岩佐 基治(いわさ もとはる、1949年9月8日 - )は、… 岩佐 基治(いわさ もとはる、1949年9月8日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手(投手)。 伏見工業高から、1973年の入団テストに合格しドラフト外で阪神タイガースに入団。 上手投げから思いっきり投げ込む未完の大器と期待された。しかし、球は速いがコントロールが悪く、一軍公式戦の出場がないまま、1977年限りで現役を引退した。
京都市立京都工学院高等学校:6人
岩佐 基治(いわさ もとはる、1949年9月8日 - )は、… 岩佐 基治(いわさ もとはる、1949年9月8日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手(投手)。 伏見工業高から、1973年の入団テストに合格しドラフト外で阪神タイガースに入団。 上手投げから思いっきり投げ込む未完の大器と期待された。しかし、球は速いがコントロールが悪く、一軍公式戦の出場がないまま、1977年限りで現役を引退した。
岡嶋 博治(おかじま ひろじ、1935年5月5日 - )は、… 岡嶋 博治(おかじま ひろじ、1935年5月5日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 父親を早くに亡くし、母子家庭で育った。中学時代は投手で両打ちだった。 伏見高校では左腕エースの太田武を擁し、遊撃手として1953年春の選抜に出場。準決勝まで進んだが、片岡宏雄らがいた浪商に敗れた。同大会では選手宣誓を務めた。同年夏は京都府大会決勝で西舞鶴高に完封負け。 卒業後は立命館大学へ進学し1年春からレギュラーを掴み打率.342、3本塁打を記録するも1954年7月に僅か4か月で大学を中退して中日ドラゴンズに入団し、入団の翌日から一軍ベンチ入りする。同年は21試合のみ出場も終盤の巨人戦でサヨナラ打を放つなどリーグ優勝に貢献。
岡本 伊三美(おかもと いさみ、1931年2月26日 - )… 岡本 伊三美(おかもと いさみ、1931年2月26日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者。 次女に元プロテニスプレイヤーの岡本久美子がいる。 中学まではバスケットボールの選手だったが、京都市立第一工業学校時代に野球へ転向。野球部の同期に元阪神の桧山進次郎の実父がおり、当時岡本が遊撃手で桧山の父がエース投手であった。 高校卒業後の1949年に南海ホークスへテスト生として入団。高校時代のチームメイトに種田訓久(後に南海で共にプレー)がいる。 1951年はシーズン終盤の9試合に二塁手として先発出場、また南海土建に出向という形で社会人野球でもプレーした。 1952年には兼任監督の山本一人の後継と目され、7月からは二塁手の定位置を獲得。
種田 訓久(たねだ くにひさ、1931年2月6日 - 201… 種田 訓久(たねだ くにひさ、1931年2月6日 - 2014年1月14日)は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(内野手)。 1949年、京都市立第一工業学校(現洛陽工業高校)卒業後に南海ホークスにテスト生として入団。高校時代のチームメイトに、後に南海でもチームメイトとなる岡本伊三美がいる。1951年は、南海土建に出向し社会人野球でもプレーした。 1952年6月26日の近鉄戦(彦根球場)で関根潤三から自身のプロ初安打となる先頭打者ホームランを放った(この記録は、それから60年後の2012年9月29日に宮﨑祐樹〈オリックス〉がロッテ戦〔京セラドーム〕で藤岡貴裕からプロ初安打となる先頭打者ホームランを放つまで出なかった)。
久保 重男(くぼ しげお、1928年8月15日 - )は、京… 久保 重男(くぼ しげお、1928年8月15日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手。 烏丸商業、立命館大学を経て1950年に大洋ホエールズへ入団。同年退団。
中谷 信夫(なかたに のぶお、1920年5月4日 - 199… 中谷 信夫(なかたに のぶお、1920年5月4日 - 1992年5月21日)は、京都府京都市出身のプロ野球選手。左投右打で、ポジションは投手。 京都市立第一工業学校(現・京都市立洛陽工業高等学校)、立命館大学から門司鉄道局(現・JR九州硬式野球部)を経て、シーズン途中ながらも1947年に南海ホークスへ入団し、1年目に15勝を挙げ、翌年も開幕から12連勝で、前年御園生崇男が記録したプロ野球記録の13連勝に挑んだ6月25日の対金星スターズ戦では6対2で敗戦投手となり連勝を止めるものの、この年は21勝を挙げる。1951年には14勝して最高勝率のタイトルを獲得し、5年連続二桁勝利も記録した。1955年に現役引退後は、1960年までコーチとなる。