スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
碓井 将大(うすい まさひろ、1991年〈平成3年〉12月3… 碓井 将大(うすい まさひろ、1991年〈平成3年〉12月3日 - )は、日本の俳優、タレント。 東京都出身。生まれは新潟県上越市。日出高等学校卒業。 2007年5月、第4回D-BOYSオーディションでグランプリを獲得。これによりワタナベエンターテインメントの所属タレントとなる。 同年10月、テレビドラマ『チョコミミ』でデビュー。12月、D-BOYSに加入。母親がデザイナーであり、その影響で元々はモデル志望だったが、D-BOYS加入をきっかけに芝居に興味を持つ。 2008年2月、スーパー戦隊シリーズ『炎神戦隊ゴーオンジャー』にて、城範人 / ゴーオングリーン役で出演。 2011年、舞台『ピアフ』にて大竹しのぶの恋人役を務め、2013年、2016年の再演でも同キャストを演じた。
宇納 佑(うのう たすく、1959年4月23日 - )は、岐… 宇納 佑(うのう たすく、1959年4月23日 - )は、岐阜生まれの日本の俳優。早稲田大学在学中より演劇活動を始める。卒業後、京華中学高等学校で国語科教員として教壇に立つ。1989年より劇団ラッパ屋所属。別名は宇納侑玖。 映画・TVドラマ・声優・CMなどに脇役ながら多数出演。 ラッパ屋主催の舞台劇『裸でスキップ』などスカイパーフェクTV!で放映された(2004年)。
金子 信雄(かねこ のぶお、1923年〈大正12年〉3月27… 金子 信雄(かねこ のぶお、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1995年〈平成7年〉1月20日)は、日本の俳優・料理研究家・司会者・タレント。妻は丹阿弥谷津子。愛称は「ネコさん」。 東京府東京市下谷区(現・東京都台東区谷中)出身。母方の祖父は元彰義隊で、厳しい家系で家族親族からは役者になったことをずっと「河原乞食」と蔑まれていたという。歯科医の家庭に生まれたが、小学校1年の時から結核を患っており20歳まで闘病生活を送った。中学から下谷で育ち、京華学園を卒業。 役者に興味はなく、久保田万太郎直筆の推薦状を持った友人の付き添いで文学座に行ったら、中村伸郎に軽くあしらわれたことに腹を立て、出入りしていた錦町岸の錦橋閣の息子・奥野匡から「もし、やるなら演出部に来い」と言われ、「文学座に行けば女の顔が見れるだろ」と冷やかしで、1943年(昭和18年)に文学座所属俳優として芸能界入りする。
十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985… 十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985年12月18日)は、日本の俳優。本名は小倉 久雄。東京府東京市日本橋区小網町(現:東京都中央区日本橋小網町)出身。 軽妙洒脱な演技で多くの映画に出演し、個性派の脇役俳優として活躍した。戦前は長岡輝子らのテアトル・コメディに参加し舞台で活動、戦後から映画に出演し、作品数は250本を超える。 幼いころから芸の世界に親しみ(⇒人物)、暁星小学校から京華中学校を経て法政大学経済学部に入学し、在学中の1928年に高見順主宰の劇団制作座に参加。 1930年、大学の先輩だった三島雅夫の紹介で知り合った金杉惇郎や、フランスから帰国したばかりの長岡輝子らが結成したテアトル・コメディの創立に参加し、『ジャン・ド・ラ・リュンヌ』の主役で初舞台を踏む。
斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 19… 斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 1968年3月2日)は、日本の俳優、映画監督。 松竹蒲田撮影所に入り、独特の存在感を持つ飄々とした演技で、脇役や短篇喜劇映画の主役として多くの作品に出演した。初期の小津安二郎監督作品に欠かせない俳優でもあり、『肉体美』『会社員生活』『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』などの小津作品に主演した。戦後も貴重な脇役として活躍し、監督作も発表している。 1902年(明治35年)6月10日、東京府東京市深川区佐賀町(現在の東京都江東区佐賀)に生まれる。父は米の仲売人で日本橋区に店を構えていた。父は芝居道楽で、家業そっちのけに一座の勧進元になって巡業に出たりして財産を蕩尽し、5歳の時に佐賀町の家をたたんで神田明神近くへ引越しする始末だった。
生駒 雷遊(いこま らいゆう、1895年〈明治28年〉4月1… 生駒 雷遊(いこま らいゆう、1895年〈明治28年〉4月1日 - 1964年〈昭和39年〉12月2日)は、活動弁士、俳優である。本名は生駒 悦(読み不明)。東京浅草を中心に高い人気を得た。 1895年(明治28年)4月1日、岡山県 真島郡落合村大字垂水(現在の同県真庭市落合垂水)で運送業を営む、若狭屋生駒宗平の長男・悦として生まれる。 1912年(明治45年)、旧制・岡山県立商業学校(現在の岡山県立岡山東商業高等学校)を卒業、役場につとめるが、退職して上京し、早稲田大学に入学した。やがて中退、伊井蓉峰門下から日活(1912年設立)の「活動写真弁士養成所」で弁士の技術を学んだ。 1916年(大正5年)、満21歳のころ、浅草の帝国館で公開されたユニバーサル映画の一連のブルーバード映画作品が大ヒットし、生駒の解説の功とされた。