スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
桑田 駿介(くわた しゅんすけ、2005年5月17日 - )… 桑田 駿介(くわた しゅんすけ、2005年5月17日 - )は、日本の陸上競技選手。愛知県岡崎市出身。駒澤大学経済学部経済学科在学中。 岡崎市立福岡中学校、倉敷高等学校出身。 全国高校駅伝には3年連続で4区を走った。2年時は、佐藤悠基に次ぐ4区日本選手区間歴代2位となる22分48秒を記録し、4年ぶり3回目の優勝に貢献した。また、3年時は前年の記録には及ばなかったものの2年連続で区間賞を獲得した。 第103回関東インカレでは駒澤大学チームが苦戦する中、5000m(2部)で5位に入賞した。 第36回出雲駅伝では1区を担当。7km付近で先頭集団から遅れ、区間6位で襷を繋いだ。 第56回全日本大学駅伝では2区を走ったが区間17位に沈み、先頭との差を2分23秒まで広げられてしまう結果となった。
石原 翔太郎(いしはら しょうたろう、2002年1月4日 -… 石原 翔太郎(いしはら しょうたろう、2002年1月4日 - )は、日本の陸上競技選手。兵庫県たつの市出身。東海大学体育学部卒業、SGホールディングス所属。陸上競技部に所属し、専門種目は長距離走。 中学校はたつの市立龍野東中学校、高校は倉敷高等学校、大学は東海大学出身。 大学卒業後はSGホールディングスで競技を継続。
中島 怜利(なかしま れいり、1997年〈平成9年〉11月7… 中島 怜利(なかしま れいり、1997年〈平成9年〉11月7日 - )は、日本の陸上競技選手、YouTuber。所属クラブはTRIGGER Athlete Clubで、同クラブの代表も務める。妻は元陸上選手の髙松智美ムセンビ(現姓:中島)。 兵庫県姫路市出身。姫路市立大白書中学校、倉敷高等学校、東海大学体育学部競技スポーツ学科卒業。 大白書中時代は全国大会などの出場は無く、初の全国大会は倉敷高校1年次の東京国体少年男子B3000m[信頼性要検証]である。倉敷高校2年次に出場した山梨インターハイでは3000mSCにて、9分08秒38の記録で予選通過。決勝では14位の好成績を残したが、後に自身のYouTubeにて「ハードルすら飛んだ事が無く、道路にある車両通行禁止用の柵を飛び越えて感覚を掴んだ」と述べている。
藤田 健児(ふじた けんじ、1994年1月19日 - )は、… 藤田 健児(ふじた けんじ、1994年1月19日 - )は、日本のプロボクサー。岡山県倉敷市出身。帝拳ボクシングジム所属。現WBOアジア太平洋フェザー級王者。 全員が極真空手を経験する3男2女の末っ子。上から元OPBF東洋太平洋スーパーフェザー級暫定王者の藤田和典、極真空手世界3位の藤田典子、総合格闘家の藤田翔子、同じく総合格闘家の藤田大和、そして健児である。 物心がつく以前から父の道場で極真空手とボクシングを始め、中学時代までにキックボクシング、総合格闘技も経験。倉敷高校進学後からボクシングに専念し、インターハイ3連覇、兄・大和との兄弟同時インターハイ制覇を達成し、2年次には全日本選手権も制覇。
馬場 翔大(ばば しょうた、1993年10月23日 - )は… 馬場 翔大(ばば しょうた、1993年10月23日 - )は、岡山県岡山市出身の元陸上競技選手。専門は長距離走。倉敷高等学校、駒澤大学経済学部卒。NTT西日本陸上競技部所属。 姉の影響で小学校5年生から陸上を始める。 岡山市立上道中学校3年時、岡山県中学駅伝の1区で区間賞。都道府県対抗駅伝にも出場した。 倉敷高校3年時の第62回全国高校駅伝では3区を区間3位(日本人トップ)で走りチームを準優勝に導いた。2012年3月の第11回アジアクロスカントリー選手権ではジュニア8kmの部で優勝を飾る。 高校卒業後は駒澤大学に進学。大学2年時の第45回全日本大学駅伝6区で学生駅伝デビュー。区間賞を獲得し優勝に大きく貢献する。
藤田 大和(ふじた やまと、1992年8月13日 - )は、… 藤田 大和(ふじた やまと、1992年8月13日 - )は、日本の男性総合格闘家、元アマチュアボクサー。岡山県倉敷市出身。拓殖大学卒業。リバーサルジム新宿Me,We所属。元DEEPフライ級暫定王者。 ボクシングでは全日本選手権、国体(2度)、インターハイ、全国選抜で優勝を果たし、アマチュアボクシング5冠を成し遂げている。 空手一家の次男に生まれ、父の空手道場で物心がつく前から空手をやっていた。 兄の影響でボクシングをはじめ、中学時代までは空手やキックボクシングの試合にも出場していた。 倉敷高等学校に進学、ボクシングで高校3冠を制す。拓殖大学では、2011年の全日本選手権で翌年にロンドン五輪で銅メダルを獲得する清水聡に勝利して優勝を果たしアマチュアボクシング5冠を達成。
宮本 武文(みやもと たけふみ、1990年8月11日 - )… 宮本 武文(みやもと たけふみ、1990年8月11日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)。 小学2年の時に大新白鳩少年野球クラブで右翼手として野球を始め、小学5年の時に投手に転向。城東中時代は和歌山シニアに所属。エースとして二度の全国大会出場を果たし、世界大会の代表にも選出される。 倉敷高に進学後は、1年春から公式戦に出場し、1学年先輩の津田大樹が引退した後を受け、2年秋からエースとして活躍。3年春はベスト4、3年夏も岡山県予選準決勝まで進むも、優勝した倉敷商業高に敗れ甲子園出場は果たせなかった。 2008年10月30日に開かれた、プロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから2位指名を受け、同年11月18日に契約金6000万、年俸600万(金額は推定)で仮契約を結んだ。
津田 大樹(つだ たいき、1989年6月16日 - )は、和… 津田 大樹(つだ たいき、1989年6月16日 - )は、和歌山県有田市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 甲子園には未出場で全国的には無名だが、高校での通算防御率は2.20。また一試合に21奪三振の記録も持つ。MAX147km/hのストレートと高速スライダーで三振をとれるピッチングが武器で、高校時代から本格派投手として評価は高かった。 2007年10月3日の高校生ドラフトで北海道日本ハムファイターズから3巡目で指名を受けて入団(推定年俸500万)。しかし、故障している報道はなかったものの2008年の出場機会は二軍のイースタンリーグ2試合にとどまった。シーズンオフ後に減俸を受け、背番号も48から70に変更されたがその理由についてスポーツ報知での選手名鑑では、自らの素行不良によるものと報道された。
太田 行紀(おおた ゆきのり、1986年11月10日 - )… 太田 行紀(おおた ゆきのり、1986年11月10日 - )は、日本の陸上競技選手。岡山県邑久郡邑久町(現在・瀬戸内市)出身。専門は中距離・長距離種目。 中学2年生より、陸上を始めた。今城小学校-邑久中学校-倉敷高等学校-駒澤大学経済学部商学科-マツダ
田中 宏樹(たなか ひろき、1983年3月18日 - )は、… 田中 宏樹(たなか ひろき、1983年3月18日 - )は、日本の元陸上競技選手。岡山県川上町出身。駒澤大学卒業。 川上町立川上中学校(現:高梁市立川上中学校)、倉敷高等学校、駒澤大学出身。 1年時の第78回箱根駅伝では12月初旬に山の適性を見出され、急遽5区に抜擢される。先頭で襷を受け取り、山頂付近で神奈川大学の吉村尚悟に交わされて2位に後退したが区間4位のタイムで23秒遅れにとどめた。駒澤大学は6区で再び首位に立つとそのまま先頭を譲ることはなく、2年ぶり2度目の総合優勝を果たした。 2年時の第79回箱根駅伝では再び5区を走り、区間2位の記録で4位から2位に浮上した。駒澤大学は9区で先頭に立ち、2年連続の総合優勝を果たした。
藤井 克久(ふじい かつひさ、1972年8月15日 - )は… 藤井 克久(ふじい かつひさ、1972年8月15日 - )は、日本の実業家、元総合格闘家、元男性プロレスラー。広島県福山市出身。CORE所属。 小・中学校にて柔道を、倉敷高校、東洋大学ではレスリングを経験。大学卒業後、修斗の道へ進んだ。 1997年、修斗にて総合格闘家デビュー。以後、UFC、パンクラス、DEEP、PRIDE、リングス、MARSなどさまざまな大会に参戦した。 2002年、小川直也の練習相手を務めるようになり、同年11月にUFOへ入団、小川に弟子入りした。 2004年にはPRIDE武士道へ参戦するとともにZERO-ONEへも登場し、プロレスラーとしての活動をスタートさせた。ZERO-ONE参戦後の2004年5月17日、小川によって藤井 克久から藤井 軍鶏侍へ強制的にリングネームを変更させられた。
香田 晋(こうだしん、1967年10月12日 - )は、日本… 香田 晋(こうだしん、1967年10月12日 - )は、日本の僧侶、演歌歌手。2012年にゴールデンミュージックプロモーションを退社して芸能界を引退した。 中学2年まで北九州市八幡東区に居住し、高校卒業まで岡山県倉敷市で育つ。生活のため旅館に住み込みで働く母と、長く離れて暮らした。不良少年で「中学3年生の時、ヤクザの女に手を出して車で拉致された」とテレビ番組で語っている。 実父は生後間もなく失踪して建設現場で事故死した。母は再婚し、香田は義父を実父と思って育つが小学5年時に事実を知らされる。両親は不仲から別居し、香田は母と生活していたが、14歳で母と別れて岡山県の親族宅へ移る。上京前に4年ぶりに母と再会したが、歌手デビュー翌年の1990年に母は41歳で死去した。
劔持 節雄(けんもつ たかお、1953年5月16日 - )は… 劔持 節雄(けんもつ たかお、1953年5月16日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手(内野手→外野手)。1980年途中から1985年までの登録名は「劔持 貴寛」(けんもつ たかひろ)。 岡山日大高(現・倉敷高)では遊撃手、控え投手として1年秋の県大会決勝で完投勝利したが中国地区大会では広陵高に初戦コールド負け。1970年夏の甲子園予選東中国大会決勝に進出するが、岡義朗、守岡茂樹のいた岡山東商に敗退。翌年も県大会で敗れ甲子園には届かなかった。 1971年ドラフト2位で広島入団。 1974年より外野手に転向するが、二軍暮らしが長かった。 1977年ウエスタン・リーグで首位打者を獲得。 1978年11月望月卓也、平田英之と共に金田留広、渡辺秀武との3対2の交換でロッテに移籍。