嵐 璃徳(あらし りとく、1875年〈明治8年〉12月31日… 嵐 璃徳(あらし りとく、1875年〈明治8年〉12月31日 - 1945年〈昭和20年〉12月16日)は、日本の俳優、歌舞伎役者である。本名は井上 徳太郎(いのうえ とくたろう)。関西歌舞伎に始まり、牧野省三が監督した日本初の時代劇映画、日本初の剣戟映画に出演、サイレント映画の時代に映画俳優として活躍した。 1875年(明治8年)12月31日、大阪府大阪市北堀江町(現在の同市西区北堀江)の花柳街の料亭を生家に、「井上徳太郎」として生まれる。その環境から、幼少より芸事を覚える。 満4歳にして1880年(明治13年)、先代・嵐璃徳に入門、2年後の1882年(明治15年)に大阪・角座で初舞台を踏んだ。
森 清(もり きよし、1875年(明治8年)12月30日 -… 森 清(もり きよし、1875年(明治8年)12月30日 - 1928年(昭和13年)1月3日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 在清国全権公使・森有礼の長男として生まれる。父の影響で「英気溌溂」なことも時代を送るが、父の死去に伴い1889年(明治22年)4月4日、子爵を襲爵。 学習院を経て、1901年(明治34年)7月、東京帝国大学文科大学英文学科を優等で卒業し、恩賜の銀時計を授けられた。 1908年(明治41年)3月7日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで在任した。
江羅 直三郎(えら なおざぶろう、1875年12月25日 -… 江羅 直三郎(えら なおざぶろう、1875年12月25日 - 1939年12月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓は北村。 和歌山県和歌山市生まれ。1889年、日蓮宗学林を卒業した。1891年12月に日蓮宗の僧侶である叔父の江羅日明の養子となる。1891年、日蓮宗宮谷大学林を卒業した。1895年、哲学館(現・東洋大学)を卒業する。その後は、京都で僧侶になる為の修行を積んだ。1907年に京華日報が創立すると記者となり、後に副社長となった。 1910年4月に京都市会議員に当選した。以後、1913年、1917年、1929年、1937年と5選を果たした。また、1915年9月には京都府会議員となった。
小泉 辰之助(こいずみ たつのすけ、1875年〈明治8年〉1… 小泉 辰之助(こいずみ たつのすけ、1875年〈明治8年〉12月24日 - 1936年〈昭和11年〉5月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家。衆議院議員。 青森県東津軽郡幸畑村(筒井村、筒井町を経て、現在の青森市)に生まれる。函館中学校を卒業し、警官、陸奥日報記者を経て、日月新聞を主宰後、政治家に転身する。1905年(明治38年)東平内村長となり、1909年(明治42年)まで在職。1907年(明治40年)には東津軽郡会議員、同議長を経て、1915年(大正4年)東津軽郡選挙区から青森県会に立候補し当選し、再選後議長に就任した。 県議に3選後の1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では青森県第5区から政友本党所属で出馬し当選するが、選挙後の訴訟に敗れて失格した。
松平 親信(まつだいら ちかのぶ、1875年〈明治8年〉12… 松平 親信(まつだいら ちかのぶ、1875年〈明治8年〉12月21日 - 1914年〈大正3年〉12月18日)は、明治・大正期の政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・龍若。 旧杵築藩主松平親貴の長男として生まれる。父の死去に伴い1882年(明治15年)10月12日に家督を継承し親信と改名。1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵した。 学習院高等科を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、さらに同大学院を修了した。浅草区教育会長を務めた。 1906年(明治39年)2月9日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、死去するまで在任した。会派は研究会に所属した。 1914年12月18日、東京市浅草区(現・台東区)浅草北三筋町の自宅で病のため死去した。
高原 操(たかはら みさお、1875年12月16日 - 19… 高原 操(たかはら みさお、1875年12月16日 - 1946年11月21日)は、日本のジャーナリスト。大阪朝日新聞主筆兼取締役編集局長。大正デモクラシーの第一線言論人。
黒住 成章(くろずみ せいしょう、前名・佐平治、1875年(… 黒住 成章(くろずみ せいしょう、前名・佐平治、1875年(明治8年)12月16日 - 1928年(昭和3年)7月17日)は、日本の弁護士、会社役員、政治家。衆議院議員(当選3回、立憲政友会)。族籍は岡山県平民。 1875年(明治8年)12月、岡山県津高郡一宮村(後の御津郡一宮町一宮、現在の岡山市北区一宮)で生まれる。黒住秀治の長男。生家は代々農業を営む。小学校卒業後、家業に従事する。 家が貧しく、学資を得ず、上京して牛乳配達、新聞配達等を勤めながら、1902年(明治35年)、和仏法律学校(現・法政大学)を卒業。 1903年(明治36年)、判検事登用試験に及第し、この年の12月に司法官試補を命ぜられ函館地方裁判所に勤務する。
山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月… 山本 鶴一(やまもと かくいち、1875年〈明治8年〉12月15日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。 島根県楯縫郡、後の簸川郡灘分村(現出雲市)で山本才之助の長男として生まれ、1900年(明治33年)に家督を相続した。 松江中学校(現島根県立松江北高等学校)を卒業。1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校(9期)を卒業し、1898年(明治31年)6月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1903年(明治36年)8月、陸軍大学校(20期)に入学。日露戦争勃発により1904年(明治37年)2月、陸大を中退し、1906年(明治39年)3月、陸大に復校し、1908年(明治41年)11月、同校を卒業し参謀本部に配属された。
6代 木津 太郎平(きづ たろへい、1875年(明治8年)1… 6代 木津 太郎平(きづ たろへい、1875年(明治8年)12月14日 - 1950年(昭和25年)7月8日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。富山県高岡市長。富山県多額納税者。幼名は清太郎。号・蒼石、杉雨。 新川県射水郡高岡上川原町(石川県、富山県射水郡高岡上川原町を経て現・高岡市川原本町)で、先代・太郎平の長男として生れ、1903年(明治36年)3月に家督を相続し、幼名を改め、6代太郎平を襲名した。富山県立富山中学校(現富山県立富山高等学校)を卒業後、志願兵として従軍し陸軍歩兵中尉に任官する。日露戦争の功により功五級金鵄勲章および日独戦争の功により勲四等を叙勲される。
飛岡 卯一郎(とびおか ういちろう、1875年(明治8年)1… 飛岡 卯一郎(とびおか ういちろう、1875年(明治8年)12月13日 - 1925年(大正14年)6月25日)は、日本の政治家。帝国議会衆議院議員(1期)、鹿児島市会議員、鹿児島県会議員。 鹿児島県鹿児島市金生町出身。飛岡卯右衛門の長男として生まれる。1894年(明治27年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業、1896年(明治29年)7月、鹿児島高等中学造士館本科卒業。1904年(明治37年)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。鹿児島市会議員、鹿児島県会議員を歴任し、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙において鹿児島市選挙区で当選、立憲政友会所属で1期務めた。そのほか、鹿児島商業会議所議員、同副会頭、第百四十七銀行(鹿児島銀行の前身のひとつ)常務取締役なども歴任。
瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 19… 瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 1915年2月28日)は日本の小説家、翻訳家、教師。本名は瀬沼 郁子(旧姓:山田)。アントン・チェーホフを初めて日本に紹介した。 高崎県高崎(現在の群馬県高崎市)で、種子業を営む父・山田勘次郎と母・よかの長女・郁子として生まれる。両親はともに正教会の信者であり、自身も早くから信者となった。1882年に主教のニコライ・カサートキンが高崎教会に来た際にはよかに連れられて他の信徒とともに前橋市まで出迎えに行き、大きくなったら駿河台の正教女子神学校に入学するよう勧められたという。1883年によかが結核のため亡くなったが、キリスト教徒である事を理由に先祖代々の墓所への埋葬を拒否されている。
大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月… 大倉 和親(おおくら かずちか、1875年(明治8年)12月11日 - 1955年(昭和30年)7月1日)は、明治期の実業家。日本陶器(現・ノリタケ)初代社長。東洋陶器(現・TOTO)社長、日本碍子社長、伊奈製陶(後のINAX、現・LIXIL)社長、大倉陶園主のほか、森村組取締役などを務めた。 大倉孫兵衛の長男として東京日本橋に生まれ、1921年に家督を相続する。慶應義塾幼稚舎から進んで、1894年(明治27年)慶應義塾正則本科を卒業し、森村組入社。明治28年渡米しイーストマン商業学校で学んだ後、森村組ニューヨーク店森村ブラザースに入る。欧米滞在9年を経て帰国し、明治37年日本陶器合名会社設立し、代表社員に就任。
結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10… 結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10日 - 1957年(昭和32年)3月24日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家。日本芸術院会員。 東京本所荒井町に、「池田屋」という酒屋を営んでいた森田周助の次男として生まれる。本名の貞松は勝海舟の命名といい、奇しくも後に素明は、「江戸開城談判」(聖徳記念絵画館蔵)において海舟の姿を描いている。10歳の頃、親類の結城彦太郎の養嗣子となる。明治24年(1891年)7月岡倉覚三(天心)の紹介で、川端玉章の画塾天真堂(天真社)に入門する。玉章に学びながら明治25年(1892年)東京美術学校日本画科に入学。常に墨斗と手帖を携帯し、目にとまったものは何でも写生したという。
新井 亀太郎(あらい かめたろう、1875年〈明治8年〉12… 新井 亀太郎(あらい かめたろう、1875年〈明治8年〉12月8日 - 1932年〈昭和7年〉11月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県出身。新井沢次郎の四男として生まれる。群馬県境野小学校、同山田第一高等小学校、錦城商業学校を経て、1896年(明治29年)11月陸軍士官学校(8期)を卒業。翌年6月、陸軍歩兵少尉に任官される。歩兵第16、9、35の各連隊付を経て、1903年(明治36年)陸軍大学校に入学。 日露戦争の勃発に伴い修学を中退、原隊復帰、第一回旅順攻撃(歩兵第35連隊第12中隊長)、第二回攻撃(歩兵第6旅団副官代理)、第三回攻撃及び奉天の会戦(同副官)に参加。 1907年陸軍大学校(第19期)を卒業。
野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12… 野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年〈明治8年〉12月8日 - 1947年〈昭和22年〉7月13日)は、明治・大正・昭和前期の英詩人、小説家、評論家、俳句研究者。海外の文芸思潮の紹介に携わり、また海外に日本文化を紹介した。イサム・ノグチの父親。内田魯庵からノーベル文学賞の受賞を待望された。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)生まれ。雑貨店を営む父・傳兵衛、母・久己(くわ)の四男として生まれた。10歳で英語を学び始める。 1888年(明治21年)生家を離れ名古屋で英学を学び、ユニオン第四読本、スマイルズ著『自助論』を学ぶ。1889年(明治22年)愛知県尋常中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に入学し、ザ・セカンド・ナショナル読本を学ぶも、1890年(明治23年)2月退学し、四日市から海路で上京、伯父である鵜飼大俊和尚旧居である芝・増上寺の通元院に寄寓し、のち現在の銀座に当たる京橋にあった長兄野口秀之助の知人である磯長宅に寄寓。
朽木 綱貞(くつき つなさだ、1875年(明治8年)12月2… 朽木 綱貞(くつき つなさだ、1875年(明治8年)12月2日 - 1929年(昭和4年)9月6日)は、明治から大正時代の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。貴族院議員、子爵、工学博士。福知山藩13代(最後)の藩主朽木為綱の子。妻は徳川篤守の娘芳子。陸軍の火薬研究の権威であった。 1883年(明治16年)に父の為綱が没したため家督を継ぎ、1884年(明治17年)7月8日、子爵を襲爵する。慶應義塾幼稚舎を経て、1896年(明治29年)5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業。1897年(明治30年)1月、砲兵少尉任官。陸軍砲工学校高等科で学び、さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学応用化学科を1904年(明治37年)6月に卒業。
松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、18… 松永 安左エ門(松永 安左衞門、まつなが やすざえもん、1875年(明治8年)12月1日 - 1971年(昭和46年)6月16日)は、「電力王」「電力の鬼」と言われた日本の財界人。政治家(帝国議会衆議院議員1期)。美術コレクター、茶人としても知られ、耳庵(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人。氏名は「松永安左ヱ門」と表記されることもある。
和田 義為(わだ よしため、1875年12月 - 没年不明)… 和田 義為(わだ よしため、1875年12月 - 没年不明)は、日本の実業家。共同酒造株式会社社長、大倉恒吉商店(現・月桂冠)株式会社取締役。族籍は兵庫県士族。 京都府士族、和田重為の長男として、1875年(明治8年)12月に生まれる。尚、尊皇派志士・正五位の和田義亮は祖父である。 1895年(明治28年)に家督を相続し、1897年(明治30年)、関西法律学校(現・関西大学)法科を卒業する。卒業後は大倉恒吉商店に勤務。その後、共同酒造株式会社社長、大倉恒吉商店(現・月桂冠)株式会社取締役を歴任した。
長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年(明治8年)… 長谷川 如是閑(はせがわ にょぜかん、1875年(明治8年)11月30日 - 1969年(昭和44年)11月11日)は、日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、小説家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東京府深川区深川扇町(現在の東京都江東区木場)で、山本金蔵(幼名・徳治郎)・たけの次男として生まれる。山本家は江戸城築城に携わった棟梁の家系で、代々幕府から俸禄を受けていたが、金蔵の代からは材木商を営んでいた。
西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 … 西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 - 1950年(昭和25年)8月3日)は、日本の大蔵官僚、政治家、銀行家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官。大蔵省の至宝といわれた人物で、八八艦隊計画成立後に、海軍首脳に対しその実施不可能であることを踏まえワシントン会議に臨むよう訴えた。 茨城県出身。西野元聿の長男として生まれる。水戸中学校、第一高等学校を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。同年11月、文官高等試験行政科試験に首席合格。同年12月、臨時秩禄処分調査局属兼大蔵属に任官。一時期、上京してきた同郷の荒川敬を寄寓させていた。
12代 三木 与吉郎(みき よきちろう、1875年(明治8年… 12代 三木 与吉郎(みき よきちろう、1875年(明治8年)11月27日 - 1938年(昭和13年)6月23日)は、日本の政治家、実業家、漢詩人。衆議院議員、貴族院議員。徳島県松茂町出身。旧名は康治。号は天遊舎愛松。 先代・三木与吉郎順治の長男として板野郡松茂町中来喜で生まれる。後に与吉郎の名を襲名し、藍商・酒造業を営む三木家の12代目となる。後に、藍商を改組して、三木商店を創業し、初代社長に就任。また、阿波製紙も創業し、初代社長を兼ねた。若年、詩を前塚芳南、中村三蕉らに学び、詩・俳句を能くした。その後、二松學舎で学んだ。さらに、衆議院議員、貴族院議員を務める傍ら京都商業学校夜間部にも通い、同校を卒業した。
石田 昇(いしだ のぼる、1875年(明治8年)11月25日… 石田 昇(いしだ のぼる、1875年(明治8年)11月25日 - 1940年(昭和15年)5月31日)は、日本の医学者、精神科医。呉秀三門下生のひとり。 代々仙台藩の藩医を務めた家に生まれる。第二高等中学校在学中から短歌や小説に熱中。第五高等学校 (旧制)を経て、1899年に東京帝国大学医科大学に入学、1903年に卒業後、巣鴨病院(後の松沢病院)内にあった東京帝国大学精神病学教室の助手となり、29歳で『新撰精神病学』を執筆。これが呉秀三に認められ、1907年(明治40年)に31歳で長崎医学専門学校(後の長崎大学医学部)精神病学科の初代教授に就任。教授在任中には『新撰催眠療法』『健全なる精神』を執筆するなど、日本の精神医学の草創期に第一人者として活躍した。
阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年〈明治8年〉11月24… 阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年〈明治8年〉11月24日 - 1953年〈昭和28年〉9月7日)は、日本の陸軍軍人、政治家。 陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期(恩賜)、陸軍大将。位階は正二位。勲等は勲一等。 予備役編入後、内閣総理大臣(第36代)、外務大臣(第59代)、翼賛政治会総裁(初代)、貴族院議員、朝鮮総督(第9代)を歴任した。 石川県金沢生まれ。父は旧金沢藩士・阿部信満。東京府尋常中学校を経て、第四高等学校に進むも中退し、陸軍士官学校に進んで陸軍砲兵将校となる。陸軍少将として参謀本部総務部長、陸軍省軍務局長の要職を務め、陸軍中将として陸軍次官、第4師団長、台湾軍司令官を歴任して陸軍大将に親任された。
磯部 尚(いそべ ひさし、1875年(明治8年)11月23日… 磯部 尚(いそべ ひさし、1875年(明治8年)11月23日 - 1935年(昭和10年)11月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。磯部四郎の娘婿。 福井県福井市で士族の日比登の二男として生まれる。1887年、私立長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)卒。京都帝国大学教授で工学博士の日比忠彦は実兄。第一高等学校を経て、1898年に東京帝国大学法科大学を卒業。卒業後、直ちに弁護士を開業した。弁護士・貴族院議員の磯部四郎の長女艶子と結婚し、姓を改めた。 本所区会議員、東京市会議員を経て、1917年の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。その間、田中義一内閣で司法参与官を務めた。
加藤 清治(かとう せいじ、1875年11月17日 - 19… 加藤 清治(かとう せいじ、1875年11月17日 - 1957年5月28日)は、日本の歯学者。日本歯科医師会会長を務めた。 長野県上伊那郡宮田村出身。明治43年(1901年)日本歯科医学校卒業。大正4年(1915年)ノースウェスタン大学歯学部卒業。日本歯科医学専門学校口腔外科教授。同5年(1916年)同付属病院院長、同10年(1921年)宮内省侍医療御用掛、昭和11年(1936年)同専門学校長に就任した。同21年(1946年)日本歯科医師会会長、同22年(1947年)6月同専門学校の大学昇格に伴い学長事務取扱となったが、同年12月辞任した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
町野 武馬(まちの たけま、1875年(明治8年)11月16… 町野 武馬(まちの たけま、1875年(明治8年)11月16日 - 1968年(昭和43年)1月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。張作霖の顧問を務め、最終階級は陸軍大佐。衆議院議員。戦後再建された大日本武徳会会長。
宇野 哲人(うの てつと、明治8年(1875年)11月15日… 宇野 哲人(うの てつと、明治8年(1875年)11月15日 - 昭和49年(1974年)2月19日)は、日本の儒学者。近代的な中国哲学研究の開拓者の一人。東京大学名誉教授。 1875年、熊本県熊本市出身。熊本藩士・宇野丈九郎の四男。済々黌、東京帝国大学漢学科卒業。卒業時には成績優秀者として恩賜の銀時計を明治天皇から賜る。 1907年(明治40年)前後、東京帝大助教授として、清朝末期の中国大陸に留学。同世代の東洋史学者桑原隲蔵と共に旅行している。次いで帝政期のドイツ留学、知見を得た西洋哲学の手法で中国哲学を読み解き講義著述した。東京帝国大学文学部支那哲学講座教授を務めた。この頃、渋沢栄一に頼まれて孫の渋沢敬三の家庭教師として月に1回『論語』の講義をした。
松井 信助(まつい しんすけ、旧姓・大山、1875年〈明治8… 松井 信助(まつい しんすけ、旧姓・大山、1875年〈明治8年〉11月15日 - 1949年〈昭和24年〉6月5日)は、明治から昭和時代前期の統監府警視、朝鮮総督府尹、大邱府尹、平壌府尹、政治家。山口県下関市長。下関商工会議所顧問。 山口県阿武郡奈古村(現・阿武町奈古)出身。大山忠左衛門の三男、大山彦五郎の弟で、松井豊吉の養子となり後分家する。1903年(明治36年)6月、山口県警部。1906年(明治39年)8月、朝鮮釜山理事庁警部。 1909年(明治42年)、朝鮮統監府警視。朝鮮木浦警察署長、北部警察署長、京城鐘路警察署長などを務める。1918年(大正7年)8月、朝鮮総督府尹、大邱府尹。 ついで、1924年(大正13年)12月に平壌府尹。
神谷 弥平(彌平、かみや やへい、1875年(明治8年)11… 神谷 弥平(彌平、かみや やへい、1875年(明治8年)11月15日 - 1944年(昭和19年)6月17日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県北葛飾郡彦成村長。 埼玉県葛飾郡谷口村(のち北葛飾郡彦成村、現:三郷市谷口)で、神谷長吉の長男として生まれる。農業を営む。 彦成村会議員、同村長、北葛飾郡会議員、同議長、埼玉県会議員などを務めた。1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で埼玉県第四区から憲政会所属で出馬して当選。第15回総選挙で再選され、衆議院議員を連続二期務めた。 その他、彦成信用組合長、埼玉県産業組合連合会理事、北葛飾郡農会副会長などを務め、宮内省主猟局から鳥類保護事務を嘱託された。
梅村 大(うめむら だい、1875年(明治8年)11月14日… 梅村 大(うめむら だい、1875年(明治8年)11月14日 - 1951年(昭和26年)1月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 秋田県秋田郡扇田村(北秋田郡扇田村、扇田町、比内町を経て現大館市比内町扇田)出身。 1901年(明治34年)東京法学院(現在の中央大学)を卒業。青森市で弁護士を開業し、青森弁護士会長に選ばれた。青森市会議員、青森県会議員、同参事会員に選出された。 1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙に青森県第1区から出馬し、当選を果たした。
金成 マツ(かんなり まつ、1875年〈明治8年〉11月10… 金成 マツ(かんなり まつ、1875年〈明治8年〉11月10日 - 1961年〈昭和36年〉4月6日)は、アイヌの口承文芸・ユカㇻの伝承者、キリスト教伝道師。アイヌ名はイメカヌ/Imekanu、戸籍名は金成 广知、洗礼名はマリア。 北海道幌別郡幌別村(現:登別市本町)出身のアイヌ女性で、母はアイヌの口承文芸の名手と称された金成モナㇱノウㇰ、姪で養女に『アイヌ神謡集』を編訳した知里幸恵、甥にアイヌ語研究者の知里真志保。母から受け継いだアイヌ文学を大学ノート約2万ページに記録し、アイヌ文学研究者のインフォーマントとなった。1956年に無形文化財の技術保持者に認定され、紫綬褒章を受章。 1875年11月10日、父・ハエリレと母・モナㇱノウㇰの長女として誕生。
福田 彦助(ふくだ ひこすけ、1875年11月5日 - 19… 福田 彦助(ふくだ ひこすけ、1875年11月5日 - 1959年7月30日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
金城 紀光(かなぐすく / きんじょう きこう、1875年(… 金城 紀光(かなぐすく / きんじょう きこう、1875年(明治8年)11月4日 - 1967年(昭和42年)8月10日)は、沖縄県出身の医師、政治家。衆議院議員、那覇市長。
下田 勘次(しもだ かんじ、1875年(明治8年)11月4日… 下田 勘次(しもだ かんじ、1875年(明治8年)11月4日 - 1939年(昭和14年)7月3日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。大正鳥取銀行監査役。鳥取新報社長。鳥取県平民。 元鳥取大学長下田光造、元参議院議員田中信義の兄。 鳥取県八頭郡佐貫村和奈見(現鳥取市河原町)出身。下田弥平の長男。 鳥取一中(現鳥取西高)に学び、また漢籍を林良造に学んだ。 1904年(明治37年)村会議員、1907年(明治40年)に八頭郡会議員、1911年(明治44年)鳥取県会議員となり、引き続き1920年(大正9年)まで3期当選した。この間佐貫村長も務めた。 1920年(大正9年)5月、原内閣のときの第14回衆議院議員総選挙では、憲政会に推されて鳥取県第2区から立候補して当選し、1期在任した。
寒川 鼠骨(さむかわ そこつ、1875年(明治8年)11月3… 寒川 鼠骨(さむかわ そこつ、1875年(明治8年)11月3日 - 1954年(昭和29年)8月18日)は、正岡子規門下の俳人。病床の子規に侍り、遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽くした。 元伊予松山藩士寒川朝陽(ともあき)と八重(旧姓水野)との三男として、現・松山市三番町に生まれた。本名陽光(あきみつ)。号の鼠骨は粗忽に通じるという。1888年、番町小学校から県立松山中学校に入った。1893年(明治26年)(18歳)、三高の前身京都第三高等中学校へ進み、河東碧梧桐・高浜虚子と同じ下宿に住んだ。碧梧桐が二つ、虚子が一つ年上である。3人して郷土松山の先輩正岡子規を敬い慕い、日本新聞の俳句欄へ投稿し、選者の子規の選を受けた。
高橋 隆一(たかはし りゅういち、1875年(明治8年)10… 高橋 隆一(たかはし りゅういち、1875年(明治8年)10月31日 - 1943年(昭和18年)2月7日)は日本の大地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 島根県神門郡稗原村(簸川郡稗原村を経て現出雲市)で大地主・高橋守衛の長男として生まれる。松江修道館を修了した。1906年(明治39年)3月に家督を相続した。 1904年(明治37年)稗原三等郵便局を開設して同局長に就任。稗原村会議員、同村区会議員、同村農会長、同村学務委員、島根県地方森林会議員、簸川郡教育会長などを務めた。 実業界では、1906年、簸川銀行取締役に就任。その他、簸上鉄道取締役、出雲電気取締役社長、島根県農工銀行頭取などを務めた。
北 豊吉(きた とよきち、1875年(明治8年)10月30日… 北 豊吉(きた とよきち、1875年(明治8年)10月30日 - 1940年(昭和15年)8月31日)は、日本の衛生学者。医学博士。 石川県石川郡旭村(現在の白山市)出身。1897年(明治30年)、第四高等学校医学部を卒業し、一年志願兵として入隊。1898年(明治31年)、東京帝国大学医科大学衛生学選科に入学した。1900年(明治33年)、陸軍三等軍医となり、翌年に東京帝国大学医科大学助手となった。1902年(明治35年)、ドイツに留学し、ライプツィヒ大学で衛生学・細菌学を学んだ。1904年(明治37年)に帰国後、日露戦争に召集され、陸軍二等軍医に昇進した。1906年(明治39年)、大阪市技師となり衛生試験所長に就任した。
肥後 八次(ひご はちじ、1875年10月24日 - 195… 肥後 八次(ひご はちじ、1875年10月24日 - 1955年6月5日)は、日本の逓信官僚、実業家。逓信省初代電気課長、初代電気局監理課長、第3代電気局長を歴任して電気行政に貢献し、退官後は住友合資(住友本社)理事や住友の関連会社の各役員を務めた。 鹿児島県鹿児島市下竜尾町生まれ。鹿児島県士族肥後宗右衛門の二男。1895年7月、鹿児島高等中学造士館予科を卒業。1897年7月、第五高等学校大学予科第一部を卒業。1900年7月、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、内務省入省。同年の文官高等試験に合格。1902年3月、静岡県参事官に任じられる。1903年2月、分家。1903年11月、逓信省参事官兼逓信書記官に転じる。
津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 - 194… 津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 - 1946年2月17日)は日本を代表する鋳金工芸作家。東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授、芸術院会員。
上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月… 上島 鳳山(うえしま ほうざん、明治8年(1875年)10月23日 - 大正9年(1920年)7月25日)は、日本の明治から大正にかけて活動した日本画家。同時代の北野恒富や菅楯彦、岡本大更らと共に、近代の大阪を代表する画家の一人である。 岡山県小田郡笠岡村字八軒屋(現在の笠岡市笠岡)に、辻嘉平の次男として生まれる。本名は寿治郎で、鳳山は画号で、画房を鳳鳴画室と称した。父嘉平は、初め刀鍛冶、後に理化学機械製造を仕事としていた。祖父・辻鳳山は円山派の絵師で、小寺清先編『備中名勝考』の挿絵を描いており、鳳山の号もこの祖父に由来していると考えられる。幼少から画家を志し、はじめ大阪出身で円山応立の弟子・木村貫山に学び、ついで西山完瑛・渡辺祥益に師事する。
田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月2… 田部 隆次(たなべ りゅうじ、1875年(明治8年)10月20日 - 1957年(昭和32年)12月20日)は、日本の英文学者。 富山県の南日家に生まれ、生後まもなく田部家の養子となる。兄に英語教育者の南日恒太郎、弟に別の田部家へ養子に入った英文学者の田部重治がいる。村松剛・村松英子の母方の祖父。村松えりの曾祖父。 富山中学校、早稲田大学専門部を経て、東京帝国大学英文科でラフカディオ・ハーンに学び、後年ハーンの研究を行った。女子学習院教授を務め、第一書房の『小泉八雲全集』を大谷正信らと共訳した。 1921年学習院大学教授をしていた時に、近所付合いをしていた小泉一雄(ラフカディオ・ハーンと妻セツの長男)に見送られて横浜から一年間の留学に発った。
富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1… 富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1930年4月30日)は駒込基督会牧師。 八木重吉に洗礼を授けたことでも知られる。 主著『基督の新精神』。黎明会の会員でもあった。 1875年(明治8年)大分県南海部郡佐伯町(現佐伯市)に生まれる。佐伯小学校を経て、藩校の鶴谷学館で学ぶ。1891年に佐伯教会で洗礼を受ける。鶴谷学館に在学中に、教師として薫陶を受けた国木田独歩の影響を受けて、1894年(明治27年)国木田と共に上京する。 植村正久のもとで神学、聖書を学ぶ、1901年(明治34年)に按手礼を受けて、日本基督教会の牧師になる。1903年(明治36年)に金沢石浦教会(現・日本基督教団金沢教会)の牧師に就任する。
三井 徳宝(みつい とくほう、1875年〈明治8年〉10月1… 三井 徳宝(みつい とくほう、1875年〈明治8年〉10月16日 - 1952年〈昭和27年〉4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 山梨県北巨摩郡清春村で三井泉林の長男として生まれる。漢学を修める。1893年(明治26年)、帯広に移り銅鉄金物店を開業。その後、野付牛町の開拓に関わり、農業、鉱山業も手掛ける。北海林産取締役、北海農産工業取締役、北海道造営取締役、北海道拓殖監査役などを務めた。 政界では、帯広町会議員、相続税審査員、所得調査委員を歴任。また、河西支庁選出の北海道会議員を1904年(明治37年)から1916年(大正5年)まで連続4期務めた。その間1910年(明治43年)11月から1913年(大正2年)11月まで第7代同副議長を務めた。
大里 広次郎(おおさと ひろじろう、1875年(明治8年)1… 大里 広次郎(おおさと ひろじろう、1875年(明治8年)10月11日 – 1955年(昭和30年)2月28日)は、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。内科医。 福岡県穂波郡飯塚町(現在の飯塚市)に福間嘉七郎の四男として生まれ、大里文龍の養子となった。1898年(明治21年)に第五高等学校医学部を卒業し、東京帝国大学医科大学に学んだ。福岡県立病院医員、嘉穂郡郡医となり、大阪病院を開業した。さらに飯塚保健組合病院長を務め、嘉穂郡医師会長、福岡県医師会長、九州連合医師会長を歴任した。また教育者としても飯塚高等女学校長、嘉穂看護婦学校長、九州医学専門学校理事・評議員となった。その他、九州自動車株式会社取締役を務めた。
千秋 季隆(せんしゅう すえたか、1875年(明治8年)10… 千秋 季隆(せんしゅう すえたか、1875年(明治8年)10月10日 - 1941年(昭和16年)5月12日)は、日本の政治家・教育者。位階は従四位。爵位は男爵。貴族院男爵議員。 愛知県愛知郡熱田(現名古屋市熱田区)で熱田神宮大宮司・千秋季福の二男として生まれる。兄・季美の死去に伴い、1877年(明治10年)5月30日に家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した。 1900年(明治33年)東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。國學院講師、早稲田大学講師を経て、学習院教授となる。 その他、東京帝国大学附属図書館図書目録編纂嘱託、宗教制度調査会委員、神社制度調査会委員、神祇院参与、皇典講究所理事などを務めた。
根井 久吾(ねい きゅうご、1875年〈明治8年〉10月10… 根井 久吾(ねい きゅうご、1875年〈明治8年〉10月10日 - 1941年〈昭和16年〉6月5日)は、大正から昭和時代前期の政治家、教育者。宮崎県宮崎市長。 宮崎県宮崎郡清武村(現在の宮崎市)出身。伊東享の三男として生まれ、根井見益の養子となった。1902年(明治35年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。陸軍少尉、陸軍中尉に任じ、日露戦争に出征した。高知県立第四中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に勤務し、宮崎県立宮崎中学校(現・宮崎県立宮崎大宮高等学校)教諭、宮崎県立延岡中学校(現・宮崎県立延岡高等学校)校長兼教諭を経て、愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)校長となる。
近藤 達児(こんどう たつじ、1875年(明治8年)10月9… 近藤 達児(こんどう たつじ、1875年(明治8年)10月9日 - 1931年(昭和6年)9月22日)は、衆議院議員(立憲国民党→革新倶楽部→立憲政友会)、弁護士。 福島県安達郡二本松町(現二本松市)に旧二本松藩典医近藤玄貞の二男として生まれる。京華中学校、第四高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。在学中の1906年(明治39年)に大日本輸出羽二重株式会社を設立して常務取締役に就任し、また渋川起業株式会社取締役にも就いていた。しかし卒業した後は職を辞して、1910年(明治43年)に弁護士を開業し、また大学院で会社法を研究した。 日本橋区会議員、同議長、東京市会議員を経て、1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10… 荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 没年不明)は、日本の商人(呉服太物商)、政治家、実業家、荒木合名会社社員。合資会社荒木呉服店代表。境貿易監査役。境電気取締役。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)出身。荒木重造の実兄である。境製糸社員だったが1902年にその出資額全部を社員の荒木徳三郎へ譲渡し退社する。国産古着、白木綿、呉服、反物、綛糸卸商を営む。 荒木呉服店は土地に於ける第一流の商店であったが、家族に不幸が続き、営業に全力を注ぐことができなかったので、1914年10月にやむなく整理を発表した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8… 島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 1927年〈昭和2年〉7月4日)は、浄土真宗の僧侶。旧姓は姫宮、幼名は等。新潟県頸城郡三郷村(現・上越市)出身。4年間の上京を経て、1893年に西本願寺の文学寮(現龍谷大学)に入学した。1897年に大学林へ進学、1899年は大学林高等科へ進学。1902年に島地黙雷の養嗣子(法嗣)となり、黙雷亡き後は盛岡の願教寺住職となる。曹洞宗大学(現駒澤大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、東洋大学などで教え、1923年から東京帝国大学でインド哲学を教えた。数え53歳で死去。子の島地黙猊が跡を継ぎ、『天台教学史』など多くの遺稿が刊行された。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。
竹内 権兵衛(たけうち ごんべえ、1875年(明治8年)10… 竹内 権兵衛(たけうち ごんべえ、1875年(明治8年)10月7日 - 1945年(昭和20年)8月10日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は幸太郎。 茨城県久慈郡、のちの太田町(現常陸太田市)出身。先代権兵衛の長男として生まれ、1913年(大正2年)家督を相続と共に幼名を改める。 1914年(大正3年)以降、茨城県農工銀行監査役、日本製鋼取締役、日本赤十字社茨城支部商会議員などを歴任した。ほか、水浜電車社長、茨城土木工業、鹿島軌道、日立電気各取締役を務めた。 1918年(大正7年)9月29日には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、1921年(大正10年)5月17日に除名されるまで務めた。