スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
生山 裕人(いくやま ひろと、1985年5月10日 - )は… 生山 裕人(いくやま ひろと、1985年5月10日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。右投両打。NPBでは育成選手であった。 大阪府立天王寺高等学校卒業後、教師を目指して大阪教育大学を受けるも不合格。一浪して再度受験するも不合格で、芸人を目指すことも視野に入れて近畿大学文芸学部芸術学科演劇芸能専攻演技コースに入学。講義時間の関係で硬式野球部に入部できず、二部の準硬式野球部に入部。その一方、創部したばかりのクラブチーム・八尾ベースボールクラブに1期生として入団し、大学とクラブチームを掛け持っていた。 大学は2年で休学し2007年に四国アイランドリーグ・香川オリーブガイナーズに入団。
井石 礼司(いいし れいじ、1942年9月5日 - )は、現… 井石 礼司(いいし れいじ、1942年9月5日 - )は、現在の大阪府東大阪市出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)。左投左打。 中学時代は野球部と陸上部を兼任していた。天王寺高校を経て慶應義塾大学に進学する。慶應大学では2年秋にベンチ入りし、3年秋からレギュラーとなる。東京六大学野球リーグでは在学中に3度の優勝を経験、同期のエース・渡辺泰輔を擁し、1963年の全日本大学野球選手権大会でも優勝している。1964年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に日本代表として選出されるが、出場機会はなかった。リーグ通算28試合出場、89打数31安打、打率.348、0本塁打、8打点。
今井 洋行(いまい ひろゆき、1933年9月1日 - )は、… 今井 洋行(いまい ひろゆき、1933年9月1日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手。 天王寺高から、1951年に南海ホークスの2軍的なチームだった社会人野球の南海土建に入部。 1952年、南海ホークスに昇格する。シュートが武器のサイドスロー投手。1955年に引退。
井上 佳明(いのうえ よしあき、1932年9月25日 - 1… 井上 佳明(いのうえ よしあき、1932年9月25日 - 1980年6月25日)は、大阪府出身で、1950年代に活躍したプロ野球選手(投手)。 大阪府立天王寺高等学校を卒業後、1951年に国鉄スワローズに入団。同年9月1日、後楽園球場での対大洋ホエールズ戦にてプロ初勝利を挙げた。 翌1952年には、7勝を記録。1953年には自己シーズン最多の9勝を挙げたものの、セ・パ両リーグ最多の26敗を喫した。同年5月9日から8月6日にかけて、同一シーズン13連敗というセ・リーグ記録を残している。以降は成績が低迷し、1957年オフに引退。 1980年6月25日、病のために47歳という若さで急逝した。
村上 実(旧字体表記:村上 實、むらかみ みのる、1906年… 村上 実(旧字体表記:村上 實、むらかみ みのる、1906年8月12日 - 1999年5月4日)は、兵庫県出身のプロ野球監督、実業家。 小学校時代の友人に、関西大学野球部監督、大阪タイガース二軍監督などを歴任する森田忠勇がいる。旧制天王寺中学で三塁手を務める。 慶應義塾大学野球部マネージャを経て、1932年にに阪神急行電鉄(現:阪急阪神ホールディングス・阪急電鉄)に入社する。1936年にはプロ野球球団阪急軍の創設に尽力する。球団代表に就任して25年間球団経営に携わった。 1937年には、秋季シーズンの監督を務める。初代阪急軍の監督である三宅大輔がこのシーズンも指揮を執るはずであったが、三宅の一切の妥協を許さぬ厳格な姿勢が選手達からの猛反発を受けてしまい、三宅は解任に追い込まれたために4試合目からの途中就任であった。
東 武雄(あずま たけお 1901年 - 1945年11月2… 東 武雄(あずま たけお 1901年 - 1945年11月2日)は、日本の元アマチュア野球選手。身長5尺8寸(約176cm)、体重20貫余(約75kg)。右投。大阪府大阪市出身。戦後、東京都知事を務めた東龍太郎は兄に当たる。 医者の子として大阪船場で生まれ、天王寺中学校から第一高等学校を経て、東京帝国大学農学部に進学。 1925年秋、東京帝大の東京六大学リーグ加盟時の投手である。由谷敬吉や梶原英夫と並んで、東京大学野球部史上の「名投手三羽烏」と呼ばれる人物の一人。 1925年秋季対法大戦で六大学リーグ初の本塁打、1927年春季の対立教大戦ではノーヒットノーランを達成(現在まで東大選手唯一の記録)。