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金丸 久夫(かねまる ひさお、1963年4月6日 ‐ 199… 金丸 久夫(かねまる ひさお、1963年4月6日 ‐ 1990年2月27日)は、長野県出身のプロ野球選手。175cm、72kg、右投右打、内野手。 岡谷工では投手で、七色の変化球といわれるほど多彩な球種を持ち、打撃でも3番打者を務めていた。1981年、高3の夏、長野県大会では、佐久高相手に5‐0で無安打無得点試合を達成、準決勝では6年連続で甲子園出場中であった松商学園を1安打完封2‐0で下し、決勝も上田高を5‐0で完封し甲子園出場を決めた。本大会では、1回戦の津久見高相手に15奪三振5‐2で勝利し、同校史上51年ぶりの甲子園勝利を上げた。この試合は、初回にカーブを狙われていると気付き、速球主体に切り替え勝負球にナックルを投じた。
今井 務(いまい つとむ、1945年4月29日 - )は、長… 今井 務(いまい つとむ、1945年4月29日 - )は、長野県出身の元プロ野球選手(一塁手、外野手)。 岡谷工高では投手であったが、打撃面で高く評価されていた。1963年に高校を中退し、大洋ホエールズに入団。1965年には一軍に上がり、10月27日の最終戦ではサンケイを相手に一塁手、七番打者として初の先発出場を果たす。この試合では石戸四六から4打数2安打を記録した。その後はイースタン・リーグで本塁打王や打点王を獲得するものの、一軍ではあまり出場機会に恵まれなかった。 1970年、東映フライヤーズに移籍。主に代打として起用され、同年は打率.261、2本塁打を記録。翌1971年は自己最多の58試合に出場。
小泉 恒美(こいずみ つねみ、1942年7月5日 - 199… 小泉 恒美(こいずみ つねみ、1942年7月5日 - 1990年6月2日)は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは本来は一塁手だが、外野手もこなした。 長野県岡谷工業高等学校3年時の1960年に春季北信越大会で準決勝に進出。この試合ではリリーフとして登板したが、金沢市立工業高等学校の前に敗れた。夏の甲子園県予選でも敗退したため、甲子園とは縁がなかった。 卒業後の1961年に南海ホークスへ入団。王貞治に似た一本足打法が持ち味で、入団5年目の1965年には、一塁手や右翼手として69試合に出場した。10月13日の対東京オリオンズ戦(東京スタジアム)では、野村克也に代わる4番打者として先圧起用され、4打数1安打1打点という成績を残した。
三浦 敏一(みうら としかず、1916年5月18日 - 19… 三浦 敏一(みうら としかず、1916年5月18日 - 1997年)は、長野県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手、一塁手。 諏訪蚕糸学校では1930年に春のセンバツと夏の選手権に出場。 1937年に名古屋軍へ入団。前年大活躍した正捕手のバッキー・ハリスがイーグルスへ移籍し、捕手不足の中で頭角を現した。強肩でキャッチングが上手く、また俊足でもあったためレギュラーを張っていた。ただ打撃に難があり、1939年に服部受弘が入団すると一塁手に回る機会も多かった。中日球団でエースの象徴とされる背番号20を、初めて付けた人物として知られる。 1941年に軍に応召され、退団。戦後はプロ野球に復帰せず、社会人野球の小口製作所でプレイングマネージャーとして活躍した。
中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年… 中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年不明[戦死])は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手。 諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)在学中に、甲子園に2回出場(春1回〔1930年〕、夏1回〔1930年〕)。1930年春の大会では、優秀選手賞を受賞。そして、最後の出場となった1930年夏の大会では準優勝投手に輝いた。長野県きってのNo.1投手との誉れ高く、その後明治大学やノンプロの諏訪紡績でも活躍した。 1937年に大東京へ入団。プロ野球入団後は内野手に転向し、「三振か長打か」の荒削りなバッティングで人気を博した。同年春季シーズンで喫した46三振は、リーグ最多三振記録(1939年に佐藤武夫〈東京セネタース〉が56三振をマークするまではプロ野球記録でもあった)。