スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
玉宅 健太郎(たまや けんたろう、1992年1月30日 - … 玉宅 健太郎(たまや けんたろう、1992年1月30日 - )は、日本の元男子バレーボール選手である。 大阪府南河内郡太子町出身。中学1年生のときに、先生に誘われたのがきっかけでバレーボールを始める。 洛陽工業高等学校、京都産業大学を経て、2013年、V・プレミアリーグ(当時のVリーグ1部リーグ)に所属するFC東京の内定選手となった。 2014年、大学卒業後に、FC東京に入団した。入団1シーズン目の2014-15シーズンにリーグ戦初出場を果たした。 2016年、堺ブレイザーズに期限付き移籍(2016/17シーズン限定)。 2022年6月、FC東京のチーム譲渡により誕生したプロクラブ・東京グレートベアーズに全体移籍。
中津 良太(なかつ りょうた、1991年1月23日 - )は… 中津 良太(なかつ りょうた、1991年1月23日 - )は、日本の男性プロレスラー。プロレスリングBASARA所属。京都府京都市出身。合同会社プロレスリングBASARA社長。プロレスバークラッチ店長。血液型O型。
松永 拓也(まつなが たくや、1990年6月10日 - )は… 松永 拓也(まつなが たくや、1990年6月10日 - )は、京都府亀岡市出身のプロサッカー選手。ポジションはMF。 京都市立伏見工業高等学校卒業後、関西学院大学へ進学するも、サッカーに熱中するあまり単位が取れず中退。 DRIPを経て、友人の紹介で2011年FC北陸に入団。Jリーグクラブのトライアウトを受験するも入団に至らず、2016年にリトアニアのFKウテニス・ウテナへ移籍。 その後、JKタリナ・カレフ、KÍクラクスヴィークに在籍した。 2019年にインドネシアのカルテン・プトラFCに移籍。翌年、プルシプラ・ジャヤプラに移籍し、開幕節からスターティングメンバーとして出場した。 2022年、キルギスのFCドルドイ・ビシュケクに移籍し、キルギス・プレミアリーグ初の日本人選手としてプレーした。
東 洸大郎(ひがし こうたろう、1989年9月21日 - )… 東 洸大郎(ひがし こうたろう、1989年9月21日 - )は、京都府出身のプロサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。アメリカUSLプロフェッショナルリーグのチャールストン・バッテリー所属。 伏見工業高校を卒業後、大阪学院大学へ進学。2年生でトップチーム昇格し、関西大学リーグ1部デビュー。総理大臣杯予選の関西選手権で準優勝に貢献。総理大臣杯出場。 一度は就職活動をするも、サッカーへの思いは強く卒業後もサッカーを続けていくことを決意。 その後知人のつてを辿りドイツでサッカーをする事を選択。3年間ドイツでの武者修行のあとオーストラリアへ。 2016年 オーストラリアイラワラ・プレミアリーグのアルビオンパーク・ホワイトイーグルスと契約。
横田 一義(よこた かずよし、1986年5月1日 - )は、… 横田 一義(よこた かずよし、1986年5月1日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。 滋賀県大津市出身。洛陽工業高校から大阪商業大学へ進学し、大学在学中の2008年に堺ブレイザーズの内定選手になった。大学卒業後の2009年に入団した。 2010年に全日本代表登録メンバーに初選出された。 2017年に第66回黒鷲旗全日本男女選抜大会を最後に引退した。 引退後は福岡県内で働く。2021年夏、V.LEAGUE入りを目指す福岡ウイニングスピリッツの代表である上竹原聖子から入団を熱望され、現役復帰を果たした。同年、チームはS3ライセンスを取得し翌シーズンの2022-23シーズンV.LEAGUE入りが内定した。
中山 大祐(なかやま だいすけ、1983年10月31日 - … 中山 大祐(なかやま だいすけ、1983年10月31日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。 京都府京都市出身。幼少期は、体操競技やバスケットボールをしていた。京都市立八条中学校入学後、バスケ部がなかったことから、バレーボール部に入部しバレーを始める。 高校は地元強豪校の京都市立洛陽工業高等学校へ進学、2001年3年時はキャプテンを務め、春高バレーで3位に入賞した。同年には高校選抜に選ばれている。 その後、東亜大学へ進学。2002年1年時に全日本インカレ3位、2005年4年時にはキャプテンを務め、中国大学バレーボールリーグでは最優秀選手を受賞した。 2006年、JTサンダーズへ加入。同期に小川旭。
松本 昂聡(まつもと たかとし、1983年9月5日 - )は… 松本 昂聡(まつもと たかとし、1983年9月5日 - )は、東京都港区出身、京都府育ちの元サッカー選手。ポジションはディフェンダー(DF)。なお、「たか」の字は「昴」(ボウ、すばる)でなく「昂」(コウ)が正しい。 小学校5年生の時にサッカーを始める。京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)の下部組織に加入し、ディフェンスリーダーとして2001年のJユースカップ優勝に貢献した。この年にはU-18日本代表としても活動。2002年から京都のトップチームに昇格し、その年に公式戦出場も果たした。 2004年、出場機会を求めてFC東京に期限付き移籍。体力とプレーの安定感を着実に向上させていったが 試合出場は果たせず、ヴィッセル神戸、湘南ベルマーレ と渡り歩いた。
畑 信也(はた しんや、1979年12月6日 - )は、京都… 畑 信也(はた しんや、1979年12月6日 - )は、京都府出身の日本のプロビーチバレーボール選手(元インドアバレーボール選手)・ファッションモデルである。グランディア所属。 洛陽工業高校で春高バレーボール、インターハイなど全国大会に出場。鹿屋体育大学在学中、ぴあカップに参加。優勝を果たす。ユニバーシアードにも参加。卒業後、ビーチに本格転向。国内外を転戦し活躍。2007年3月からは、モデル活動も開始。東レ・デサントの水着キャンペーンボーイに選ばれた。 バレーボール(春高バレー・インターハイ出場)、ビーチバレーボール、スノーボード、バスケットボール、スポーツ全般、大食い。 絵画、サイクリング、音楽・映画鑑賞 教員免許、普通自動車免許、中型自動二輪免許
岸本 一馬(きしもとかずま、1979年9月27日 - )は、… 岸本 一馬(きしもとかずま、1979年9月27日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。 京都府出身。京都市立洛陽工業高等学校、近畿大学卒。 1998年全日本バレーボール学生選抜東西対抗戦でサーブ賞を受賞した経験を持つ。全日本代表として2001年ワールドリーグに出場した。豪快なスパイクが持ち味である。 2008年4月に松下電器産業を退社しパナソニックパンサーズを退団。住友電工に入社し、9人制バレーボールの住友電工大阪に加入した。
広坂 正美(ひろさか まさみ、1970年2月26日 - )は… 広坂 正美(ひろさか まさみ、1970年2月26日 - )は、日本のラジコン操縦者・開発者。京都府出身。 国際模型自動車連盟(IFMAR、en:International Federation of Model Auto Racing)主催の世界選手権にて過去14回の優勝を誇り、ラジコン界のレジェンドの一人として知られる。 バイクレース好きの父親の影響を受け、5歳のときにラジコンを始める。16歳で全日本選手権のタイトルを初獲得。以後世界選手権14回、全日本選手権53回の優勝を飾り、日本におけるラジコン界の第一人者として知られるようになる。特に世界選手権では、1987年の初優勝以来、18年に渡りチャンピオンの座を守り通していた。
横山 ひとし(よこやま ひとし、1969年7月23日 - )… 横山 ひとし(よこやま ひとし、1969年7月23日 - )は、日本の漫才師、レーサー、レーシングチームオーナー、レーシングチーム監督。 京都府出身。フリーランス。 1993年8月27日、横山やすしに弟子入り。そのころのやすしは既に吉本興業を解雇され、地味な芸能活動を行う事を余儀なくされていたこともあり、かつてやすしが行っていた厳しい弟子教育を受けることはなかったという。1996年1月21日のやすしの死去を期に漫才、レースなどで活動、やすしの不遇の晩年を知る人物である。 不発弾が各国に残っている事を知り、1998年に太平洋戦争の激戦地であったガダルカナル島で不発弾処理活動を行った。61個(日本軍・アメリカ軍の物含め、迫撃砲・手榴弾等)を回収し、ソロモン政府より爆破処理許可を受けたオーストラリア駐留軍爆破処理隊と共に爆破処理を行った。
紀藤英智(きとう ひでとも、1968年(昭和43年) - )… 紀藤英智(きとう ひでとも、1968年(昭和43年) - )は、現代日本の仏師、造形作家。京都市生まれ。 1986年、京都市立洛陽工業高等学校機械科を卒業。京都市西京区に工房を構える。 細密な仏像を得意とし、テレビ番組のTVチャンピオン「手先が器用選手権2005」(2005年7月28日放送)で優勝。シャープペンシルの芯の先に仏像を刻む技術を紹介されたりしている。2011年12月24日「ぶらり途中下車の旅」で紹介された。
佐佐木 あつし(ささき あつし、1963年6月4日 - )は… 佐佐木 あつし(ささき あつし、1963年6月4日 - )は日本の男性漫画家。コミックプロデューサー。 株式会社エートゥシー・プロダクション代表取締役。京都市伏見区出身。血液型はO型。 1985年『あの娘はわがままシンデレラ』でデビュー。 代表作に『ぶらり鉄扇捕物帳』、『ガリンペイロ』、『灰色の十字架』、『激打ちラッシュ』、『ランドセルン ZERO BASED』など。ラブコメディから歴史、ギャンブル、ミステリーなど 幼少期は体が弱く、持病の喘息や相次ぐ交通事故で入退院を繰り返し、病室のベッドで漫画を描いて過ごす日々を送る。 1980年、京都市立伏見工業高等学校デザイン科を中退。 17歳で独立し、漫画家を目指してその後日本各地を点々と旅をして回る。
笑福亭 仁嬌(しょうふくてい にきょう、1958年4月22日… 笑福亭 仁嬌(しょうふくてい にきょう、1958年4月22日 - )は京都府出身の落語家。本名は岡塚 明(おかつか あきら)。所属事務所は よしもとクリエイティブ・エージェンシー。出囃子は『ぼんちかわいや』。京都市立洛陽工業高等学校卒業。 1977年4月に笑福亭仁鶴に入門。
吉田 義朗(よしだ よしろう、1952年-)は、日本障害者カ… 吉田 義朗(よしだ よしろう、1952年-)は、日本障害者カヌー協会会長。 中学の時に警察が学生を暴行しているのを見てから反権力思想を持つようになった。 京都市立洛陽工業高等学校(現・京都工学院高等学校)在学中に起きた成田空港予定地の代執行(第一次)に触発され、三里塚闘争に参加した。 強制収用に対抗して立て籠もるための穴を掘削中に落盤事故に遭う。ヘルメットの隙間にあった空気により生きながらえたものの、脊髄を損傷して下半身不随となる。その後、第四インターナショナル日本支部に所属していた吉田は警察の視察対象者となっただけでなく当時三里塚で対立する支援セクトに内ゲバを行っていた中核派の標的にもなり、嫌がらせ電話などを受けていた。
岩佐 基治(いわさ もとはる、1949年9月8日 - )は、… 岩佐 基治(いわさ もとはる、1949年9月8日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手(投手)。 伏見工業高から、1973年の入団テストに合格しドラフト外で阪神タイガースに入団。 上手投げから思いっきり投げ込む未完の大器と期待された。しかし、球は速いがコントロールが悪く、一軍公式戦の出場がないまま、1977年限りで現役を引退した。
仲畑 貴志(なかはた たかし、1947年8月20日 - )は… 仲畑 貴志(なかはた たかし、1947年8月20日 - )は、日本のコピーライター。事業構想大学院大学教授。京都府京都市生まれ、京都市立洛陽工業高等学校機械科卒業。東京コピーライターズクラブ会長。仲畑広告制作所・仲畑広告映像所主宰。宣伝会議コピーライター養成講座校長。株式会社ナカハタ社長。 糸井重里や川崎徹などと共に広告業界から頭角をあらわし、コピーライターブームの立役者となった一人として知られる。「コピーライターの神様」と称される。 京都で生まれ育ち、高校卒業後は設計事務所に就職するも、1年余りで設計事務所を辞める(一説には「実は設計の仕事が好きではなかった/向かなかった」らしい)。グラフィックデザインをしていた友人からコピーライターという仕事があることを知り東行。
永守 重信(ながもり しげのぶ、1944年8月28日 - )… 永守 重信(ながもり しげのぶ、1944年8月28日 - )は、日本の実業家。ニデック株式会社の創業者。長男はレック株式会社元代表取締役社長の永守貴樹。次男は、エルステッドインターナショナルの代表取締役社長・永守知博。 京都府乙訓郡向日町(現在の向日市)で、6人兄弟の末っ子として誕生。1963年3月、京都市立洛陽工業高等学校を卒業。1967年3月、職業訓練大学校(現在の職業能力開発総合大学校)電気科を首席の学業成績で卒業。 音響機器制作会社ティアックに就職後、山科精器取締役の経歴を経て、ティアックの持ち株を元に、1973年7月、28歳で日本電産(現ニデック)を創業する。社長を含めて3人での創業であった。
関本 郁夫(せきもと いくお、1942年7月18日 - )は… 関本 郁夫(せきもと いくお、1942年7月18日 - )は、日本の脚本家・映画監督。京都府京都市出身。日本映画監督協会会員。日本画家の木村了子は長女。 京都の工務店の長男に生まれる。家では工務店の後継にするつもりだったが、本人は継ぐのを嫌ったという。 京都市立伏見工業高等学校建築科を卒業後1961年、東映京都撮影所製作部美術課に入社。美術課では本人が嫌だったという大工仕事ばかりで異動を希望し、製作部に異動、製作事務を担当。そこで多くの台本に目を通すうち「これなら自分にも書けそう」と思って脚本を書き始め、その脚本を当時京都撮影所所長だった岡田茂に読んでもらっていたという。 その後京都撮影所では映画業界斜陽化のこともあって、助監督を大量にNET(現・テレビ朝日)に出向させた影響で助監督不足になり、その穴埋めのような形で演出部に転属し、1973年に監督デビュー。
山口 務(やまぐち つとむ、1941年6月7日 - )は、京… 山口 務(やまぐち つとむ、1941年6月7日 - )は、京都府出身の通産官僚。 1970年代の公害第一課総括係長在任中に経験してきた産業公害対策や、さらに大気汚染防止法や水質汚濁防止法の立案作業に第一線で関わり、その経験を踏まえて21世紀に世界が直面する温暖化等地球環境問題の解決に革新的技術の開発、実用化が不可欠であり、日本が世界で主導的役割を果たすべきとして通産省(現:経産省)で地球環境室の設置を他に先駆けて実現した。この考えを基に設立された(財)地球環境産業技術研究機構(RITE:関西文化学術研究都市(京都府木津川市)に本部)の専務理事として11年間、その創立、発展を牽引し、化学的CO2固定化プロジェクト、CO2地中貯留プロジェクトや砂漠緑化プロジェクトなどCO2削減の研究開発促進に携わってきた。
津田 喬(つだ たかし、1941年5月6日 - )は、日本の… 津田 喬(つだ たかし、1941年5月6日 - )は、日本の俳優、声優、ナレーター。京都府出身。京都市立伏見工業高等学校卒。リベルタ所属。特技はウクレレ、京言葉。実父は翻訳家の津田穣。 劇団俳優座養成所第12期生として俳優デビュー。同期には東野英心、松山英太郎など。その他、劇団東宝現代劇、劇団仲間、劇団河にも在籍していた。 演劇、テレビ、ラジオ、日本舞踊の舞台の黒子兼司会者など幅広く活動し、ボランティアではデイサービスでの舞踊司会者、ウクレレ弾き語りなどを披露している。
河津 光朗(かわず こうろう、1940年11月25日 - )… 河津 光朗(かわず こうろう、1940年11月25日 - )は、日本の陸上競技選手である。 京都市立洛陽工業高等学校工業化学科卒業後、日本大学に入学。日本大学卒業後、日本レイヨン(現在のユニチカ)に入社し競技を続ける。 1964年東京オリンピックで男子走幅跳に出場した。
九里 一平(くり いっぺい、1940年1月1日 - 2023… 九里 一平(くり いっぺい、1940年1月1日 - 2023年7月1日)は、日本の漫画家、アニメ監督、アニメーションプロデューサー、キャラクターデザイナー。株式会社タツノコプロ第3代代表取締役。京都府京都市出身。本名:吉田豊治(よしだ とよはる)。 タツノコプロ創業経営者一族の「吉田三兄弟」の三男で、長兄は漫画家・アニメ原作者・タツノコプロ初代社長の吉田竜夫、次兄はアニメプロデューサー・タツノコプロ第2代社長・初代会長の吉田健二。 ペンネームの由来は「お前は目がクリクリしているから」と言われ「クリ=九里」とし、さらに「一平」をつけたことによる。 挿絵画家・漫画家として活躍していた竜夫の後を追い上京。
小山 義一(こやま よしかず、1939年1月16日 - 20… 小山 義一(こやま よしかず、1939年1月16日 - 2019年5月)は、京都府出身の鉄道技術者である。 7000系電車(パノラマカー)のフロントアイ開発に携わったことで有名である。
真木 和美(まき かずみ、1936年1月27日 - 2008… 真木 和美(まき かずみ、1936年1月27日 - 2008年9月10日)は、日本の物理学者。専門は、超伝導・超流動・電荷密度波・スピン密度波などを含む凝縮系の理論物理学。ジョン・バーディーン賞受賞。超伝導分野の専門語「Maki-Tompson項」や「Makiパラメター」に名前を残している。外国に拠点をおいて世界的な研究を続けた数少ない日本人研究者の一人としても特筆される。音楽や絵画にも造詣が深かった。 真木和美は京都大学湯川研究室で素粒子論を学び、学位論文はその分野のものでありながら、のちの研究方向を示唆するものでもあった。そして、同研究室から米国に留学し帰国した恒藤敏彦から、超伝導分野に興味深い問題が山積していると告げられ、BCS理論に基づいた、超伝導に関する場の理論的アプローチを展開した。
岡嶋 博治(おかじま ひろじ、1935年5月5日 - )は、… 岡嶋 博治(おかじま ひろじ、1935年5月5日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 父親を早くに亡くし、母子家庭で育った。中学時代は投手で両打ちだった。 伏見高校では左腕エースの太田武を擁し、遊撃手として1953年春の選抜に出場。準決勝まで進んだが、片岡宏雄らがいた浪商に敗れた。同大会では選手宣誓を務めた。同年夏は京都府大会決勝で西舞鶴高に完封負け。 卒業後は立命館大学へ進学し1年春からレギュラーを掴み打率.342、3本塁打を記録するも1954年7月に僅か4か月で大学を中退して中日ドラゴンズに入団し、入団の翌日から一軍ベンチ入りする。同年は21試合のみ出場も終盤の巨人戦でサヨナラ打を放つなどリーグ優勝に貢献。
西田 吉宏(にしだ よしひろ、1934年〈昭和9年〉7月29… 西田 吉宏(にしだ よしひろ、1934年〈昭和9年〉7月29日 - 2007年〈平成19年〉11月19日)は、日本の養鶏家、政治家。参議院議員・西田昌司の父。 参議院議員(3期)、自民党参議院国会対策委員長、参議院議院運営委員長、京都府議会議長、京都府議会議員(5期)などを歴任。 1934年(昭和9年)、京都府京都市出身。父親が病気がちであったため小学生の頃から家の手伝いをしていて、千本今出川まで自転車の前と後ろに籠をぶら下げて、1日に2回も卵の配達をしたという。 エンジニアを夢見ていたが、父親の病がいよいよ悪化してしまい、授業料が払えなくなり京都市立洛陽高等学校を中退して家業に専念し、懸命に働いた結果、20歳代半ばで3つの養鶏場を経営する、京都でもひとかどの養鶏家として知られるようになった。
福田 喜重(ふくだ きじゅう、1932年9月26日 - 20… 福田 喜重(ふくだ きじゅう、1932年9月26日 - 2022年12月16日)は、日本の刺繡家、重要無形文化財保持者。刺繡では唯一人の人間国宝である。 京都市生まれ。京都市立第一工業学校(現・京都市立京都工学院高等学校)卒業。父である刺繡家福田喜三郎に1948年から師事。父からの厳しい指導によって本格的伝統技法を習得した。刺繡作品は主に和服。一越縮緬や綸子地などの生地を使用し、意匠では自然物を流動的に表現し、色糸による刺繡で微妙なグラデーションや細かい作業によって繊細で流れるような曲線を描く。そのため、作品は平坦にならず、奥行きを感じさせ絵柄になる。1976年に日本工芸会日本伝統工芸展に初入選、以降受賞を重ねる。
小林 敏峯(こばやし としみね、1931年9月19日 - 1… 小林 敏峯(こばやし としみね、1931年9月19日 - 1999年12月10日)は、日本の実業家。マイカルの創業者の一人。京都府京都市出身。位階は正五位。 1950年に洛陽高等学校を卒業。1954年1月にヤマト小林商店代表取締役に就任し、1963年11月にはニチイ(のちのマイカル)副社長に就任し、1982年11月には社長に昇格。1996年5月に会長に就任。 1994年11月に藍綬褒章を受章。 1999年12月10日心不全のために死去。68歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
出江 寛(いずえ かん、1931年8月29日 - 2024年… 出江 寛(いずえ かん、1931年8月29日 - 2024年6月18日)は、日本の建築家。日本建築家協会第10代会長。 京都府生まれ。京都市立伏見工業高等学校建築科を経て、1957年立命館大学理工学部土木工学科卒業。京都大学施設部技術課建築係勤務の後、1959年竹中工務店大阪本店設計部入社。1976年竹中工務店大阪本店を設計副部長にて退職、出江寛建築事務所設立。1994年からは大阪芸術大学講師を務める。 2024年6月18日、心不全のため死去。92歳没。 黒川紀章に「名人」とまで言わしめる手法は、その鋭い感性と独特の美学が生み出す表現手法にある。気性の激しさとその奔放無頼の発言は多くのファンを惹き付ける一方で敵も多い。
紅谷 愃一(べにたに けんいち、1931年6月7日 - )は… 紅谷 愃一(べにたに けんいち、1931年6月7日 - )は、日本の録音技師である。日本映画・テレビ録音協会代表理事。 1931年(昭和6年)6月7日、京都府京都市中京区で、代々「近江屋藤兵衛」の屋号で染物屋を営む家の5人きょうだいの末っ子として出生。1944年、旧制中学の京都市立第一工業学校電気科に入学。1948年の学制改革で京都市立洛陽高等学校(現・京都市立洛陽工業高等学校)となる。同級生には大島渚がいた。1949年3月に卒業し、電気工事のアルバイトをして就職浪人しているときに級友の紹介で大映京都撮影所に臨時雇用され、同撮影所の録音課に配属された。1951年、吉村公三郎監督の『源氏物語』の撮影終了後に正社員となる。
岡本 伊三美(おかもと いさみ、1931年2月26日 - )… 岡本 伊三美(おかもと いさみ、1931年2月26日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者。 次女に元プロテニスプレイヤーの岡本久美子がいる。 中学まではバスケットボールの選手だったが、京都市立第一工業学校時代に野球へ転向。野球部の同期に元阪神の桧山進次郎の実父がおり、当時岡本が遊撃手で桧山の父がエース投手であった。 高校卒業後の1949年に南海ホークスへテスト生として入団。高校時代のチームメイトに種田訓久(後に南海で共にプレー)がいる。 1951年はシーズン終盤の9試合に二塁手として先発出場、また南海土建に出向という形で社会人野球でもプレーした。 1952年には兼任監督の山本一人の後継と目され、7月からは二塁手の定位置を獲得。
種田 訓久(たねだ くにひさ、1931年2月6日 - 201… 種田 訓久(たねだ くにひさ、1931年2月6日 - 2014年1月14日)は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(内野手)。 1949年、京都市立第一工業学校(現洛陽工業高校)卒業後に南海ホークスにテスト生として入団。高校時代のチームメイトに、後に南海でもチームメイトとなる岡本伊三美がいる。1951年は、南海土建に出向し社会人野球でもプレーした。 1952年6月26日の近鉄戦(彦根球場)で関根潤三から自身のプロ初安打となる先頭打者ホームランを放った(この記録は、それから60年後の2012年9月29日に宮﨑祐樹〈オリックス〉がロッテ戦〔京セラドーム〕で藤岡貴裕からプロ初安打となる先頭打者ホームランを放つまで出なかった)。
久保 重男(くぼ しげお、1928年8月15日 - )は、京… 久保 重男(くぼ しげお、1928年8月15日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手。 烏丸商業、立命館大学を経て1950年に大洋ホエールズへ入団。同年退団。
五十棲 辰男(いそずみ たつお、1928年(昭和3年)4月2… 五十棲 辰男(いそずみ たつお、1928年(昭和3年)4月28日 - 2010年(平成22年)11月26日)は、京都府長岡京市出身の政治家。長岡京市長を務めた。社会福祉法人長岡京せいしん会の特別養護老人ホーム天神の杜の理事長。京都市立第一工業学校(のち京都市立洛陽工業高等学校)卒業。 京都市立第一工業学校を経て、1966年(昭和41年)長岡町農業委員会委員、1967年(昭和42年)長岡京市議会選挙で初当選。1979年(昭和54年)に自民党から長岡京市長選挙へ出馬し初当選を果たした。 3期12年の市長在任期間中は基金設立等による地下水の保全かん養などをして、1991年に3期目の任期満了をもって引退した。
森田 富士郎(もりた ふじお、1927年12月14日 - 2… 森田 富士郎(もりた ふじお、1927年12月14日 - 2014年6月11日)は、日本の撮影技師、撮影監督、特撮監督。 1927年(昭和2年)、京都府葛野郡太秦村(現在の京都市右京区太秦)の出身。映画監督の黒田義之とは京都市立太秦小学校の同級生だった。1945年(昭和20年)、京都市立第一工業学校卒業。 1947年(昭和22年)、大映京都撮影所撮影部に戦後第一号入所。撮影助手として相坂操一キャメラマンに師事。当時、敗戦後の復員によって、京都撮影所は撮影助手だけで総勢40人の大所帯だった。相坂の他、杉山公平、宮川一夫の撮影助手も多数務めた。 1949年(昭和24年)、『幽霊列車』(野淵昶監督)、『透明人間現わる』(安達伸生監督)で円谷英二の特撮助手を務め、これが円谷との出会いとなる。
鈴木 治(すずき おさむ、1926年11月15日 - 200… 鈴木 治(すずき おさむ、1926年11月15日 - 2001年4月9日)は日本の陶芸家。馬や鳥、雲や太陽などをモチーフにした抽象的フォルムの詩情あふれる作品で高く評価される。戦後の陶芸界をリードした走泥社の創立メンバー。京都市立芸術大学名誉教授。 1926年千家十職の永樂工房で轆轤(ろくろ)職人をしていた鈴木宇源治の三男として京都市五条坂に生まれ、早くから父に轆轤の手ほどきを受ける。1943年京都市立第二工業学校(現・京都市立伏見工業高等学校)窯業科を卒業。 戦後1946年中島清を中心に、京都の若手陶芸家が集まって結成された青年作陶家集団に参加。1948年解散。 同1948年八木一夫、山田光らとともに、陶芸による新しい造形表現を目指す前衛陶芸家集団走泥社を結成。
水井 康雄(みずい やすお、1925年(大正14年)5月30… 水井 康雄(みずい やすお、1925年(大正14年)5月30日 - 2008年(平成20年)9月3日)は、パリを拠点とし国際的に活躍した、日本の石の彫刻家。主に、抽象的な形を志向し、公共の場に設置される大規模な作品を得意とした。 京都市に生まれる。父親は、当時外車を所有し運転するハイカラな人物であった。幼少の時から絵が好きでデッサン等に秀でていたが、当時時代の最先端であった機械工業に日本の未来を夢みて1944年(昭和19年)神戸工業専門学校(現・神戸大学工学部)機械学科に入学する。第二次世界大戦中は、川崎車両(現川崎重工業車両カンパニー)に学徒動員され鋳造を學ぶ。戦後を明石の川崎航空動員中に迎えた。
中谷 信夫(なかたに のぶお、1920年5月4日 - 199… 中谷 信夫(なかたに のぶお、1920年5月4日 - 1992年5月21日)は、京都府京都市出身のプロ野球選手。左投右打で、ポジションは投手。 京都市立第一工業学校(現・京都市立洛陽工業高等学校)、立命館大学から門司鉄道局(現・JR九州硬式野球部)を経て、シーズン途中ながらも1947年に南海ホークスへ入団し、1年目に15勝を挙げ、翌年も開幕から12連勝で、前年御園生崇男が記録したプロ野球記録の13連勝に挑んだ6月25日の対金星スターズ戦では6対2で敗戦投手となり連勝を止めるものの、この年は21勝を挙げる。1951年には14勝して最高勝率のタイトルを獲得し、5年連続二桁勝利も記録した。1955年に現役引退後は、1960年までコーチとなる。
上田 恒次(うえだ つねじ、1914年 - 1987年)は、… 上田 恒次(うえだ つねじ、1914年 - 1987年)は、日本の陶芸家。日本民芸館新作展委員。 1914年、京都で呉服商「松屋」に次男として生まれる。富本憲吉の『窯遍雑記』(文化生活研究会、1925年)を読み陶芸家を志す。 1927年(昭和2年)、京都市立第二工業学校陶磁器科に入学する。1931年(昭和6年)、同校を卒業。以後、河井寛次郎、柳宗悦、浜田庄司、富本憲吉に師事する。1937年(昭和12年)、木野皿山窯を開く。1955年(昭和30年)、河井寛次郎の助手を務め、技法を次ぐことを許される。1962年(昭和37年)、日本橋三越本店美術部で個展を開催する。以降各地で開催。1963年(昭和38年)、東京国立近代美術館主催「現代国際陶芸展」に招待出品する。
星 英府(ほし えいふ、1907年3月 - 没年不詳)は、日… 星 英府(ほし えいふ、1907年3月 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は川上 英男(かわかみ ひでお)。マキノ・プロダクションの主要人物の一人である。 1907年(明治40年)3月、神奈川県横浜市北方町(現在の同県中区同町)に生まれる。 京都市立工業学校(現在の京都市立洛陽工業高等学校)を卒業後、貿易商社に入るが、1926年(大正15年)7月、マキノ・プロダクションへ入社する。同年8月27日公開の曽根純三監督映画『砕かれた人形』で映画デビューを果たし、金が有り余るという男役を演じた。以後、マキノの中堅俳優として多数の作品に出演した。翌々年1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)など一部の資料によれば、京都府葛野郡花園村天授ヶ丘(現在の同府京都市右京区花園天授ヶ岡町、マキノ・プロダクション内)、京都府京都市一条通大将軍坂田町7番地(現在の同府同市北区大将軍坂田町)と転々と住み、趣味は絵描き、ダンス、散歩であり、洋酒と外国煙草が嗜好であるという。
鈴木 清(すずき きよし、1903年9月12日 - 1967… 鈴木 清(すずき きよし、1903年9月12日 - 1967年10月6日)は、日本の陶芸家。同じく陶芸家の鈴木卓司は次男。 京都府京都市東山区に生まれる。京都市立第二工業学校卒業。人間国宝であった富本憲吉に師事。1939年、国画会賞を受賞。1941年、第4回新文展に「茄子の図大鉢」を出品して特選を受賞。1942年、国画会会員となる。1947年、新匠美術工芸会立ち上げに参画。1957年、日本工芸会正会員となる。1967年10月6日、狭心症のため京都市内の病院で死去。
中井 武三(なかい たけぞう)は、日本出身のハンドボール選手… 中井 武三(なかい たけぞう)は、日本出身のハンドボール選手。1972年ミュンヘンオリンピック、1976年モントリオールオリンピックハンドボール全日本男子代表。 京都府京都市出身。京都市立八条中学校、京都市立伏見工業高等学校、同志社大学を経て大同製鋼に入社した。 1969年、全日本男子ナショナルチームのルーマニア遠征とルーマニア強化合宿に参加。着実なプレーに定評があり、全日本で長く主戦として活躍。世界選手権出場。1972年ミュンヘンオリンピック、1976年モントリオールオリンピック代表。
森 辰男(もり たつお、1926年-2011年) は、旅亭 … 森 辰男(もり たつお、1926年-2011年) は、旅亭 半水慮天橋立 玄妙庵等、和風建築を得意とする日本の建築家。 1926年、京都市西陣に生まれる。1942年、旧制京都市立第一工業学校建築科卒業。日本海軍施設部、運輸省建設部を経て、1951年吉村建築事務所に入所。1966年日本建築家協会会員。吉村建築事務所副社長を歴任。