スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
星野 ひので(ほしの ひので、2005年4月18日 - )は… 星野 ひので(ほしの ひので、2005年4月18日 - )は、群馬県桐生市出身のプロ野球選手(外野手・育成選手)。右投右打。北海道日本ハムファイターズ所属。 桐生市立新里中央小学校在学時は大間々東小リトルジャイアンツ、桐生市立新里中学校在学時は硬式野球のクラブチームである桐生ボーイズでプレーしていた。 群馬県立前橋工業高等学校では1年夏から3番打者を務めたが、2年夏の大会後に右肘の手術を受けて離脱。リハビリ中は柔軟性アップと下半身の強化に努め、体重を69kgから84kgまで増量した。その後復帰し、3年夏の群馬大会では常盤との2回戦で2本塁打を放ったが、続く3回戦で関東学園大附に敗れた。3年間で甲子園大会出場はなかった。
星 秀和(ほし ひでかず、1986年11月10日 - )は、… 星 秀和(ほし ひでかず、1986年11月10日 - )は、群馬県前橋市出身の元プロ野球選手(外野手・内野手・捕手、右投左打)・コーチ。 前橋工業高時代は3年夏の全国高等学校野球選手権群馬大会で準優勝。高校通算39本塁打。2004年のドラフト会議で西武ライオンズに5巡目指名され、捕手として入団。「ほかのキャッチャーよりもバッティングがいい」と評価され、「伊東2世」と呼ばれるなど期待が高かった。 一年目の2005年は二軍で39試合に出場し、打率.203の成績を残した。捕手24試合・三塁手2試合・外野手1試合で起用された。 俊足と打力を生かすため、2006年より内野手へ転向。本人は引退後に出演した野球Youtuberトクサンの動画内で、「入団した翌年に炭谷銀仁朗が入ってきて、2秒で捕手をクビになった」と語っている。
井野 卓(いの すぐる、1983年11月23日 - )は、群… 井野 卓(いの すぐる、1983年11月23日 - )は、群馬県前橋市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。 小学1年生の時から野球を始め、ポジションはよく入れ替わったが中学3年生の時から捕手一本となる。前橋工業高校3年生の時は2001年夏の群馬大会で優勝し、甲子園に出場。卒業後、東北福祉大学に進学する。仙台六大学リーグで通算64試合166打数56安打・打率.337。2004年には日米大学野球日本代表に選出された。 強肩とチームをまとめる統率力が認められ、2005年度ドラフト会議にて東北楽天ゴールデンイーグルスから7巡目指名を受けて入団。東北福祉大学の同期である松崎伸吾も楽天から1巡目指名を受けて入団し、チームメイトとなった。
狩野 恵輔(かのう けいすけ、1982年12月17日 - )… 狩野 恵輔(かのう けいすけ、1982年12月17日 - )は、群馬県渋川市出身の元プロ野球選手(捕手、外野手)、野球解説者、野球評論家、YouTuber。マネジメント契約は株式会社オフィスS.I.Cである。 中学校では投手だったが、2年秋に主将となると同時に捕手に転向した。 前橋工業高校への進学後は、2年秋に関東大会へ進むが初戦で延長11回サヨナラ負け。3年夏の選手権群馬大会で4本塁打を放って大会新記録を達成。2017年に山下航汰が5本塁打を放つまで破られない記録だった。決勝で一場靖弘を擁する桐生第一高校と対戦したものの、チームが敗戦を喫し、自身も最後の打者になった。在学中には、高い打撃センスと大人びた風貌から、右打者ながら「上州の掛布」と呼ばれていた。
大須賀 允(おおすが まこと、1980年3月8日 - )は、… 大須賀 允(おおすが まこと、1980年3月8日 - )は、栃木県足利市出身の元プロ野球選手(内野手)。 足利市立小俣小学校で野球を始め、足利市大会で優勝。足利市立小俣小学校では県大会に出場した。群馬県立前橋工業高等学校に進学後は2年夏と3年夏に甲子園に出場してともにベスト4。3年夏は準々決勝で三上真司、東出輝裕を擁する敦賀気比高等学校に延長10回サヨナラで勝利。準決勝で川口知哉の平安高等学校に敗退。甲子園通算31打数9安打.290を記録。 在学中は大型内野手として高校通算20本塁打を記録。また高校日本選抜にも選ばれるなど、ドラフト指名も噂されたが東北福祉大学に進学することとなった。 同大学では1年春からレギュラーとして活躍し、その年には日米大学野球代表にも選出された。
佐藤 崇明(さとう たかあき、1980年2月27日 - )は… 佐藤 崇明(さとう たかあき、1980年2月27日 - )は、元社会人野球選手である(投手、右投右打)。鷺宮製作所に所属していた。
斎藤 義典(さいとう よしのり、1978年7月10日 - )… 斎藤 義典(さいとう よしのり、1978年7月10日 - )は、群馬県館林市出身の元社会人野球選手(投手)。左投左打。 斉藤 義典と表記される場合もある。 館林市立第四中学校を経て前橋工業高校に進学。前橋工業高校では1年生の秋からエースになり、2年生だった1995年にはセンバツでベスト8に進出した。3年生だった1996年の夏の甲子園ではベスト4に進出。同大会は左投手に好投手が多かったが、斎藤は甲子園大会のベストナインを『スポーツニッポン』の記者が選ぶ「スポニチベストナイン」で同大会の投手部門第1位に選出された。全日本高校野球選抜にも選出され、ロサンゼルスで開催された4か国親善大会に日本代表のエースとして出場し、最高球速147 km/hを記録するなどして活躍。
高見澤 考史(たかみざわ こうじ、1975年4月30日 - … 高見澤 考史(たかみざわ こうじ、1975年4月30日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(外野手)。アーデルバッティングドーム代表取締役社長。 長男は横浜DeNAベイスターズ育成選手の高見澤郁魅。 前橋工では2年の夏から一塁手のレギュラーを獲得し、3年次には主将を務めて春の群馬県大会で優勝したが関東大会では横浜高の白坂勝史、矢野英司の前に敗退、夏の県大会は準々決勝で桐生第一高等学校に敗れた。 卒業後は東京ガスに入社。同じ外野手には大友進がいた。1999年には日本代表として4ヵ国国際大会に出場、同年は都市対抗野球で3番を打ったほか同大会にはそれまで補強選手で2回出場。2000年度ドラフト会議にてオリックス・ブルーウェーブから6位指名を受けて入団。
渡辺 久信(わたなべ ひさのぶ、1965年8月2日 - )は… 渡辺 久信(わたなべ ひさのぶ、1965年8月2日 - )は、群馬県勢多郡新里村(現:桐生市)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、元プロ野球監督、野球解説者、野球評論家。 前橋工業高校から1983年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)に1位指名されて入団。最多勝利を3回獲得するなどパシフィック・リーグを代表する本格派右腕として活躍した。現役時代の通算成績は125勝110敗27セーブ。引退後は2005年から2007年まで西武二軍の監督、2008年から2013年まで一軍監督を務めた後、2019年から2024年まで同球団のゼネラルマネージャー (GM) を務めた。2024年5月27日から同シーズン終了までは、成績不振で休養した松井稼頭央監督に代わって監督代行を務めた。
小川 博(おがわ ひろし、 1962年4月2日 - )は、栃… 小川 博(おがわ ひろし、 1962年4月2日 - )は、栃木県足利市出身、群馬県育ちの元プロ野球選手(投手)。現役引退後の2004年、強盗殺人事件を起こして無期懲役の判決を受け、現在は受刑者となっている。 出生は栃木県であるが、1歳時に子供に恵まれなかった群馬県在住の大工・清掃作業員夫婦の養子となり、以後養父母の元で育つ。栃木県足利市の足利市立第一中学校から前橋工高に進学し、同高ではエースとして活躍、甲子園に3回(1979年の春・夏、1980年の夏の選手権)出場した。1979年春の選抜では、1回戦で田辺商を6回3分の1を零封、3投手完封リレーの勝利をするが、続く2回戦で川之江高の鍋島博(駒大-電電東京)に抑えられ完封負け。
高橋 一彦(たかはし かずひこ、1961年6月12日 - )… 高橋 一彦(たかはし かずひこ、1961年6月12日 - )は、栃木県塩谷郡藤原町出身の元プロ野球選手(投手)。愛称は「ぴんさん」。 前橋工業高では外野手として小川博、番場覚らの投手陣を擁し、1979年春夏の甲子園に出場。春の選抜では2回戦で川之江高に敗退。夏の選手権は3回戦に進むが、比叡山高に敗れる。 高校卒業後は、社会人野球の日本石油に進み投手に転向。1982年の都市対抗野球に出場し、1回戦で先発するが川崎重工に敗退。1984年の都市対抗野球では日産自動車の補強選手として出場。2回戦ではプリンスホテルを相手に好リリーフを見せ勝利投手となる。準々決勝では先発して新日本製鐵大分に勝利、決勝でも登板し日本鋼管を降し優勝を飾る。
高橋 忠一(たかはし ちゅういち、1960年5月31日 - … 高橋 忠一(たかはし ちゅういち、1960年5月31日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投左打。 前橋工業高では、1978年夏の甲子園県予選決勝に進出するが、エース木暮洋を擁する桐生高に惜敗し甲子園出場を逸する。 高校卒業後は、社会人野球の東京ガスに入社。1980年の都市対抗野球からチームは同大会に3年連続出場し、1981年からメンバー入り。 1983年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから6位指名を受け入団。 プロ1年目の1984年は、新人ながら主に左翼手として25試合に先発出場、打率.280の好成績を記録した。しかし翌1985年春に肩を故障し、出場機会が減少。1989年に復活し、外野手の準レギュラーとして起用されるが、1990年限りで現役を引退。
向田 佳元(むかいだ よしもと、1956年4月11日 - )… 向田 佳元(むかいだ よしもと、1956年4月11日 - )は、群馬県桐生市出身の元アマチュア野球選手(投手)である。 前橋工業高校では1973年夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)で福井商に完封負け。この試合はリリーフで甲子園初登板を果たす。翌1974年夏の甲子園にエースとして連続出場。準々決勝では静岡商の高橋三千丈と投げ合い1-0で完封勝ち。準決勝に進むが、銚子商の土屋正勝に完封負けを喫する。 早稲田大学に進学。東京六大学野球リーグでは1年生から起用される。1976年の明治神宮野球大会では、決勝で法大の江川卓と投げ合うが完封負けを喫する。北口勝久(松下電器)との二本柱で1978年秋季リーグ優勝に貢献。
柚木 秀夫(ゆき ひでお、1951年12月18日 - )は、… 柚木 秀夫(ゆき ひでお、1951年12月18日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)。 中学時代から投手として活躍。中学時代の実績を評価して誘いのあった前橋工業高に進学する。高校時代は1968年、2年の時に控え投手として夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)で智辯学園高に敗退するが、リリーフ投手として登板した。3年の夏は北関東大会準決勝に進出するが、宇都宮学園高に敗れる。高校同期に佐野仙好三塁手、片貝義明捕手がいた。 高校卒業後は、社会人野球の電電東京に入団。スリークォーターからのストレートに威力があり、コントロールもよかったことから、南海ホークスがスカウトし1970年オフにドラフト外で入団した。
片貝 義明(かたがい よしあき、1951年9月27日 - )… 片貝 義明(かたがい よしあき、1951年9月27日 - )は、群馬県吾妻郡中之条町出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。息子はスタイリストの片貝俊。 前橋工業では2年次の1968年にチームが夏の甲子園に出場するが、片貝の出番は無かった。3年次の1969年夏は正捕手として北関東大会準決勝に進出するが、宇都宮学園に敗れ、甲子園出場はならなかった。高校同期に佐野仙好、柚木秀夫がいた。卒業後は1970年に日本石油へ入社し、2年目の1971年から都市対抗に2年連続出場。 1972年のドラフトで中日ドラゴンズから2位指名を受け、1973年シーズン後に入団。しかし当時の中日捕手陣は木俣達彦、新宅洋志と実力者が揃っており、一軍での出番はほとんどなかったため、小松辰雄や牛島和彦が入団して来たころには若手投手の「教育係」的存在となった。
佐野 仙好(さの のりよし、1951年8月27日 - )は、… 佐野 仙好(さの のりよし、1951年8月27日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ、野球解説者。 日本プロ野球(NPB)では一貫して阪神タイガースに在籍。1997年のコーチ退任を機に現場を離れてからも、球団本部のアマスカウト部門に籍を置きながら、関東地区の担当や顧問を務めた。 愛称は名前を音読みした「センコー」。 前橋工業高校では1968年、2年の時に三塁手として夏の甲子園に出場。2回戦(初戦)で智辯学園のエース上田容三に完封を喫する。3年の夏は北関東大会準決勝に進出するが、宇都宮学園に敗れる。高校同期に柚木秀夫、片貝義明がいた。 卒業後は中央大学へ進学、東都大学野球リーグでは3度優勝。
荒井 穣吉(あらい じょうきち、1938年5月21日 - )… 荒井 穣吉(あらい じょうきち、1938年5月21日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。 前橋工業高校から1958年に大毎オリオンズへ入団。同年退団。