スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
斉藤 学(さいとう まなぶ、1963年8月12日 - )は、… 斉藤 学(さいとう まなぶ、1963年8月12日 - )は、茨城県下館市(現在の筑西市)出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。右投右打。 2019年以降の登録名は齋藤 学(読み同じ)。姓については一部報道で「斎藤」と表記されることもある。 下妻一高では1年夏からアンダースローの投手になる。2年夏にエースで県大会準優勝、3年夏はノーヒットノーランも達成してベスト4。1982年、青山学院大学に進む。東都大学リーグでは3年生の1984年春に2部リーグでMVP、最優秀投手となり、1年上の小川博投手とチームの1部昇格に貢献。4年次の1985年春季1部リーグ戦では8勝3敗で最優秀投手とベストナインに選出された。
中沢 春雄(なかざわ はるお、1946年4月13日 - )は… 中沢 春雄(なかざわ はるお、1946年4月13日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 下妻第一高校から立教大学へ進学。東京六大学野球リーグでは1966年春季リーグで優勝を経験、しかしその後は優勝に届かなかった。4年時には主将をつとめ、三塁手、三番打者として活躍。同期のエース土井池憲治、捕手の田中鞆雅(日本石油)のバッテリーを擁し、1年下の望月充とクリーンアップを組み、低迷期の立大を支えた。 卒業後は1970年に本田技研工業へ入社し、同年の都市対抗に四番打者として出場。河本昭人らの好投もあり準々決勝に進むが、住友金属の山中正竹らに抑えられ、渡辺弘基(日産自動車から補強)のサヨナラ押し出し四球で延長11回サヨナラ負け。
飯塚 勝一(いいづか かついち 生年不明 - 1944年12… 飯塚 勝一(いいづか かついち 生年不明 - 1944年12月4日)は、日本の元アマチュア野球選手。茨城県出身。 茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)から1932年に慶應義塾大学へ進み、野球をプレーした。ポジションは投手だったと伝わる。 慶大卒業後応召され、1944年12月4日に屋久島西方海上で戦死した。1932年に慶大に入学していることから、1910年代前半に生まれたものと推定されるので、30歳前後で死没したことになる。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
岡野 久一(おかの きゅういち、1937年1月25日 - 没… 岡野 久一(おかの きゅういち、1937年1月25日 - 没年不詳)は、茨城県つくば市出身の元プロ野球選手。 下妻第一高校から東京鉄道管理局を経て、1957年に国鉄スワローズへ入団。
初岡 栄治(はつおか えいじ、1930年6月22日 - 20… 初岡 栄治(はつおか えいじ、1930年6月22日 - 2015年1月8日)は、茨城県出身の元プロ野球選手(投手・外野手)。 下妻中では1947年に4番・投手として夏の甲子園茨城大会で優勝し、北関東大会に進出するも初戦で敗退。卒業後は東京鉄道局に進み、シュート、ドロップを武器に主戦投手として活躍。 その後は専修大学を中退し、1950年に新球団の国鉄スワローズへ入団。球威はないものの変化球や制球が良かったため高橋輝に次ぐ主戦投手として期待されたが、結果を出せずに2年目の1951年からは外野手に転向。3年目の1952年には規定打席に到達するが、佐藤孝夫の外野転向と安居玉一の入団、町田行彦の成長もありレギュラーから陥落。
上口 政(かみぐち まさ、1923年3月28日 - 没年不明… 上口 政(かみぐち まさ、1923年3月28日 - 没年不明)は、茨城県出身の元プロ野球選手。 下妻中学校を経て明治大学でプレー。1943年の学徒出陣により兵役に就くと、満州・北支・台湾を転戦し、1946年正月過ぎに帰還。 上口は日本コロムビアへの就職が内定していたが、明治大学の同期であった大下弘の誘いを受けて、1946年3月にセネタースに投手兼外野手として入団。 開幕戦となる4月27日の東京巨人軍戦では6番ライトで先発出場。5月30日の中部日本戦で初登板し、明治大学の同期であった貫井丞治とバッテリーを組むが、6回0/3を自責点8と打ち込まれた。 1947年シーズン終了後に退団した。 制球力があり、球にクセがなかったことから、主砲の大下弘から好んで打撃投手に指名されていた。