スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
新井 勝也(あらい かつや、1993年5月6日 - )は、千… 新井 勝也(あらい かつや、1993年5月6日 - )は、千葉県船橋市出身の日本のプロ野球選手(内野手)。 小学1年生のときから少年野球チームで野球を始める。6年生時にはキャプテンを務め、千葉県大会で準優勝。当時のポジションは遊撃手。中学時代は硬式野球の船橋シニアでプレー。 高校は野球の推薦で千葉県立千葉商業高等学校に進学。クリーンナップを任され、この頃から二塁を守るようになる。3年間で甲子園大会には出場できず、最高は県大会ベスト16。 大学も野球の推薦で千葉県大学野球連盟の清和大学法学部に進学。大学では、遊撃、二塁のほか、三塁も守った。大学卒業後には独立リーグを経由してのNPB入りを目指したが、4年生の春に右肩を脱臼。
寺村 友和(てらむら ともかず、1974年4月22日 - )… 寺村 友和(てらむら ともかず、1974年4月22日 - )は、千葉県千葉市稲毛区出身の元プロ野球選手(投手)。台湾での登録名は山崎 友和(やまざき ともかず)であり、山崎は現姓。 小学校時代は軟式野球のヤングジャイアンツに所属。中学時代は硬式野球の千葉ジャガーズに所属し、高橋由伸は1年後輩に当たる。 千葉商業高等学校卒業後は本田技研に進み、1996年にチームが第67回都市対抗野球大会で優勝したが、入来祐作や補強の大塚晶文らがいたため、登板機会はなかった。 1997年のプロ野球ドラフト会議にて千葉ロッテマリーンズから2位指名を受けて入団。 プロ入り後は球威はあるものの制球難に苦しみ、サイドスローに転向したもの、大きな結果には繋がらなかった。
勝呂 壽統(すぐろ ひろのり、本名:勝呂 博憲(読み同じ)、… 勝呂 壽統(すぐろ ひろのり、本名:勝呂 博憲(読み同じ)、1963年9月23日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(内野手)、指導者。本名を登録名にした時期もある。NPB・独立リーグ・巨人女子などで2026年3月末までコーチを務めた。現在は読売巨人軍の球団関係者である。 中学1年の時にリトルリーグで全国優勝を経験する。千葉商業高校では2年春の千葉県大会で準優勝する。卒業後、日本通運 (浦和)に進む。日通は都市対抗の常連チームであり、1986年の大会では、山越吉洋(本田技研から補強)と二遊間を組み活躍。同年のドラフト会議にて読売ジャイアンツから5位指名を受け、一時は入団を保留していたが、1987年の都市対抗に出場し、シーズン後に巨人と契約を結んだ。
森 忠仁(もり ただひと、1962年6月2日 - )は、千葉… 森 忠仁(もり ただひと、1962年6月2日 - )は、千葉県千葉市出身の元プロ野球選手(外野手)。現在は日本プロ野球選手会事務局長を務める。 千葉商業高校から、1980年オフにドラフト外で阪神タイガースに入団した。 はまれば飛ばす力があったが確実性に乏しく、現役6年間で一軍で記録を残すことなく引退した。 引退後は証券会社、保険代理店と一般企業に就職し、保険代理店時代にプロ野球選手会の松原徹(後の事務局長)から「プロ野球界出身で一般の企業社会での経験もある人物」を探していたことで声をかけられ、事情により一度は話が流れたが、松原が事務局長に就任した2000年に再び声をかけられ、プロ野球選手会に転職した。
高田 博久(たかだ ひろひさ、1961年7月16日 - )は… 高田 博久(たかだ ひろひさ、1961年7月16日 - )は、千葉県市原市出身の元プロ野球選手(投手)。 千葉商業高では、2年秋の県大会決勝で千葉工の関根浩史と投げ合って完封勝利したが、関東大会は初戦敗退。1979年夏の千葉県大会準々決勝に進出。エース銚子利夫を擁する市立銚子高と対戦するが、延長16回の熱戦の末、銚子にサヨナラ本塁打を喫し敗退。 高校卒業後は、青山学院大学に進学。しかし東都大学野球リーグでは、1981年春季リーグでチームが二部リーグに降格。以後も低迷が続き、一部昇格はならなかった。1983年秋季リーグで二部優勝に貢献、MVP、最優秀投手を受賞した。1学年下に小川博がいる。 大学卒業後は、社会人野球の日本楽器に入団。
野崎 進(のざき すすむ、1959年9月28日 - )は、千… 野崎 進(のざき すすむ、1959年9月28日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 登録は右投げであったが、左右両方で投球・打撃が可能な選手であった。 千葉商業高では主将兼エース、第59回全国高等学校野球選手権大会に出場。初戦で松本正志がエースの東洋大姫路高と対戦し0-4で敗れる。野崎は、この試合左打席で4打数3安打だった。右投げの投球では、縦のカーブを武器にした。 1977年オフ、高校の先輩である小川善治二軍監督の勧誘もあってドラフト外でヤクルトスワローズに入団。一軍公式戦はおろか二軍戦での登板もないまま、1978年限りで現役を引退。1980年まで打撃投手をつとめた。
中村 典夫(なかむら のりお、1956年4月4日 - )は、… 中村 典夫(なかむら のりお、1956年4月4日 - )は、千葉県市原市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 千葉商業高から、1974年の新人公募テストに合格し、ドラフト外で阪神タイガースに入団。 1年目の1975年からウエスタン・リーグで46試合に出場したが、一軍出場は遠く、1979年に4試合に出場したのみであった。同年に選手寮「虎風荘」の寮長に就任し、1980年限りで現役を引退。 引退後は1981年に二軍サブマネージャーを務め、安藤統男二軍監督を影で支える。安藤の野球に精通し「影の二軍監督」との異名をとり、1982年からは25歳で二軍守備・走塁コーチに就任。1984年まで務め、以後はフロントに入った。
髙浦 美佐緒(たかうら みさお、1952年7月20日 - )… 髙浦 美佐緒(たかうら みさお、1952年7月20日 - )は、千葉県木更津市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 本名同じ。1984年までの登録名は「高浦 美佐緒」、1985年から1992年の登録名は「高浦 己佐緒」、2010年から2014年の登録名は「髙浦 己佐緒」(いずれも、読みは同じ)。選手時代の愛称は「タカ」。 本名および2010年以降の登録名に使われる「高」の字は、異字体の「髙」(はしごだか)であるが、「高」に差し替えられることもある。 千葉商業では3年次の1970年に春の選抜で甲子園初出場を果たし、2年生エースの永島時郎(日本通運)とバッテリーを組んで準々決勝に進出するが、広陵高の佐伯和司に0-1で完封負けを喫した。
江田 昌司(えだ まさし、1945年9月16日 - )は、千… 江田 昌司(えだ まさし、1945年9月16日 - )は、千葉県船橋市出身の元プロ野球選手(内野手)。 千葉商業高校では1年生時から内野手のレギュラーとして活躍。同期の高橋重行(2年で中退)、仁礼豊の両エースを擁し、1962年春季関東大会決勝に進むが、鎌倉学園の永田善一(大毎)に完封負けを喫する。鎌倉学園には竹之内雅史がいた。同年夏の甲子園千葉県予選でも準決勝に進出するが、習志野高に敗退。同年の秋季関東大会県予選でも決勝に進むが、またも習志野高に敗れる。その後も県予選で敗退し甲子園には縁がなかった。他の高校同期に遊撃手の鴇田忠夫がいた。 1963年に阪神タイガースに入団。同期入団に野田征稔、辻佳紀がいる。
鴇田 忠夫(ときた ただお、1945年7月7日 - )は、千… 鴇田 忠夫(ときた ただお、1945年7月7日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。 1964年に千葉県立千葉商業高等学校から東京オリオンズに入団。千葉商業時代の同期に高橋重行(元大洋)、江田昌司(元阪神)がいた。翌1965年にジュニアオールスターゲームのイースタン・リーグ選抜に選ばれるなど二軍では活躍したが、一軍では全く活躍できず、1965年シーズン終了後、現役引退した。現役引退後はトレーナーとなる。
高橋 重行(たかはし しげゆき、1945年5月16日 - 2… 高橋 重行(たかはし しげゆき、1945年5月16日 - 2010年3月1日)は、千葉県旭市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ。 千葉商業高校では監督に見込まれ、千葉市内に下宿していた。同期の仁礼豊と投の二本柱を組み、4番打者として1962年春季関東大会決勝に進むが、鎌倉学園の永田善一(大毎)に完封負けを喫する。鎌倉学園には竹之内雅史がいた。同年夏の甲子園千葉県予選でも準決勝に進出するが、習志野高に敗退。他の高校同期に遊撃手の鴇田忠夫、三塁手の江田昌司がいた。 夏の大会後に高校を中退し、大洋ホエールズへ入団。入団して2年間は一軍では投げられず、整理対象選手であった。1964年に別所毅彦ヘッドコーチから認められ、先発として速球と大きなカーブを武器に17勝を記録(シュートも投げたが、渡米前はおもに速球と大きなカーブで投球を組み立てていた)。
板倉 正男(いたくら まさお、1927年1月6日 - 201… 板倉 正男(いたくら まさお、1927年1月6日 - 2011年7月28日)は、千葉県千葉市出身のプロ野球選手(投手、捕手、外野手)。 千葉商業学校から郵便局勤務を経て1947年に国民野球連盟の大塚アスレチックスに入団。リーグ崩壊後、1948年に金星スターズへ入団。翌1949年は合併により大映スターズに移籍、捕手に転向。1952年頃から正捕手。1954年にヴィクトル・スタルヒンと共に高橋ユニオンズに移籍、同年引退。引退後は社会人野球、ゴルフ場勤務を経て船橋カントリークラブ支配人に就任。
小川 善治(おがわ よしはる、1924年6月2日 - 198… 小川 善治(おがわ よしはる、1924年6月2日 - 1987年7月29日)は、千葉県千葉市出身のプロ野球選手(投手)。 千葉商業から明治大学へ進学。1945年11月に新設球団セネタースから勧誘を受けるが、固辞して大学に残る。1946年には母校の千葉商業で監督を務めている。1948年の大学卒業に当たって、明治大学の同期で東急フライヤーズ(セネタースの後身)に所属していた清水喜一郎から東急入団の勧誘を受けるが、小川は再び固辞して小口工作所に入社した。 1949年に大映スターズのスカウト・小林次男の勧誘を受けて入団。カーブ、ドロップ、スライダー、シュートを武器に2年目に二桁となる12勝を挙げた。1954年と1955年にも2桁勝利を記録し、大映の先発陣の柱として活躍した。
大木 董四郎(おおき とうしろう、1920年 - 没年不明)… 大木 董四郎(おおき とうしろう、1920年 - 没年不明)は、千葉県出身のプロ野球選手。 千葉商業学校から1946年にセネタースへ入団。同年退団。