スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
小林 良美(こばやし よしみ、1968年8月11日 - )は… 小林 良美(こばやし よしみ、1968年8月11日 - )は、神奈川県出身の女子ソフトボール選手(外野手)・指導者。右投右打。元日立高崎所属。シドニーオリンピック銀メダリスト。日立マクセル女子ソフトボール部監督、東京国際大学女子ソフトボール部監督を務めた。 神奈川県立平塚商業高等学校を卒業。 シドニーオリンピックではライトで伊藤良恵と併用される。日本リーグでは最優秀打撃賞を2度も獲得するほどの選手であったが、シドニーオリンピックでは伊藤の起用が優先された。 アテネオリンピックでは、コーチングスタッフとして代表チームに加わった。
髙山 松太郎(たかやま まつたろう、1950年〈昭和25年〉… 髙山 松太郎(たかやま まつたろう、1950年〈昭和25年〉2月2日 - )は、日本の政治家。勲等は旭日中綬章。元神奈川県伊勢原市長(3期)、神奈川県議会議員(2期)、伊勢原市議会議員(4期)。 神奈川県伊勢原市出身。神奈川県立平塚農業高等学校卒業。 1991年(平成3年)、伊勢原市議会選挙に出馬し、初当選。2003年(平成15年)、伊勢原市議会議長に就任。 2007年(平成19年)4月8日執行の神奈川県議会議員選挙に無所属で出馬し、初当選。2011年(平成23年)、同選挙において2期目の当選。 2012年(平成24年)9月23日執行の市長選に無所属で出馬。現職の長塚幾子ら2人の候補者を破り、初当選。
野村 収(のむら おさむ、1946年8月9日 - )は、神奈… 野村 収(のむら おさむ、1946年8月9日 - )は、神奈川県平塚市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ、解説者。NPBで史上初めて全12球団から勝利を挙げた。 中学から本格的に野球を始めた。打撃投手を務めていた際に肘に違和感を覚えると、三塁手で出場した際に一塁手への送球で肘を故障、医師からは投手は難しいと言われたが風呂で温めてから肘を伸ばす日課を続けていると肘が伸びて投げられるようにまで回復。家庭の事情で私立の強豪校は諦め、1962年に平塚農業高校へ進学。入学当初のシートノックでは三塁手を指示されたが外野手を希望して強肩をアピールし、狙い通り投手の座を掴んだ。県大会1回戦負けの常連であったが、3年次の1964年春に強豪の鎌倉学園に2-1で勝利して評価を高めた。
前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、1883年(明治16年)7月2… 前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、1883年(明治16年)7月27日 - 1951年(昭和26年)4月20日)は、神奈川県出身の歌人。本名は前田洋造(洋三とも)。長男の前田透も歌人であり、歌誌「詩歌」を引き継いだ。 尾上柴舟に師事。歌集『収穫』(1910年)で自然主義歌人として牧水と並称された。その後北原白秋らと「日光」を創刊。『水源地帯』(1932年)では、自由律短歌に傾くなど、生涯新境地を求めた。 現・神奈川県秦野市にあたる大住郡南矢名村の豪農の家に生まれ、代々庄屋や戸長を務める家柄で、「油屋」の屋号で食用油や醤油の販売もしていた。父の前田久治は県会議員や大根村の村長を務めた厳格な人物で、母のイセは控えめな性格、夕暮を長男として三男四女の家族であった。
福井 準造(ふくい じゅんぞう、明治4年9月21日(1871… 福井 準造(ふくい じゅんぞう、明治4年9月21日(1871年11月3日) - 昭和12年(1937年)12月10日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。準三と表記される場合がある。 相模国大住郡小嶺村(現在の神奈川県平塚市)の代々里正・組頭を務めた家で、福井直吉の長男として生まれる。1891年(明治24年)、慶應義塾を卒業。社会問題に関心を持ち、神奈川県農会副会長を務めるかたわら、農商務省の嘱託として神奈川県の工場・職工の調査にあたった。自らは社会主義者ではなかったが、1899年(明治32年)に著した『近世社会主義』は日本で社会主義を解説した最初期の文献である。また、郭沫若は、同書が1913年に中国語に翻訳され、これが中国へのマルクス・エンゲルス思想の初めての紹介になったと述べている。
猪俣 松五郎(いのまた まつごろう、1870年 - 1943… 猪俣 松五郎(いのまた まつごろう、1870年 - 1943年)は、日本の政治家、教育者である。 大住郡金目村の名主与右衛門の次男として生まれる。三郡共立学校(神奈川県立秦野高等学校と神奈川県立平塚農業高等学校の前身)を経て、東京神田の共学院で学ぶが、長男の死亡により、帰郷し、家督を継いだ。その後、1898年(明治31年)、金目村役場書記、1900年(明治33年)、収入役を経て、1905年(明治38年)、金目村村長に就任した。以後、1918年(大正7年)から1935年(昭和10年)まで4期村長を務めた。この間、金目村村会議員を6期、中郡会議員を2期務め、また金目村農会長、金目村耕地整理副組合長、中郡農会副会長、会長を歴任した。