北海道函館市出身。函館市立鍛神小学校、函館市立赤川中学校、函館大谷高等学校卒業。 GLAYメンバーで唯一、芸名が本名に由来していない(TAKUROとHISASHIは下の名前(琢郎・尚)をそのまま、TERUは本名の「照彦(てるひこ)」の略称である)。由来は、GLAY加入前に所属していたバンド「ピエロ」のボーカリストに名前を聞かれ、とっさに「JIRO」と答えたため。本人も、何故自分が「JIRO」と言ったのかまったく分からないらしい。 その端正な顔立ちから、女性に非常に人気があり、芸能人でも武井咲や佐々木希がファンを公言している。
俵 信之(たわら のぶゆき、1964年9月22日 - )は日… 俵 信之(たわら のぶゆき、1964年9月22日 - )は日本の元競輪選手、自転車競技選手。 北海道函館市出身(旭川市生まれ)。日本競輪学校(当時)第53期生。現役時代は日本競輪選手会北海道支部所属(元支部長)。師匠は新井雄司。初出走は1984年5月3日の函館競輪場で初勝利も同日。血液型はO型。 函館大谷高等学校在学中から自転車競技ジュニア世界選手権のスプリント種目に出場し、競輪選手としてデビュー後の1986年には、世界選手権自転車競技大会のスプリント種目に初出場し、中野浩一・松井英幸に次いで3位に入賞。翌年1987年の同大会では優勝し、前年までの中野のV10に続く日本人選手V11を達成した。 競輪選手としては1984年にデビュー。
中山 俊之(なかやま としゆき、1951年6月25日 - )… 中山 俊之(なかやま としゆき、1951年6月25日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手・アマチュア野球指導者。 函館大谷高校から北海道産業短期大学へ進学して第2回明治神宮大会でも登板、卒業後に大昭和製紙北海道へ入社。1973年の都市対抗にエースとして出場する。1回戦で住友金属の山中正竹と投げ合い、延長15回両チーム無得点で引き分ける。続く再試合で光内数喜(鐘淵化学から補強)、2回戦では日本楽器の池谷公二郎に投げ勝ち、準々決勝に進出。日本通運に惜敗するが、この年に創設された若獅子賞に輝く。 1973年ドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受けるも拒否。1974年の都市対抗でチームは優勝するが、柳俊之(電電北海道から補強)、千藤和久(北海道拓殖銀行から補強)両投手の陰に隠れ、活躍の場はなかった。
菊川 君子(きくかわ きみこ、1905年(明治38年)9月1… 菊川 君子(きくかわ きみこ、1905年(明治38年)9月18日 - 1990年(平成2年)10月17日)は、日本の婦人運動家、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・巽。 北海道亀田郡戸井村汐首(現函館市)で生まれる。1924年、函館大谷女学校を卒業した。 その後上京して、看護婦見習いなど多くの職業に従事し、社会運動に関わるようになった。全国婦人同盟、無産婦人同盟の結成に加わり、無産婦人同盟常任委員、同財務部長を務めた。1931年、中野区に中野組合病院の設立に尽力し、会計を担当した。 戦後、日本社会党の結党に加わる。1947年の衆院選に夫の菊川忠雄が旧東京4区から社会党公認で立候補し初当選した。君子は党の婦人部員として運動を推進し、婦人問題研究会常任理事、東京家庭裁判所調停委員を務めた。