スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
皆本 勝弘(みなもと かつひろ、1972年7月2日 - )は… 皆本 勝弘(みなもと かつひろ、1972年7月2日 - )は、広島県広島市安芸区矢野出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはMF、中盤のあらゆるポジションを担当した。 広島市立矢野中学校出身で、先輩に佐藤康之、後輩に森崎和幸・浩司兄弟がいる。広島県立広島工業高等学校 では、1つ先輩に桑原裕義・梶山洋一がいる。桑原とはのちにサンフレッチェ広島で共にプレー経験がある。 1991年高校卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部(現セレッソ大阪)に入部する。1994年セレッソ大阪設立 後も主力メンバーとして活躍した。 1998年、地元のサンフレッチェ広島へ移籍。同年のシーズン終了後に戦力外通告を受け、現役を引退した。
桑原 裕義(くわばら ひろよし、1971年10月2日 - )… 桑原 裕義(くわばら ひろよし、1971年10月2日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手。ポジションはMF(守備的MF)。 広島県立広島工業高等学校出身。2つ先輩に棚田伸(元柏レイソル)、同級生に梶山洋一(元ヴィッセル神戸)、1つ後輩に皆本勝弘(元セレッソ大阪)。皆本とはのちにサンフレッチェ広島で共にプレー経験がある。 大阪体育大学2年の時に1991年ユニバーシアード・シェフィールド大会代表に選出、1993年バッファロー大会代表に選出され、バルセロナオリンピックアジア予選候補に選出される。この際にサンフレッチェ広島のチームドクターがスタッフとして入っており、そのドクターから広島入団へとリクルートされる。
梶山 洋一(かじやま よういち、1971年9月8日 - )は… 梶山 洋一(かじやま よういち、1971年9月8日 - )は、広島県出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー。 広島工業高校を卒業後、川崎製鉄(後のヴィッセル神戸)に入団。1996年にジャパンフットボールリーグで2位となり、1997年にJリーグに昇格した。退団後、佐川急便東京でプレー。選手兼監督を務め、現在は千葉県浦安市、市川市でサッカースクール、ジュニアユースチームの代表を務める。
棚田 伸(たなだ しん、1969年7月25日 - )は、広島… 棚田 伸(たなだ しん、1969年7月25日 - )は、広島県広島市安佐北区口田(高陽町)出身の元プロサッカー選手。ポジションはMF(ミッドフィールダー)。1994年の柏レイソルのJリーグ昇格をもたらした名選手である。サンフレッチェ広島の棚田遼は甥。 広島県立工業出身。2学年後輩に桑原裕義、梶山洋一がいる。1年からレギュラーに据えられ、テクニックのあるレフティーとして広島のマラドーナと呼ばれた[誰によって?]。1985年高校総体ベスト4、1987年高校選手権では準決勝まで勝ち進んだ室蘭大谷高校に初戦、PK戦で敗れた。この時唯一外したのが棚田である。順天堂大学を経て1992年に日立製作所サッカー部(現・柏レイソル)入団。
猿澤 真治(さるさわ しんじ、1969年6月9日 - )は、… 猿澤 真治(さるさわ しんじ、1969年6月9日 - )は、広島県出身のサッカー指導者、元サッカー選手。 広島県出身。広島工業高校では1986年、1987年と2年連続で全国高校サッカー選手権に出場した。大阪体育大学を卒業後は、香川県内の中学校に勤務しながら、1999年まで香川紫雲クラブ(現・カマタマーレ讃岐)でプレーした。また1993年には、香川県として出場した国体 成年2部で優勝の実績を挙げた。 1996年からは、香川県や四国の3種(U-15)トレセン責任者を歴任。2007年より日本サッカー協会(JFA)ナショナルトレセンコーチ四国担当に就任した。2008年7月に中学校を退職後、日本オリンピック委員会(JOC)のスポーツ指導者海外研修員として同年8月から1年間フランスに派遣され、フランスナショナルフットボール学院(INF)でU-13からU-15年代の育成プログラムの研修を受けた。
結城 治男(ゆうき はるお、1963年1月9日 - )は、広… 結城 治男(ゆうき はるお、1963年1月9日 - )は、広島県出身の元サッカー選手、及びサッカー指導者。 広島工業高等学校から東京農業大学を経て湘南ベルマーレの前身であるフジタサッカークラブでプレー。1992年の現役引退後はJリーグに昇格したベルマーレのJrユースコーチなどを経て1997年よりL・リーグ所属のフジタSCマーキュリーの監督に就任。チームが解散する1998年まで指揮(1998年は総監督として)をとっていた。マーキュリー解散後はベルマーレに戻りユースチームの指揮をとるなどしていた。1999年にJFA 公認S級コーチのライセンスを取得している。 2003年に選手時代から長年所属していたベルマーレを去り、Jリーグ所属のヴァンフォーレ甲府のコーチに就任。
大井 成元(おおい なりもと、1960年3月20日 - )は… 大井 成元(おおい なりもと、1960年3月20日 - )は、広島県大竹市出身の元サッカー選手(MF)・監督。 5歳上の兄・一成の影響で小学5年からサッカーを始め、中学卒業後の1975年に県立広島工高へ入学。兄の薦めもあり、当時広島で一番の強豪校で憧れの県工サッカー部で、松田輝幸監督から指導を受けてサッカーが上達したいという思いから入学したが、練習の厳しさは想像を絶していた。春に70名程いた新入部員が、夏には30名に減っていったほどで、大井もその厳しい練習に何とか付いて行く。2学年上の金田喜稔や1学年上の木村和司ら一流選手のプレーを手本にできたことで、徐々に上達していった。3年次の1977年には猿沢茂、沖野隆幸、中本邦治、沖宗敏彦、木村ら強力メンバーが揃って社会人や大学生を含んだ全広島大会で優勝し、県内ではJSLの東洋工業を除いて敵なしの力を誇った。
猿沢 茂(さるさわ しげる、1960年1月30日 - )は広… 猿沢 茂(さるさわ しげる、1960年1月30日 - )は広島県安芸郡府中町出身の元サッカー選手(MF、FW)。 府中中学に入学後から本格的にサッカーをはじめ、1年次からセンターフォワード(CF)として活躍。2年次には中国大会優勝を飾った。また、中学時代に広島大河FCに入ってプレーしている。 県立広島工業高等学校(通称・県工)時代 は高校1年次からCFとしてレギュラーとなり高校選手権出場。2年次にはインターハイ出場。3年次では攻撃的なMFとしてチームの軸となりインターハイ、選手権の両大会で活躍した。かつて御三家と言われながら、永らく低迷が続く広島高校サッカーが久しぶりに輝いた瞬間だった。現在では県工出身者の中でも知名度は低いが、当時はこの猿沢の才能が最も注目され、ルックスの良さもあり一番人気が高かった。
中本 邦治(なかもと くにはる、1959年10月29日 - … 中本 邦治(なかもと くにはる、1959年10月29日 - )は広島県出身の元サッカー選手。 広島工業高校では大井成元、沖宗敏彦、室野哲雄らとディフェンスラインを組み2年次1976年、新潟高校総体ベスト8、国体準優勝(1-4静岡県選抜)、3年次1977年、岡山高校総体ベスト4進出に貢献した。 中央大学を経て日本鋼管サッカー部に所属。小柄ながら俊足とジャンプ力に優れた主力DFとして日本サッカーリーグ(JSL)151試合に出場した。日本鋼管では田中孝司、倉又寿雄、GK松井清隆らとゴールを守りJSLで1985年からの優勝争い(1985年、1986年-1987年、1987年-1988年シーズン三年連続2位)、1987年JSLカップ制覇に貢献した。
沖宗 敏彦(おきむね としひこ、1959年9月7日 - )は… 沖宗 敏彦(おきむね としひこ、1959年9月7日 - )は広島県出身の元サッカー選手、元日本代表選手。 広島工業高校時代 の2年次の1976年、新潟高校総体ベスト8、国体準優勝(1-4静岡県選抜)、3年次の1977年、岡山高校総体ベスト4進出に貢献した。 その後は川崎フロンターレの前身である富士通サッカー部に11年所属。望月豊仁、来海章、中村一義、城福浩、岩渕弘幹、沈祥福らとプレー。フィジカルの強さとテクニックに優れた左利きのディフェンダーで、センターバックや左サイドバックをこなした。1979年、U-20サッカー日本代表としてワールドユース日本大会に出場。また日本代表として1981年のムルデカ大会など、国際Aマッチ2試合にも出場した。
沖野 隆幸(おきの たかゆき、1959年4月10日 - )は… 沖野 隆幸(おきの たかゆき、1959年4月10日 - )は、広島県出身の元サッカー選手。 県立広島工業高校の3年時の1977年には猿沢茂とツートップを組み岡山高校総体ベスト4、得点王も獲得し全日本高校選抜にも選出された。 1982年に東京農業大学を卒業後、日本サッカーリーグ2部に降格した杉山隆一監督下のヤマハ発動機サッカー部に入部。突破力とシュート力を買われすぐにFWとして起用され、同期入団の内山篤や柳下正明らと共に活躍した。 前期終了後にコーチとして招聘されたハンス・オフトからトータルサッカーの要である攻撃的MFにコンバートされ、忠実なプレーでチームの1部昇格に貢献した。 第62回天皇杯では若き主将として大活躍を見せる。
木村 和司(きむら かずし、1958年7月19日 - )は、… 木村 和司(きむら かずし、1958年7月19日 - )は、広島県広島市出身の元プロサッカー選手、サッカー解説者、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー、フォワード。元日本代表。日本サッカー元祖10番。 日本サッカー協会公認S級ライセンス所持。国際Aマッチ6試合連続ゴールは日本代表連続得点記録(2020年時点)。 広島市立大河小学校(広島大河FC)–広島市立翠町中学校を経て、県立広島工業高校(通称:県工)に進学。攻撃的サッカーで名を馳せた県工の右ウイング、中心選手として1975年度の高校選手権でベスト4の成績を残した。 1977年、明治大学二部政治経済学部へ入学し、サッカー部に所属。
石﨑 信弘(いしざき のぶひろ、1958年3月14日 - )… 石﨑 信弘(いしざき のぶひろ、1958年3月14日 - )は、広島県広島市中区出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現松本山雅FC監督。 実家は旧広島市民球場の近くで、身近なスポーツは野球だったが、広島市立広瀬小学校4年生のときに友達の誘いでサッカーを始める。ポジションは中学生の時から常にディフェンダーだった。県立広島工業高校時代は河内勝幸、金田喜稔、楚輪博、木村和司、猿沢茂、室野哲雄らと共に全国高校選手権ベスト4を経験した。指導者として手本は高校時代の松田輝幸監督という。 その後東京農業大学を経て1980年に日本サッカーリーグ (JSL) 2部の東芝に加入。チームではいわゆる「ストッパー」の役割を任され、ハードなディフェンスで JSL2部時代には5年連続ベストイレブンに選ばれるなど活躍する。
石崎 信弘(いしざき のぶひろ、1958年3月14日 - )… 石崎 信弘(いしざき のぶひろ、1958年3月14日 - )は、広島県広島市中区出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
金田 喜稔(かねだ のぶとし、1958年2月16日 - )は… 金田 喜稔(かねだ のぶとし、1958年2月16日 - )は、日本の元サッカー選手。元サッカー日本代表で、「19歳119日」という日本代表最年少得点記録を保持している(2017年時点)。広島県安芸郡府中町出身。現在はTBSなどでサッカー解説者として活躍している。尊敬するサッカー選手はジョージ・ベスト。フチューマ所属。日本サッカー名蹴会会長。いわきFC シニアアドバイザー。一般財団法人日本スポーツ振興会 理事。 サッカーを始めたのは中学に入ってから。小学生のときはソフトボールを主にやっていた。坊主頭になるのが嫌で野球を諦め、中学からサッカー部に入った。週1回の『三菱ダイヤモンド・サッカー』を観て、世界のトップ選手たちのプレイに憧れビデオの無い時代、テレビ放送に目を凝らし、翌朝近くのグラウンドで想像してボールを蹴った。
楚輪 博(そわ ひろし、1956年5月1日 - )は、日本の… 楚輪 博(そわ ひろし、1956年5月1日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。広島県広島市生まれ、広島県・大阪府育ち。 県立広島工業時代は金田喜稔、木村和司、石崎信弘、猿沢茂らとスペクタクルなサッカーを展開し高校選手権などで活躍した。法政大学時代はユース代表の主将も務めた。 卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部に入部。得意のプレイスキックで中心選手として活躍。現役晩年の釜本邦茂のパートナーでもあった。1981年アシスト王、ベストイレブン5回、日本サッカーリーグ(JSL)191試合出場は歴代17位。日本代表経験もある。1990年に現役を引退した。 1994年にセレッソ大阪のサテライト監督に就任。
河内 勝幸(かわち かつゆき、1955年4月27日 - )は… 河内 勝幸(かわち かつゆき、1955年4月27日 - )は、広島県出身の元サッカー日本代表選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 県立広島工業(通称・県工)時代は一年からレギュラーとなり1971年、徳島高校総体準優勝(0-3藤枝東)。第14回アジアユース選手権(AFCユース選手権)日本代表にも選ばれた。高校選手権には三年連続出場。二年連続で大会優秀選手に選ばれ、三年時には再びユース日本代表に選ばれた。楚輪博は1学年、金田喜稔と石崎信弘は2学年下となる。木村和司は3学年下。 その後、大阪商業大学へ入学し、上田亮三郎から指導を受け、西村昭宏、加藤好男、中村重和らとプレー。 大学卒業後、東洋工業(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)へ。
小滝 春男(こたき はるお、1952年4月11日)は広島県出… 小滝 春男(こたき はるお、1952年4月11日)は広島県出身の元サッカー選手。 実兄は東洋工業でディフェンダーとして活躍した小滝強、実弟はフジタでフォワードとして活躍した小滝勇一。三兄弟が同時期に日本のトップリーグでプレーした初のケース。 現役時代は人に強く攻め上がりが得意なサイドバックで、MFとしてもプレーした。70年代の東洋工業で活躍し、1978年天皇杯決勝進出に貢献した。 また、代表ではユース代表3回、ジュニア代表2回経験。1971年、日本で行われた第13回アジア・ユース選手権ではサイドバックとして、高田一美・奥寺康彦・永井良和らとプレーしている。1974年Cキャップ1試合、1979年JSL選抜。
小原 秀男(こはら ひでお、1950年12月29日 - 20… 小原 秀男(こはら ひでお、1950年12月29日 - 2015年10月2日)は、広島県広島市佐伯区出身のサッカー選手・指導者。 広島県立広島工業高等学校卒業。3年時の1968年、同級の荒井公三らと全国高等学校サッカー選手権3位。ユース日本代表にも選ばれ第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)出場。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者で、多くが日本サッカーリーグ(JSL)に進み、各チームの主力選手として活躍した。(詳細は崎谷誠一の項目を参照)。 高校を卒業後、1969年に東洋工業(現マツダ)へ入社、東洋工業サッカー部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)の選手として活躍した。
荒井 公三(あらい こうぞう、1950年10月24日 - 2… 荒井 公三(あらい こうぞう、1950年10月24日 - 2020年12月27日[要出典])は、日本の元サッカー選手、日本代表選手。広島県佐伯郡能美町(現江田島市)出身。 広島工業高校3年時の1968年、全国高等学校サッカー選手権3位。ユース日本代表にも選出され第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)出場。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者で、多くが日本サッカーリーグ(JSL)に進み、各チームの主力選手として活躍した。(詳細は崎谷誠一の項目を参照)。 所属した古河電工でも日本代表でも1970年代の主力選手の一人として活躍。所属チームでは若き古河を象徴するダイナミックなMFとして守備を引き締め永井良和、奥寺康彦らと1976年、古河電工念願の日本サッカーリーグ初制覇、天皇杯制覇の二冠、翌1977年のJSLカップ制覇などに貢献した。
小滝 強(こたき つよし、1950年1月28日 - )は、広… 小滝 強(こたき つよし、1950年1月28日 - )は、広島県出身の元サッカー選手。 実弟は東洋工業でディフェンダーとして活躍した小滝春男、フジタでフォワードとして活躍した小滝勇一。三兄弟が同時期に日本のトップリーグでプレーした初のケース。 現役時代は人に強いCB(ストッパー)。70年代の東洋工業で活躍し、1978年天皇杯決勝進出に貢献した。 また、代表では22歳の時にジュニア代表としてヨーロッパ遠征に参加。1974年Cキャップ1試合、1979年JSL選抜。