スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
町田 ヒロチカ(まちだ ヒロチカ、1992年 - )は、日本… 町田 ヒロチカ(まちだ ヒロチカ、1992年 - )は、日本のイラストレーター、アーティスト、作家。青森県弘前市出身。海や山、動物などの自然や、自身の旅から得たインスピレーションを基にした、自由な世界観の表現を特徴とする。 1992年、青森県弘前市に生まれる。青森県立弘前高等学校を卒業後、音楽活動のために上京し、東京学芸大学に進学。大学在学中、自身の所属するバンドのチラシやジャケット制作をきっかけにイラストの依頼を受けるようになり、大学3、4年時より本格的にイラストレーターとしての活動を開始した。 大学卒業後、オーストラリア(メルボルンなど)での約1年間の生活を経て帰国。その後、東京、神奈川県逗子市へと拠点を移しながら活動を続け、2022年9月に故郷である弘前市へUターンした。
福井 次郎(ふくい じろう、1955年 - )は、日本の小説… 福井 次郎(ふくい じろう、1955年 - )は、日本の小説家、詩人、映画評論家。 趣味のユダヤ人研究、 映画、専門の世界史を結びつけた本を執筆している。2013年には自身初の小説も刊行した。 青森県大鰐町出身、在住。父は中学校の教員であった。日本作詞家協会に所属した時期もあった。青森県立弘前高等学校入学後は演劇部に入部した。演劇部では全国大会優勝を成し遂げた。小惑星探査機「はやぶさ」のプロジェクトマネージャー川口淳一郎は同期。一浪の後、早稲田大学第一文学部に入学。入学後1年目の夏には弘前市で劇団「炎天下」を立ち上げた。寺山修司は大学時代、一時アルバイトしていた渋谷のパブレストランの常連であった。
多門 昭(たもん あきら、本名・横山 義昭、1951年2月1… 多門 昭(たもん あきら、本名・横山 義昭、1951年2月12日 - )は、日本の小説家。コピーライターを経て、2010年2月、短編小説「杠(ゆずりは)」が文芸雑誌・季刊文科(鳥影社刊)に掲載、本格的に創作活動を始める。 青森県出身。弘前高等学校・明治大学文学部英米文学科を卒業後、広告代理店のコピーライターとなり、以後フリーランス。短編小説集『ぱちもん』を鳥影社より2011年1月27日、季刊文科コレクションとして発刊。
赤羽 尭(あかばね たかし、1937年8月26日 - 199… 赤羽 尭(あかばね たかし、1937年8月26日 - 1997年1月22日)は、日本の作家。本名は庄司英樹。 青森県弘前市生まれ。明治大学文学部卒。 20代の前半に世界各地を放浪し、国際情勢を身をもって体験。帰国後、週刊誌の記者を経て、『スパイ特急』で文壇にデビュー。1986年『脱出のパスポート』が第96回直木賞候補に選ばれた。主として海外を舞台にしたスパイ小説・歴史小説を書く。
長部 日出雄(おさべ ひでお、1934年〈昭和9年〉9月3日… 長部 日出雄(おさべ ひでお、1934年〈昭和9年〉9月3日 - 2018年〈平成30年〉10月18日)は、日本の小説家、評論家。ミュージシャンの大友康平は甥。 青森県弘前市出身。弘前市第一大成国民学校、弘前市立第三中学校、青森県立弘前高等学校卒業。早稲田大学第二文学部哲学科を中退し、読売新聞社に入社。1957年『週刊読売』記者となる。大島渚、永六輔、野坂昭如、筒井康隆、小林信彦らをいち早く評価し、彼らと交友する[要出典]。その後退職し、雑誌『映画評論』編集者、映画評論家・ルポライターを経て、作家となる。 1973年『津軽じょんから節』と『津軽世去れ節』により、第69回直木賞を受賞。1979年『鬼が来た-棟方志功伝』により、第30回芸術選奨文部大臣賞を受賞。
獏 不次男 (ばく ふじお、1934年4月14日 - 201… 獏 不次男 (ばく ふじお、1934年4月14日 - 2011年12月19日)は、日本の小説家、詩人。本名は阿部次男。 青森県弘前市百石町九番地「文化堂阿部煎餅店」店主の長男として生まれた。父は阿部幸一、母はいわ。養生幼稚園、弘前市立時敏国民学校へ入学した。病弱な幼少期を送り、若くして母が死去したことから、母への追慕の念がたびたび作品に現れる。弘前市立第一中学校に入学後、当時の国鉄・NHK・東奥日報共催の作文コンクールで入賞し、NHKラジオで朗読放送をした。この時、長部日出雄(後の直木賞作家、当時弘前市立第三中学校在校)も入賞している。高校に入ると長部日出雄も青森県立弘前高等学校に入学しており、後々まで親交が続いた。
原子 昭三(はらこ しょうぞう、1927年(昭和2年) - … 原子 昭三(はらこ しょうぞう、1927年(昭和2年) - 2013年(平成25年)9月3日)は、日本の著作家、教育者。元中学校教諭、元弘前市議。青森県弘前市出身。 青森県神社総代連合会理事、財団法人養生会理事、日本会議青森県本部運営委員長。 「東京裁判史観」、「日本侵略論」を批判する立場で、数冊の著書がある。
津川 武一(つがわ たけいち、1910年8月2日 - 198… 津川 武一(つがわ たけいち、1910年8月2日 - 1988年9月4日)は、日本の政治家、精神科医、作家である。 青森県南津軽郡五郷村(現青森市浪岡地区)に生まれ、小作人の子どもとして育つ。学業成績が優秀であったため、小学校の教師のすすめで弘前中学校に進学し、その後旧制弘前高等学校に進む。弘前高時代は、石上玄一郎と交友をもつ。なお、太宰治とも同時期に弘前高に在学していたが、そのころは交流はなかったという。なお、津川、石上、太宰は、いずれも旧制中学四修で高校入学組の秀才だった。ただし、太宰は高等小学校1年就学後に中学入学のため津川と石上よりは一歳上だった。 1930年、東京帝国大学医学部に進学。
平田 小六(ひらた ころく、1903年11月1日 - 197… 平田 小六(ひらた ころく、1903年11月1日 - 1976年5月18日)は、日本の作家。 秋田県生まれ。弘前中学校卒。プロレタリア文学の作家として出発、農民小説を書く。戦後は新日本文学会所属。 英語教師である父・孝次郎の勤務先である秋田県大館町に生まれる。第五十九国立銀行の行員となった父の転勤に伴い、幼い時期は青森県内を転々とする。1923年(大正12年)に弘前中学校を卒業すると、家計を助けるために進学を断念して代用教員に就く。1924年、北津軽郡小泊村下前尋常小学校(後の下前小学校。2010年に小泊小学校に統合され閉校)に訓導として着任する。(下前尋常高等小学校は明治9年に完成しました)この下前での2年弱の体験が、後の『囚はれた大地』の原型となった。
石坂 洋次郎(いしざか ようじろう、1900年〈明治33年〉… 石坂 洋次郎(いしざか ようじろう、1900年〈明治33年〉1月15日 - 1986年〈昭和61年〉10月7日)は、日本の小説家。青森県弘前市代官町生まれ。慶應義塾大学国文科卒。『若い人』で文壇に登場。戦後は新聞小説に活躍。『青い山脈』をはじめとする青春物で、国民的な人気を博した。数多くの作品が映像化されている。 弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校)に学び、慶應義塾大学文学部を卒業。大学時代、心酔していた郷里の作家葛西善蔵を鎌倉建長寺の境内の寓居に訪ねるも、酒に酔った葛西から故郷の踊りを強要され、さらに相撲で捻じ伏せられた上、長刀を頭の上で振り回されて幻滅と困惑を感じる。
秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月3… 秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月30日 - 1962年〈昭和37年〉5月12日)は、日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家である。本名は徳三(とくぞう)。 産科医である父玄庵(全盲であった)と、母まつの長男として青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれる。黒石尋常小学校、青森県立第一尋常中学校(青森県立弘前高等学校の前身)を経て東京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科に入学する。在学中の1904年、詩集「黎明」を刊行。 1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表。小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、戯曲への関心を深める。
薄田 斬雲(うすだ ざんうん、「すすきた ざんうん」とも、1… 薄田 斬雲(うすだ ざんうん、「すすきた ざんうん」とも、1877年(明治10年)1月27日 - 1956年(昭和31年)3月27日)は、日本の小説家・ジャーナリスト。伝記作品を多く残した。本名は貞敬。 青森県弘前町蔵主町(現・弘前市)出身。1895年(明治28年)青森県尋常中学校を経て、1899年(明治32年)に東京専門学校(現・早稲田大学)文学科選科を卒業。京成日報記者を経て早稲田大学出版部編集委員となる。1917年(大正6年)には衆議院議員野田卯太郎、頭山満、子爵で法学博士の田尻稲次郎らの組織した大民団(大民倶楽部)に加わり山田三七郎とともに運営本部の任にあたった。作家としては、デビュー当初は自然主義の影響下にある小説・戯曲・随筆などを発表していたが、徐々に関心のメインは伝記などへ移っていった。
佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日… 佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日 - 1949年〈昭和24年〉6月3日)は、日本の劇作家・小説家・俳人。本名:洽六 1874年(明治7年)、現在の青森県弘前市親方町に、旧弘前藩士の父・弥六、母・支那(しな)の次男として出生。 父の佐藤弥六(1842年 - 1923年)は、幕末に福沢諭吉の塾(慶應義塾)で学び、帰郷して県会議員となり産業振興に尽力、また『林檎図解』『陸奥評話』『津軽のしるべ』などの著書も著し、森鷗外の作品「渋江抽斎」にも郷土史家として登場する、弘前を代表する人物だった。 1890年東奥義塾を中退、青森県尋常中学校(後の青森県立弘前中学校 現・弘前高校)に入学。