スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
三村 真(みむら まこと、1989年3月30日 - )は、広… 三村 真(みむら まこと、1989年3月30日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手。中国リーグ・福山シティFC所属。ポジションは、MF。 山陽高校から拓殖大学を経て2011年、「チームに勢いを感じた」ファジアーノ岡山へ加入。同年はネクスト所属となる。2012年は左股関節肉離れの怪我もあり、ネクストに登録されたが、10試合9得点の活躍を見せ、7月にトップチームへ登録変更され、11試合に出場した。 2020年11月30日、契約満了による退団が発表された。 2021年1月23日にJ3に昇格したテゲバジャーロ宮崎に移籍。 2022年11月15日、テゲバジャーロ宮崎は契約期間の満了と来季に向けた契約更新を行わないことを発表。
市川 裕太(いちかわ ゆうた、1985年6月13日 - )は… 市川 裕太(いちかわ ゆうた、1985年6月13日 - )は、広島県呉市出身の元サッカー選手。
井上 裕文(いのうえ ひろふみ、1984年4月5日 - )は… 井上 裕文(いのうえ ひろふみ、1984年4月5日 - )は、広島県広島市出身のサッカー選手。
大杉 誠人(おおすぎ まさと、1983年2月2日 - )は、… 大杉 誠人(おおすぎ まさと、1983年2月2日 - )は、広島県出身のサッカー選手。ポジションはディフェンダー。 山陽高校から阪南大学を経て、2005年にJFLの佐川印刷SCに加入。MF登録ながらDFとしても起用された。2006年には佐川急便大阪SCに移籍しDFとしての登録となったが、負傷の影響によりリーグ戦初出場は8月にずれ込み、9試合の出場にとどまった。 2007年、佐川大阪が佐川急便東京SCと合併して発足した佐川急便SC(後のSAGAWA SHIGA FC)に加入したが、合併に伴う競争の激化により出場機会を失った。2008年には主にDFのバックアップとしてメンバー入りし、右サイドバックなどで先発出場も果たした。
猿田 浩得(さるた ひろのり、1982年10月28日 - )… 猿田 浩得(さるた ひろのり、1982年10月28日 - )は、広島県大竹市出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。 ドリブラー。スピードで勝負するタイプのFW、攻撃的なMF。 タイにおける日本人サッカー選手の価値を上げた選手であり、彼の活躍によりタイ・プレミアリーグにおける日本人選手の需要が高まった。タイではキングと呼ばれていた。。愛媛FCにとっての日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)初得点を挙げた選手である。 実兄は2011年現在FC東京普及部コーチの猿田公章。 廿日市FC、フジタSS、山陽高等学校、拓殖大学出身。フジタSS時代の同期に柴村直弥、実兄の公章もフジタSS出身であり、沖野等から指導を受ける。
竹村 栄哉(たけむら よしや、1973年12月6日 - )は… 竹村 栄哉(たけむら よしや、1973年12月6日 - )は、広島県三次市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 広島県山陽高校卒業後、1992年にフジタ(ベルマーレ平塚)に加入。1994年8月17日のニコスシリーズ第3節でJリーグ初出場、1995年9月2日のニコスシリーズ第6節でJリーグ初ゴールを記録。 その後、1998年から水戸ホーリーホック、1999年途中から大分トリニータ、2002年から大宮アルディージャ、2004年からサガン鳥栖でプレー。2006年シーズン限りで鳥栖との契約が満了になり、クラブ側からはコーチ就任を打診されたが、大分時代の同僚である原田武男に誘われて九州リーグのV・ファーレン長崎に移籍。
佐藤 康之(さとう やすゆき、1966年4月12日 - )は… 佐藤 康之(さとう やすゆき、1966年4月12日 - )は、広島県広島市安芸区矢野出身の元サッカー選手。ポジションはDF。 スピードとフィジカルの強さが売り。パンチパーマがトレードマークで、広島のみならず、Jリーグ屈指の強面選手だったが、愛嬌がありおしゃべりだったため、当時人気選手の一人だった。 森崎和幸・浩司兄弟は矢野中学校の後輩。広島国泰寺高校の野村雅之、吉田安孝は同い年で高校時代のライバルであった。地元山陽高校からマツダ入り。1988年には日本代表のメンバーに選ばれ中東遠征に参加した。Jリーグ開幕の頃にはマンチェスター・ユナイテッドFCへ修行に出されていた。1994年にレギュラー獲得、柳本啓成とともにコンビを組み活躍、サントリーシリーズ制覇に貢献した。
小滝 勇一(こたき ゆういち、1955年2月28日)は広島県… 小滝 勇一(こたき ゆういち、1955年2月28日)は広島県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 実兄は東洋工業でディフェンダーとして活躍した小滝強と小滝春男。三兄弟が同時期に日本のトップリーグでプレーした初のケース。 現役時代はフジタ工業でプレー。強シュートが持ち味のフォワードで、1977年、1979年、1981年の日本サッカーリーグ1部優勝、1977年、1979年の天皇杯優勝時のメンバーとしてフジタ工業の全盛期を支えた。 引退後はフジタ社員、1991年には中国サッカーリーグの広島フジタSCの監督に就任。1995年にはチームを中国リーグで優勝に導いた。 ・JSL東西対抗戦 1回出場(1981年)
河野 和久(こうの かずひさ、1950年12月30日 - )… 河野 和久(こうの かずひさ、1950年12月30日 - )は広島県出身の元サッカー選手。ディフェンダー(DF)。 山陽高等学校では崎谷誠一、平田和資らと共に1967年全国高等学校サッカー選手権優勝(洛北と両校優勝)、国体3位。3年時の翌1968年全国高等選手権は準優勝(0ー1初芝)。ユース日本代表にも選出され、1969年第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)に出場した。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者の同学年で、多くが日本サッカーリーグ(JSL)各チームの主力選手として活躍した。(詳細は崎谷誠一の項目を参照)。 高校卒業後、日立入りし、忠実なサイドバックとして長くレギュラーとしてプレーした。
崎谷 誠一(さきや せいいち、1950年12月1日 - )は… 崎谷 誠一(さきや せいいち、1950年12月1日 - )は、広島県似島出身の元サッカー選手。 山陽高等学校でフォワード、あるいは攻撃的MFとして2年時の1967年、全国高等学校サッカー選手権で優勝(洛北と第二延長を含む120分0-0で両校優勝)、国体3位。2年生でユース日本代表に選出される。3年時の翌1968年には主将として全国高等選手権準優勝(0ー1初芝)。翌1969年第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)に出場した。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者の同学年で、崎谷は八幡製鉄、山陽の同級・河野和久は日立、県立広島工業の荒井公三は古河電工、小原秀男は東洋工業、修道の大谷栄一は三菱重工、広島市商の河本博は八幡製鉄と、日本サッカーリーグ(JSL)に進み、いずれもチームの主力選手として活躍した。
国枝 強(くにえだ つよし、1944年9月18日 - )は、… 国枝 強(くにえだ つよし、1944年9月18日 - )は、広島県出身の元サッカー日本代表選手(DF)。 高校時代は山陽高等学校へ入学し、渡部英麿から厳しい指導を受けた。 1960年代後期~1970年代東洋工業(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に所属、60年代後期の東洋工業黄金期を支えたフルバック。1969年、1970年の2年連続天皇杯決勝進出に貢献している。 また日本代表としてもワールドカップメキシコ大会予選など、国際Aマッチ2試合に出場した。
上 久雄(かみ ひさお、1941年6月28日 - )は、広島… 上 久雄(かみ ひさお、1941年6月28日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手(DF、MF)・監督。 広島市立国泰寺中学校を経て、広島山陽高校では渡部英麿監督の指導を受けた。卒業後は寺西忠成監督に誘われ、1960年に八幡製鉄サッカー部へ入部。身体能力に優れ、ハードタックルと空中戦に強さを発揮。渡辺正・宮本輝紀らと共に主力選手として活躍し、ストッパーとして相手チームのエースのマークを任され、1966年と1967年には2年連続で「年間優秀11人賞」に選出される。日本代表では主にハーフバックとして活躍し、東京五輪では代表初のベスト8進出に貢献。メキシコシティ五輪は予選こそレギュラーとして出場したが、本戦では登録メンバーから外れた。
宮本 輝紀(みやもと てるき、1940年12月26日 - 2… 宮本 輝紀(みやもと てるき、1940年12月26日 - 2000年2月2日)は、広島県広島市宇品(現・南区宇品)出身(広島市段原山崎町生まれ)の元サッカー選手(MF)・コーチ・監督。日本代表の攻撃的ミッドフィールダーとしてメキシコ五輪銅メダル獲得に貢献し、日本最初のゲームメーカーとも呼ばれる。 1945年8月6日、4歳の夏に爆心地から約2kmの段原山崎町で被爆し、一緒に遊んでいた弟を亡くした。張本勲も近所で被爆している。終戦後は宇品に引越して広島市立千田小学校に入学し、千田小の同期に岡光龍三、一学年上に後に山陽高→八幡→新日鐵と同じ道を歩む大石信幸がいた。広島市立国泰寺中学校時代に大学生にサッカーを教えてもらったことがきっかけでサッカー部に転部し、国泰寺中の一学年上に野村六彦、同期に今西和男がいた。
岡光 龍三(岡光竜三、おかみつ りゅうぞう、1940年 - … 岡光 龍三(岡光竜三、おかみつ りゅうぞう、1940年 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手(FW)・指導者。 広島市立千田小学校時代の同級に宮本輝紀、一学年上に大石信幸がいる。 高校は宮本や大石とともに広島山陽高等学校に進学し、渡部英麿から指導を受ける。1957年、1958年国体準優勝に貢献。特に1958年大会決勝は杉山隆一がいた静岡県立清水東高等学校との対戦で、当時話題となった。 大学は中央大学に進学した。サッカー部に在籍し、同郷の野村六彦・小城得達・桑原楽之らと活躍した。第42回天皇杯全日本サッカー選手権大会で決勝進出、決勝の相手は長沼健・平木隆三・川淵三郎・宮本征勝・鎌田光夫・保坂司と日本代表を揃え三連覇を狙った古河電工で、岡光は決勝点を決め中大優勝に貢献した。
大石 信幸(おおいし のぶゆき、1939年9月12日 - )… 大石 信幸(おおいし のぶゆき、1939年9月12日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手。ポジションはFW。 広島市立千田小学校の一学年下の宮本輝紀、岡光龍三らと山陽高等学校に進学し1957年、主将として国体準優勝。八幡製鉄サッカー部でも1963年、1964年度全日本実業団サッカー選手権大会2連覇、1964年度の天皇杯優勝に貢献。1965年創設された日本サッカーリーグ(JSL)一年目は桑田隆幸(東洋工業)と並んで11得点を挙げ、得点王・野村六彦(日立)に次ぐ得点2位と、初年度の得点王争いは全員広島出身者だった。