スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
安部 奈知(あべ なち 1970年1月13日 - )は、東京… 安部 奈知(あべ なち 1970年1月13日 - )は、東京都町田市出身の元アメリカンフットボール選手でアメリカンフットボール解説者。日本大学フェニックス在籍中、ライスボウルで3度優勝、大学卒業後、Xリーグのリクルートシーガルズでもライスボウルで2度優勝した。1999年にはアメリカンフットボール日本代表としてアメリカンフットボール・ワールドカップで優勝した。2002年ソルトレークシティオリンピックではボブスレー代表に選ばれた。現在は日大三高アメフト部でコーチングを行っている。 日本大学第三高等学校では野球部に所属し甲子園を目指していた。日本大学に進学しアメリカンフットボールを大学から始めた。自らはタイトエンドにあこがれていたが内田正人コーチ(元日大フェニックス監督)にセンターとして育てられ2年次にレギュラーの座をつかんだ。
佐藤 道郎(さとう みちお、1947年5月5日 - )は、東… 佐藤 道郎(さとう みちお、1947年5月5日 - )は、東京都中野区出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 愛称はミチ、ミチさん。 パ・リーグ初の最多セーブ投手を獲得している。 日大三高ではエースとして同期の石塚雅二とバッテリーを組み、3年次の1965年には夏の甲子園都予選決勝に進むが、後に大学で同期となる日大二高の神山修投手に完封され0-2で惜敗、甲子園出場を逸する(2年時にチームはセンバツに出場したが自身の出番は無かった)。高校の1年上には遊撃手の大橋穣、1年下に左翼手の磯部史雄がいた。 高校卒業後の1966年、石塚と共に日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは低迷が続き、3年次の1968年にチームが二部に降格するが、4年次の1969年に一部復帰を果たす。
並木 輝男(なみき てるお、1938年11月15日 - 19… 並木 輝男(なみき てるお、1938年11月15日 - 1988年9月1日)は、東京都世田谷区出身のプロ野球選手(外野手、一塁手)・コーチ、解説者。 日大三高在学時は投手として活躍し、エース兼四番打者として、2年次の1955年には夏の甲子園に出場。準々決勝に進むが坂出商に大敗を喫し、3年次の1956年には春の選抜にも出場。この大会でも準々決勝に進出するが、渡海昇二らのいた芦屋高に完封負けを喫す。同年夏は都予選準決勝で成蹊高に敗退した。高校同期に中堅手の宮沢重雄がいる。 高校卒業後は早稲田大学に進学を予定していたが、家庭の事情により1957年に大阪タイガースへ入団。元々は中日ドラゴンズへ入団する予定であったが、担当していた佐川直行スカウトがドラゴンズを解雇され、タイガースに移籍したため並木もタイガースに入団することとなった。
関根 潤三(せきね じゅんぞう、1927年3月15日 - 2… 関根 潤三(せきね じゅんぞう、1927年3月15日 - 2020年4月9日)は、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現:東京都渋谷区)出身(北豊島郡巣鴨町〈現:豊島区巣鴨〉生まれ)のプロ野球選手(投手、外野手)・コーチ・監督、解説者。 現役時代は近鉄、巨人で活躍。打者で1000本安打・投手で50勝を記録、またオールスターゲームでは初めての投手・野手の両方でのファン投票選出を記録した。2003年、野球殿堂入り。 藤田省三が監督を務める旧制日大三中へ進学したものの、入学初年度は小柄であったため、練習に参加させてもらえなかった。2年生に進級後ようやく参加できたが、それでも外野の球拾いであった。やがて、兼務していた法政大に掛り切りとなった藤田が去り、後任監督から二塁手として抜擢されたのが転機となり、試合に出場できるようになった。
根本 陸夫(ねもと りくお、1926年11月20日 - 19… 根本 陸夫(ねもと りくお、1926年11月20日 - 1999年4月30日)は、茨城県那珂郡東海村出身(水戸市生まれ)のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督・実業家、解説者。 引退後は近鉄バファローズコーチ、広島東洋カープコーチ・監督、クラウンライター→西武ライオンズ監督、福岡ダイエーホークス監督の他、西武ライオンズ球団管理部長、福岡ダイエーホークス代表取締役専務・代表取締役社長と、球団フロントの要職を歴任した。 ニックネームは「球界の寝業師」、ドラフト会議やトレードで辣腕を振るい、その仕事ぶりは「根本マジック」(#根本マジック参照)、「黄金時代の陰に根本あり」とも称された。肩書きこそ違ったが、事実上のGMとしてその敏腕ぶりを発揮。
鬼頭 政一(きとう まさいち、1920年2月9日 - 200… 鬼頭 政一(きとう まさいち、1920年2月9日 - 2008年11月4日)は、愛知県名古屋市野立町(現・熱田区)出身のプロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者。 同じくプロ野球選手であった南海の鬼頭数雄は実兄、近畿日本の鬼頭勝治は実弟。 旧制日大三中卒業後、1940年に名古屋軍へ入団。同年のシーズン途中に兄・数雄の在籍していたライオン軍に移籍し、2年目の1941年8月1日の大洋戦(後楽園)で6回表に浅岡三郎から勝ち越しとなる初本塁打を放つ。1942年まで在籍し、その後は1943年に出征して輸送船で南方へ赴くはずであったが、直前に歩兵戦術を学ぶため国内に残った。鬼頭が所属していた部隊の船は、台湾沖で沈没している。