スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
田中 エリナ(たなかえりな、本名:田中 えり奈、1984年〈… 田中 エリナ(たなかえりな、本名:田中 えり奈、1984年〈昭和59年〉10月9日 - )は、日本の女性起業家、実業家、地方政治家(松山市議会議員)。 マーケティング会社MICHEL代表取締役で、愛媛プロレスの運営会社である株式会社魅せるぜえひめ愛の創立者兼会長を勤める。株式会社三福ホールディングスにて社外取締役、松山銀天街振興組合にて理事としても活動中。 愛媛県松山市に生まれる。 愛媛県立松山東高等学校を経て、津田塾大学英米文学科異文化コミュニケーションを卒業。 その後、愛媛に戻り、リクルートに入社。ブライダル情報誌「ゼクシィ」の企画営業を担当。 2012年に他の女性とともに株式会社ミシェルを起業した。
大本 晶之(おおもと まさゆき、1969年9月9日 - )は… 大本 晶之(おおもと まさゆき、1969年9月9日 - )は、日本の実業家。丸紅代表取締役社長。 愛媛県出身。愛媛県立松山東高等学校を経て、1992年に早稲田大学商学部卒業。同年、丸紅株式会社入社。電力部門へ配属され、コスタリカや中国、トルコ、アラブ首長国連邦における発電事業に従事した。 2004年、ハーバード・ビジネス・スクールを卒業(MBA with Distinction)。2006年、マッキンゼー・アンド・カンパニー入社。2007年10月、丸紅に再入社。 同社次世代事業開発本部長等を経て、2020年に執行役員次世代事業開発本部長、2022年に執行役員CDIO次世代事業開発本部長、2024年に常務執行役員CDIO次世代事業開発本部長に、それぞれ就任。
平井 康文(ひらい やすふみ、1960年11月17日 - )… 平井 康文(ひらい やすふみ、1960年11月17日 - )は、日本の実業家。シスコシステムズ社長を経て、楽天グループ副社長・最高情報責任者、楽天コミュニケーションズ会長兼CEO、楽天モバイル副会長。 徳島県徳島市生まれ。愛媛県立松山東高等学校を経て、1983年九州大学理学部数学科卒業、日本アイ・ビー・エム入社、四国営業所配属、徳島駐在。日本アイ・ビー・エム経営企画部門を経て、1995年IBMに出向。1997年日本アイ・ビー・エム社長補佐。1998年日本アイ・ビー・エムNTT営業統括部長。2001年日本アイ・ビー・エム理事ソフトウエア事業部長。2002年IBMソフトウエアグループヴァイスプレジデント。
豊島 吉博(とよしま よしひろ、1951年2月27日 - )… 豊島 吉博(とよしま よしひろ、1951年2月27日 - )は、日本の実業家、愛媛新聞社記者を経て、1994年、日本サッカー協会常務理事兼事務局長就任、2015年より愛媛FC代表取締役社長(2017年退任)。公益財団法人日本サッカー協会評議員、2016年より四国サッカー協会20代目会長(H28・29年度)
井関 清(いせき きよし、1938年2月11日 - 2015… 井関 清(いせき きよし、1938年2月11日 - 2015年11月6日)は、日本の実業家。ハウスメイト創業者。元日本賃貸住宅管理協会会長。元関東愛媛県人会会長。 愛媛県大洲市出身。2歳の時に父が死去し母子家庭に育つ。1956年愛媛県立松山東高等学校卒業。1961年中央大学法学部卒業。1974年井関商事を創業。1977年ハウスメイト設立。1999年日本賃貸住宅管理業協会会長。2001年日本賃貸住宅管理協会会長。2009年関東愛媛県人会会長。2015年11月6日、胆管癌のため死去。
平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 -… 平田 陽一郎(ひらた よういちろう、1908年11月1日 - 1988年10月10日)は、日本のジャーナリスト、実業家。 愛媛県八幡浜市生まれ。松山中学校 (旧制)に入学。松山高等学校 (旧制)在学時、のちの日本共産党議長宮本顕治や憲法学者大野盛直らと同人雑誌『白堊紀』を発行するなどの親交があった。 京都帝国大学卒業。大阪毎日新聞記者を経て、1942年愛媛合同新聞社(現愛媛新聞社)編集局長。1946年愛媛新聞社社長。1947年日本で初めて新聞週間行事を実施した。1953年南海放送開局、社長に就任。 1963年1月の第5回愛媛県知事選挙に「県政刷新県民の会」より出馬、自由民主党公認の現職知事久松定武に接戦の末惜敗した。
関谷 勝利(せきや かつとし、1904年〈明治37年〉10月… 関谷 勝利(せきや かつとし、1904年〈明治37年〉10月20日 - 1987年〈昭和62年〉7月6日)は、日本の実業家、政治家。自由民主党・衆議院議員(11期)。元参議院議員関谷勝嗣の父。 1922年(大正11年)松山中学校卒業。海運業、土木建築請負業に従事。 伊予運送、松山商興、伊予造船各取締役。柳瀬座興行、松山港湾荷役作業、松山港運、勝山土建各社長。愛媛機帆船海運組合理事長。三津浜町会議員、愛媛県会議員、日本進歩党幹事を歴任。 1946年(昭和21年)初当選以来11期30年間衆議院議員を務め1976年(昭和51年)引退。党交通部会長、衆院内閣委員長などを歴任。運輸族として活躍、「陰の運輸大臣」といわれた。
佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日… 佐伯 勇(さえき いさむ、1903年〈明治36年〉3月25日 - 1989年〈平成元年〉10月5日)は、日本の実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の元社長、会長、名誉会長で、近鉄グループの総帥。プロ野球・近鉄バファローズのオーナーでもあった。アメリカの大陸横断鉄道の2階建てドームカーを参考にした、世界で初めての2階建電車による特急車のビスタカーの生みの親でもある。位階は正三位。 愛媛県周桑郡丹原町(現・西条市)で、佐伯源三郎の三男として生まれる。丹原小学校、松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)と進むが、父親の方針で京都一中(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)へ転校、さらに第三高等学校(旧制・三高)を経て東京帝国大学法学部を卒業した。
船田 一雄(ふなだ かずお、1877年12月7日 - 195… 船田 一雄(ふなだ かずお、1877年12月7日 - 1950年4月18日)は大正、昭和期の日本の実業家。三菱合資会社理事長を務めた。 愛媛県上浮穴郡東明神(明神村→久万町を経て、現・久万高原町)出身。久万高等小学校卒業翌年の1892年(明治24年)、試験により愛媛県尋常中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)2年に編入学する。中学5年の1895年(明治28年)に夏目漱石が教員として赴任し、船田も漱石に食事などのもてなしを受けたという。 1896年(明治29年)、愛媛県尋常中学校卒業とともに第五高等学校文科に進学。1899年(明治32年)に第五高等学校を卒業して東京帝国大学法科大学独法科に進んだ。在学中に父が病死し、7年を要して1906年(明治39年)に卒業した。
尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2… 尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2日 ‐ 1965年(昭和40年)9月19日) は、日本の実業家・政治家。衆議院議員。 愛媛県温泉郡松山(現松山市)で愛媛県士族・尾崎敬正の長男として生まれた。年少のころは文学者を志していた。愛媛県尋常中学校(のち松山中学校、現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。さらに同大学院で経済学、財政学を研究した。官界を志望していたが実業界に転じた。 三井銀行に入行し、調査課長、部長を歴任。中国興業(中日実業)公司設立の際に三井銀行から出向して専務取締役に就任。その他、浦口土地組合代表、中国綿業取締役、中日銀行取締役、東洋拓殖理事、朝鮮鉄道監事を務めた。
井上 久吉(いのうえ ひさきち、1876年(明治9年)3月1… 井上 久吉(いのうえ ひさきち、1876年(明治9年)3月1日 - 1953年(昭和28年)3月16日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 愛媛県松山市湊町2丁目に生まれる。1887年(明治20年)家督を相続する。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を経て、東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。松山紡績会社監査役、井上合名会社代表者を務める傍ら、松山市会議員となり、1922年(大正11年)から1926年(大正15年)まで市会議長を務めた。 1933年(昭和8年)11月17日に松山市長に推挙され就任。さらに1937年(昭和12年)再選したが、任期途中の1938年(昭和13年)7月に病気を理由に退任した。
高橋 龍太郎(たかはし りゅうたろう、1875年(明治8年)… 高橋 龍太郎(たかはし りゅうたろう、1875年(明治8年)7月15日 - 1967年(昭和42年)12月22日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、大日本麦酒社長、高橋ユニオンズオーナー、日本サッカー協会会長(第3代)。 ビール製造技術者から経営者となり、「日本のビール王」とも称される。 愛媛県喜多郡内子村(現内子町)生まれ。旧制松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学するも、脚気の治療のための転地を兼ねて新設された第三高等学校(現京都大学)工学部機械工学科に転校、1898年に卒業する。 高等学校卒業後、大阪麦酒(後の大日本麦酒、現・アサヒグループホールディングスおよびサッポロホールディングス)に入り、1898年から6年間ドイツに留学して醸造技術を学び、帰国後は製造責任者としてビール造りに携わる。
勝田 銀次郎(かつた ぎんじろう、1873年(明治6年)10… 勝田 銀次郎(かつた ぎんじろう、1873年(明治6年)10月1日 - 1952年(昭和27年)4月24日)は、日本の政治家、実業家。勝田商会創業者。山下亀三郎、内田信也と並ぶ「三大船成金」の一人。神戸市会議員、衆議院議員、貴族院議員、第8代神戸市長(在任:1933年12月21日 - 1941年12月20日)。準戦時体制下の神戸市政を担い「鉄腕市長」と呼ばれた。愛媛県出身。 1873年(明治6年)10月、愛媛県松山で米穀商の長男として生まれる。中学校(松山中学校)卒業前に父親を亡くした勝田は19歳の時に北海道へ移住し一旗揚げようとするが、その道中で出会った東京英和学校(青山学院の前身)校長の本多庸一に学問とりわけ外国語を身に着けることの大切さを説かれ、同校予備学部に入学した。
小西 和(こにし かなう、1873年〈明治6年〉4月26日 … 小西 和(こにし かなう、1873年〈明治6年〉4月26日 - 1947年〈昭和22年〉11月30日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→中正会→憲政会→立憲民政党)、実業家。 名東県寒川郡長尾名村(現在の香川県さぬき市長尾名)出身。札幌農学校で植物学を専攻した。東京朝日新聞に入社して、博物方面の記事を担当し、『日本の高山植物』(二松堂、1906年)を著した。また日本海洋会の理事となり、『瀬戸内海論』(文会堂、1911年)を著した。 実業方面では、南満州製糖株式会社・亜細亜煙草株式会社・中国葉煙草株式会社・東亜拓殖興業株式会社の取締役を歴任した。 1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
櫻井 鴎村(さくらい おうそん、1872年7月31日(明治5… 櫻井 鴎村(さくらい おうそん、1872年7月31日(明治5年6月26日) - 1929年(昭和4年)2月27日)は、日本の翻訳家、児童文学者、教育者、実業家である。本名は彦一郎(ひこいちろう)。日本で新渡戸稲造の『武士道』を出版したことで知られる。津田梅子とともに女子英学塾(今の津田塾大学)を設立して幹事となる。北樺太石油(英: Northern Karafuto Oil Consession)の取締役を務める。日本陸軍軍人の櫻井忠温は弟である。
松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明… 松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明治5年2月2日) - 1939年(昭和14年)6月14日)は、明治から昭和初期にかけて活動した官僚、実業家。台湾電力社長。族籍は愛媛県平民。動物学者の青木淳一は孫。 愛媛県周桑郡楠河村大字河原津(現在の愛媛県西条市河原津)出身。松木操平の長男。松木家は予州の豪族河野通有の後裔である。旧制愛媛一中、旧制三高を経て1896年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。法学士の称号を得る。 逓信省書記官、広島郵便局長、帝国鉄道庁参事、鉄道院理事、東京市参与同電気局長を歴任。1918年、山下合名会社総理事となり、山下汽船、福島炭鉱各会社代表取締役、山下鉱業、浦賀船渠会社取締役に挙げられた。
御手洗 忠孝(みたらい ただたか、慶応2年9月27日(186… 御手洗 忠孝(みたらい ただたか、慶応2年9月27日(1866年11月4日) - 1940年(昭和15年)2月11日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。愛媛新報社長。県会議員。愛媛県松山市長、温泉郡道後湯之町町長。立憲同志会、憲政会の中心人物。 松山城下西町で松山藩士の家に生まれる。若くして医学を志し上京するが、病により帰郷し、1890年(明治23年)愛媛新報社に入り記者となり、不迷と号した。 1891年(明治24年)松山市会議員を経て、1896年(明治29年)松山市長・白川福儀の懇請により助役に就任し、1900年(明治33年)まで務めた。助役を退くと、愛媛新報社に戻り、主筆として言論活動を続ける。
清水 隆徳(しみず たかのり、1862年9月13日(文久2年… 清水 隆徳(しみず たかのり、1862年9月13日(文久2年8月20日)‐ 1929年(昭和4年)10月21日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・告森、筆名・山本隆徳、号・鶴城。 伊予国宇和島城下御殿町(愛媛県北宇和郡宇和島町を経て現宇和島市)で、宇和島藩士・告森桑圃の二男として生まれる。都筑荘蔵(鶴州)、上甲振洋の謹教堂で漢学を修めた。1877年(明治10年)北予変則中学校(松山中学校を経て現愛媛県立松山東高等学校)で学び、1881年(明治14年)大分県中津の慶應義塾支塾に入塾した。1880年(明治13年)頃、松山の民権結社「公共社」機関紙『海南新聞』編輯長に就任。1881年(明治14年)9月に上京し、1882年(明治15年)5月に千葉に移り『千葉総房共立新聞』幹事となる。
白川 福儀(しらかわ とみよし、安政5年9月10日(1858… 白川 福儀(しらかわ とみよし、安政5年9月10日(1858年10月16日) - 1916年(大正5年)1月4日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、教育者。愛媛県松山市長。愛媛県会議員。海南新聞社長。旧姓は門田。 伊予松山藩士・門田正業の長男として松山城下に生まれ、白川福明の養子となる。松山藩校の明教館、石鉄県校や大原観山の漢学塾にて学んだ後、1875年(明治8年)上京して漢学者・三島中州の私塾に入る。甲斐や近江の学校教師を務めたのち、1879年(明治12年)に帰郷して県官となるが、間もなく辞職して自由民権運動に傾倒し、長屋忠明や藤野政高らの率いる民権系政治結社・公共社で機関紙「海南新聞」の編集を弟の門田正経と共に担当。
小林 信近(こばやし のぶちか、天保13年8月28日(184… 小林 信近(こばやし のぶちか、天保13年8月28日(1842年10月2日) - 大正7年(1918年)9月24日)は、日本の実業家、政治家。松山城下(現愛媛県松山市)出身。伊予鉄道会社(現伊予鉄グループ)の創立者であり初代社長。第五十二国立銀行(現伊予銀行)、松山商法会議所(現松山商工会議所)、伊予水力電気(現四国電力)を創立するとともに、海南新聞社(現愛媛新聞社)社長を務めるなど、明治時代に愛媛経済の基盤を作った。 1883-1884年(明治16-17年)ころ小林は工部省神戸鉄道局の用材調達を請負っており、大坂に滞在している間阪神間の鉄道旅行を経験していた。小林は松山の道路整備の遅れを鉄道敷設で補うよう意識していたが、当時四国には官設鉄道も建設されてなく思案していた。
露口 達 は、日本の経営者。日清紡績社長、会長を務めた。
三好 武夫 は、日本の経営者。安田火災海上保険社長を務めた。
大沢 哲也 は、日本の経営者。日本食研社長を務めている。愛媛… 大沢 哲也 は、日本の経営者。日本食研社長を務めている。愛媛県出身。
佐伯 勇人 は、日本の実業家。四国電力特別顧問・前会長、社長… 佐伯 勇人 は、日本の実業家。四国電力特別顧問・前会長、社長、四国経済連合会(四経連)会長、四国旅客鉄道(JR四国)社外取締役。
前谷 重夫 は、日本の経営者、農林官僚。興亜火災海上保険社長… 前谷 重夫 は、日本の経営者、農林官僚。興亜火災海上保険社長、会長を務めた。