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大椿 裕子(おおつばき ゆうこ、1973年〈昭和48年〉8月… 大椿 裕子(おおつばき ゆうこ、1973年〈昭和48年〉8月14日 - )は、日本の政治家、労働運動家。 参議院議員(1期)、社会民主党副党首、大阪教育合同労働組合執行委員長を歴任。既婚者であり、配偶者はバルセロナ出身のカタルーニャ人。 岡山県高梁市生まれ。岡山県立高梁高等学校、四国学院大学社会学部社会福祉学科卒業後、四国で非正規雇用を掛け持ちしながら暮らす。この間、社会福祉士と保育士の資格を取得。 2002年にフィリピン・ネグロス島で遊学。姉が住んでいた神戸市に移り、2004年からNPO法人被災地障害者センターで務める。 2006年、関西学院大学に上限4年の有期雇用で障害学生支援コーディネーターとして就職する。
西 雅雄(にし まさお、1896年(明治29年)4月24日 … 西 雅雄(にし まさお、1896年(明治29年)4月24日 - 1944年(昭和19年)4月16日)は、政治活動家。特に、経済の宇野学派を構成する宇野弘蔵や大学教授の高木益郎から高く評価され、西の活動により共産党員となったものも多い。 岡山県勝田郡梶並村(現:美作市)出身。旧制岡山県立高梁中学(現:高梁高等学校)へ進学、同級生に東京帝国大学教授となる宇野弘蔵や関西大学法学部教授になる高木益郎、第一高等学校の特待生となった松田享爾がいた。特に、後に東京帝国大学の教授になり、経済学の宇野学派をつくった宇野は、自身の著書「忘れえぬ級友」で西について言及している。 西は、後に堺利彦を委員長とする第一次共産党に参加し、その後もボルシェヴィズムに理論と実践の両面で心身共に投じてゆくが、早熟の文学少年だった西の手ほどきで、宇野は文学と社会・政治論に目を惹かれていった。
難波 英夫(なんば ひでお、1888年2月5日 - 1972… 難波 英夫(なんば ひでお、1888年2月5日 - 1972年3月7日)は岡山県出身の社会運動家。 高梁川の支流成羽川の一支流、日名川の源である熊之谷(現・高梁市成羽町上日名)に生まれる。父は小学校の校長であった。自身は部落外の出身だが、9歳で部落差別の存在を知る。経済的理由で旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)への進学を断念。15歳で準教員の試験に合格。16歳で阿部小学校の準訓導となる。翌年、近似(ちかのり)という被差別部落の分教場に派遣されて生徒指導に悩み、自信を失って教師を辞職。 1912年、朝鮮の京城日報記者となり、1917年に帰国。1918年、東京時事新報社に入り、1919年、大阪時事新報社社会部長に転じる。
留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874… 留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874年(明治7年)10月4日 - 1933年(昭和8年)4月19日)は留岡幸助の妻。社会福祉活動家。愛媛県喜多郡内子町出身[信頼性要検証]。 愛媛県喜多郡天神村(現在の内子町)に寺尾家の長女として誕生した。その後、設立したばかりの岡山県上房郡高梁町(現在の高梁市)にあった順正女学校(現在の岡山県立高梁高等学校)に学び、東京に出て巣鴨家庭学校の保母となる。1901年(明治34年)6月1日に留岡幸助と結婚した。菊子が26歳のときだった。 結婚した年の10月に菊子は慈善事業師範学校を開設して従事者の養成をはかるなど事業を拡大し、1906年7月には財団法人なった。
留岡 夏子(とめおか なつこ、旧姓:森峰(もりみね)、186… 留岡 夏子(とめおか なつこ、旧姓:森峰(もりみね)、1866年(慶応2年) - 1900年(明治33年)4月30日)は留岡幸助の前妻。社会福祉活動家。現在の岡山県出身。 1866年(慶應2年)、備中国川上郡下切村(のち、倉敷県川上郡下切村→深津県川上郡下切村→小田県川上郡下切村→岡山県川上郡玉川村、現・高梁市玉川町下切大成)の森峰定五郎と妻・むめの11番目の末っ子として誕生した。1879年(明治12年)養子・留岡幸助の嫁になるため、夏子が13歳のとき留岡金助の養女として引き取られた。同年、幸助が座敷牢に入れられているのを助け出し、幸助は四国の今治へ逃れた。その後、留岡家を出て夏子の実家に帰るが、再び高梁の須藤英江医師のもとへ奉公に出た。
石井 品子(いしい しなこ、旧姓:内埜(うちの)、1865年… 石井 品子(いしい しなこ、旧姓:内埜(うちの)、1865年(慶應元年) - 1895年(明治28年)9月12日)は、石井十次の最初の妻であり、社会事業家である。岡山県出身。 岡山県生まれ。1881年に同い年の石井十次(16歳)と品子(15歳)は結婚した。十次は品子と結婚した頃には教職や巡査の職に就いており、結婚後、十次の出身地である宮崎から品子の実家のある岡山へ活動拠点を移す。 その後、十次は医師を志すようになる。その間、品子は京都に機織の勉強に行き、岡山に帰ってからは、1885年(明治18年)高梁の順正高等女学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学している。品子がキリスト教の洗礼を受けるのは、この高梁の地である。