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渡部 敬太郎(わたなべ けいたろう、1927年〈昭和2年〉1… 渡部 敬太郎(わたなべ けいたろう、1927年〈昭和2年〉1月15日 - 1997年〈平成9年〉11月26日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官である。陸軍予科士官学校卒業(第60期)。第18代陸上幕僚長、第15代統合幕僚会議議長。息子渡部直己は文芸評論家で、元・早稲田大学文学学術院教授。陸海空自衛隊を通じ初の昭和生まれの幕僚長。 福島県相馬中学から仙台陸軍幼年学校を経て陸軍予科士官学校を卒業、陸軍士官学校本科(第60期)に入校直後に終戦を迎える。1950年(昭和25年)、警察予備隊に2等警査(2等陸士)として入隊する。その後は在ソビエト日本大使館付防衛駐在官、第2普通科連隊長、陸幕人事部長、第10師団長と、陸上自衛隊の成長とともに歩んでいった。
柴田 武雄(しばた たけお、1904年(明治37年)2月20… 柴田 武雄(しばた たけお、1904年(明治37年)2月20日 - 1994年(平成6年)8月11日)は、日本の海軍軍人、宗教家。福島県相馬郡出身。海兵52期。最終階級は海軍大佐。 福島県相馬郡松ヶ枝原釜(現相馬市原釜)に生まれる。子供のころはひ弱で言語障害をもっていた。少年時代から作文と弁論は苦手であったという。小学校を6年と父の意思で高等科を2年経た後、相馬中学に100人中14番の成績で入学。柴田によれば中学時代は数学の神様と呼ばれ、中学1年の時に催眠術を覚え、中学4年の時に的中率100%の数理的占い法を発明したという。中学5年の1学期に予言的占師ドウシタイと1週間寝食を共にし奥義を伝授されたという。
高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月2… 高橋 伊望(たかはし いぼう、1888年(明治21年)4月20日 - 1947年(昭和22年)3月18日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において司令長官職を歴任した海軍中将である。 福島県出身。相馬中学を経て1908年(明治41年)、海軍兵学校36期を卒業。席次は入校時192名中5番。在校中2学年とも学術優等章を授与され、191名中10番で卒業した。同期に南雲忠一、沢本頼雄、清水光美らがいる。 高橋は海軍砲術学校を修了した砲術専攻士官で、戦艦「石見」砲術長を務めた。海軍大学校17期を卒業後、2年間英国に駐在している。ロンドン海軍軍縮会議では随員を務め、帰国後は海軍省副官となる。会議後の帝国議会では海軍政務次官経験者が海軍造艦政策に対する追求を行ったが、艦政本部での経験を活かし、海相安保清種を補佐した。
木幡 行(こわた つよし、1887年6月2日 - 1977年… 木幡 行(こわた つよし、1887年6月2日 - 1977年8月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。福島県出身。従四位勲三等功四級。 1887年(明治20年)6月2日に福島県標葉郡両竹村で木幡清茂の次男として生まれる。木幡家は代々相馬中村藩の藩士であったが没落し、極貧の少年時代を過ごした。7、8歳の頃に日清戦争が勃発し、出征や凱旋などを見聞きしていた木幡は、将来軍人になることを密かに決意する。しかし、家は困窮して学費を出せる状況ではなかったために「学費は一切親に頼らぬ。教科書は必ず筆写する。」ことを心に誓い、福島県立第四中学校に入学し、入学から卒業まで特待生を続け、傍らに新聞配達などをして学費を稼いだ。