スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
足立 亘(あだち わたる、1968年1月8日 - )は、鳥取… 足立 亘(あだち わたる、1968年1月8日 - )は、鳥取県米子市出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。 境高では2年生時から控え投手として起用され、1984年の夏の甲子園県予選準決勝では米子商業高に完投勝ち。決勝はエース安部伸一(三菱重工三原)が米子工業高を抑え夏の甲子園への出場を決める。1回戦で法政一高と対戦。安部が延長10回2死まで無安打と好投、しかし末野芳樹にサヨナラ本塁打を喫し敗退。この試合は右翼手として出場した。2年秋からエースとなり秋季県大会を制覇。秋季中国大会に進むが、準々決勝(初戦)で関西高に0-1で敗退、翌1985年春の選抜出場を逃した。期待された3年夏は故障に苦しみ、県予選で鳥取商業高に4-7で敗れ、甲子園出場はならなかった。
松田 和久(まつだ かずひさ、1966年7月16日 - )は… 松田 和久(まつだ かずひさ、1966年7月16日 - )は、新潟県佐渡市出身の元プロ野球選手(外野手)。 父親が航空自衛隊勤務のため、佐渡島で生まれ、北海道と青森県に住んだ後、中学2年生の時に鳥取県境港市に定住。本籍地は広島県呉市である 。彼は地元の野球チームである広島東洋カープの熱烈なファンであり、子供の頃からの夢であったプロ野球選手になることができた。境高では、3年次に夏の甲子園に出場したが、1回戦で法政一高に延長の末、初被安打がサヨナラ本塁打となり敗れた。高校の1学年後輩に足立亘がいる。 高校卒業後、浪人を経て1987年6月から広島東洋カープの練習生となり、翌年から選手登録、4年間のプロ生活で一軍公式戦への出場がないまま1991年限りで現役を引退。
寺本 勇(てらもと いさむ、1945年6月15日 - 198… 寺本 勇(てらもと いさむ、1945年6月15日 - 1983年2月8日)は、日本の元プロ野球選手(外野手)。 島根県八束郡美保関町日向出身。鳥取県立境高等学校を経て、1963年に広島カープに入団。しかし、在籍3年で5試合の出場(打席記録なし)に終わり、1966年に現役引退。
太田 枝雄(おおた はつお、1939年7月10日 - )は、… 太田 枝雄(おおた はつお、1939年7月10日 - )は、鳥取県出身の元プロ野球選手(投手、内野手、外野手)。 境高校では1957年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、米子東高に敗退。1958年に阪急ブレーブスへ投手として入団。1959年に内野手に転向。1961年に一軍に上がり、一塁手として8試合に先発出場。翌1962年は開幕直後から一軍に定着、自己最多の26試合に先発する。4月22日には大毎オリオンズを相手に四番打者としても起用され、4打数1安打を記録。また同年はウエスタン・リーグで1シーズン2本の満塁本塁打を放った。1963年にはウエスタン・リーグの本塁打王を獲得するが、一軍では打撃の低迷が続き、外野手として2試合の先発にとどまる。
米田 哲也(よねだ てつや、1938年3月3日 - )は、鳥… 米田 哲也(よねだ てつや、1938年3月3日 - )は、鳥取県西伯郡大篠津村(現・米子市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。血液型はAB型。 プロ野球歴代2位(達成当時は歴代1位)の949試合に登板し、歴代2位の通算350勝を記録した。通算先発626登板、通算1940失点、通算1659自責点、通算120与敬遠、通算4561被安打の日本記録保持者。 その驚異的スタミナから「ガソリンタンク」「人間機関車」「タフマン」などと呼ばれる。 祖父・長次郎は海産物仲買業を営み、『伯耆国実業人名録』(明治37年 (1904年))に載せられていた大篠津の代表的な商人であった。父・雅明は薪炭雑貨商。
拝藤 宣雄(はいどう のりお、1935年5月2日- )は、鳥… 拝藤 宣雄(はいどう のりお、1935年5月2日- )は、鳥取県境港市出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは投手。 3歳上の実兄・聖雄(まさお)も元プロ野球選手で、こちらは近鉄パールスにて5年間、弟と同じく投手として活躍した。 境高校ではエースとして活躍。2年生時の1952年には、創部6年目の同高校野球部を夏の甲子園初出場へ導く奮投を見せた。しかし、全国大会では2回戦(初戦)で日大三高の若杉輝明と投げ合いの末、完封負け。翌1953年夏は東中国大会1回戦で浜田高に敗れ、甲子園には届かなかった。 高校卒業後は、立教大学へ進学。東京六大学野球リーグでは、同期のエース・杉浦忠とともに活躍した。1957年には春秋4勝を挙げ、チーム初となる春秋季リーグ連覇に貢献している。
拝藤 聖雄(はいどう まさお、1932年6月22日 - 20… 拝藤 聖雄(はいどう まさお、1932年6月22日 - 2011年7月21日)は、鳥取県境港市出身で、近鉄パールスに在籍した元プロ野球選手(投手)である。 実弟の拝藤宣雄(‐のりお)も、元プロ野球選手(広島カープに在籍した)。 境高では、1949年秋季中国大会準決勝に進むが米子東高に敗退。翌1950年夏の甲子園予選東中国大会でも準決勝に進出するが、またも米子東高に敗退し甲子園出場を逸する。米子鉄道管理局を経て、1952年に近鉄パールスへ入団。 1956年3月24日の東映フライヤーズ戦でプロ初勝利を記録した。同年は主に中継ぎとして18試合に登板。しかし公式戦ではその1勝のみで、同年オフに24歳にして現役を引退。