スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
芳野満彦(よしの みつひこ、1931年(昭和6年)11月8日… 芳野満彦(よしの みつひこ、1931年(昭和6年)11月8日 - 2012年(平成24年)2月5日)は、日本の登山家・RCC IIの創立同人・画家。東京都荒川区日暮里生まれ。アルムクラブ所属。ボート選手の芳野法一は弟。 第一日暮里小学校卒業、旧制の早稲田中学校入学。 1948年(昭和23年)、早稲田中学2年の17歳のとき八ヶ岳の主峰赤岳で遭難して両足指をすべて欠くが、不屈の精神で登山を続けた。1957年(昭和32年)3月の前穂高岳IV峰正面壁積雪期初登攀など多くの初登攀を記録。 1963年(昭和38年)、大倉大八とともにアイガー北壁に日本人として初挑戦。 1965年(昭和40年)、渡部恒明とともにマッターホルン北壁の日本人初登攀を達成し、アルプスの岩峰への先鞭をつけた。
内田 巌(うちだ いわお、1900年〈明治33年〉2月15日… 内田 巌(うちだ いわお、1900年〈明治33年〉2月15日 - 1953年〈昭和28年〉7月17日)は、洋画家。内田魯庵の子。 東京出身。東京美術学校で藤島武二に師事。1926年卒業後、帝展に入選。1930年から1932年にかけてフランスに渡り、アカデミー・ランソンで学ぶ。1936年には挙国一致体勢の推進をはかる美術界の潮流に対抗して、猪熊弦一郎、小磯良平らと新制作派協会を結成。しかしながら、大戦中の1943年には、聖戦画報 戦ふ東條首相に揮毫している。 1946年日本美術会を結成し初代書記長に就任、1948年には日本共産党に入党し、戦後のプロレタリア画壇にあってはその牽引役として重きをなした。
小泉 清(こいずみ きよし、1899年〈明治32年〉12月2… 小泉 清(こいずみ きよし、1899年〈明治32年〉12月20日 - 1962年〈昭和37年〉2月21日)は、日本の洋画家。 1899年、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とセツの三男として東京に生まれる。幼少からゴッホの画集を愛読するなど絵画に親しむ。 1912年、早稲田中学に進学。教師の會津八一(八雲の教え子でもある)に画才を見出され、安藤更生と友人になる。 1919年、東京美術学校西洋画科に進学。先輩の佐伯祐三・前田寛治・里見勝蔵から影響を受ける。1922年、肺病のため中退。ヴァイオリン弾きや、妻の経営するビリヤード場の手伝いで生計を立てる。1934年、母セツが亡くなると、遺産で東京にアトリエ兼新居を構える。
曾宮 一念(そみや いちねん、Somiya Ichinen … 曾宮 一念(そみや いちねん、Somiya Ichinen 1893年9月9日 - 1994年12月21日)は、日本の洋画家、随筆家、歌人。 東京市日本橋区漬町(現中央区日本橋浜町)に生まれた。本名は下田 喜七(しもだ きしち)。大下藤次郎、藤島武二、黒田清輝に指導を受ける。東京美術学校卒業後は山下新太郎に師事し、中村彝に兄事する。1914年、文展で褒状、1925年、二科展で樗牛賞を受賞、二科会、独立美術協会所属ののち1946年に国画会会員となる。1945年に度々作品の題材を得ていた静岡県富士宮市に移住して以降、同地で過ごした。1965年、視力障害のため国画会を退く。1971年、両眼失明のため画家を廃業。
鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969… 鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969年1月6日)は、日本の画家(洋画家)、版画家。日本美術展覧会会員。 東京に生まれる。早稲田中学を中退したのち、まず倉田白羊の白羊洋画研究所に入り、洋画を学んでいる。その後、白馬会洋画研究所に入門し、さらに太平洋画会研究所に移って中村不折に師事して油絵を学んでいる。示現会に所属。 1910年(明治43年)、味の素株式会社広告部に勤務した後、1912年(大正元年)には京城日報社に入社し、翌1913年(大正2年)から1920年(大正9年)まで朝鮮、満洲大連、ハルピン及びシベリアに滞在していた。その間、1915年(大正4年)に川端龍子とともにスケッチ倶楽部を創設し、1917年に版画集『スケッチクラブ画集』(高坂栄之助摺)を出版、通信教育の講義録を担当している。
中村 彝(なかむら つね、1887年〈明治20年〉7月3日 … 中村 彝(なかむら つね、1887年〈明治20年〉7月3日 - 1924年〈大正13年〉12月24日)は、明治の終わりから大正期の洋画家。 1988年、茨城県近代美術館敷地内に下落合にあった中村のアトリエを新築復元した「中村彝アトリエ」が創設された。 なお、1968年(昭和43年)にザ・ヒロサワ・シティ会館(水戸市千波町)入口に有志らで組織する中村彝会が「中村彝君像」(堀進二作)を建立したが、2025年(令和7年)1月6日に県近代美術館敷地内の「中村彝アトリエ」近くに移設されることとなった。 2013年(平成25年)新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンした。
萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月… 萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 - 1927年5月1日)は、大正~昭和初期の洋画家。 岩手県和賀郡東和町(現在の花巻市)出身。1907年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1912年、岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。萬は、その頃日本に紹介されつつあったポスト印象派やフォーヴィスムの絵画にいち早く共鳴した。特にフィンセント・ファン・ゴッホやアンリ・マティスらの影響が顕著であった。黒田清輝らのアカデミックな画風が支配的であった日本洋画界に、当時の前衛絵画であったフォーヴィスムを導入した先駆者として萬の功績は大きい。晩年は日本画の制作や南画の研究も行った。
萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月… 萬 鉄五郎(よろず てつごろう、萬 鐵五郎、1885年11月17日 - 1927年5月1日)は大正~昭和初期の画家。