スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
筒井 和也(つつい かずや、1981年10月5日 - )は、… 筒井 和也(つつい かずや、1981年10月5日 - )は、愛媛県伊予市出身の元プロ野球選手(投手)、阪神タイガースのスカウト。 愛媛県立松山北高等学校では2年夏からベンチ入りし、2年秋からはエースとなった。愛知学院大学では1年秋に明治神宮大会で登板、2年生の時に出場した大学選手権2回戦で対戦した久保裕也が投げる東海大に対し敗れたものの、大会記録となる8者連続奪三振を達成し敢闘賞に選ばれた。2年秋は最多勝で明治神宮大会では前年優勝の慶大に完封しベスト4。3年春はMVPも大学選手権は初戦敗退、秋は神宮大会初戦敗退。愛知大学野球リーグでは24連勝を記録し、6季連続優勝に貢献した。大学での通算成績は29勝4敗、防御率1.04、特別賞2回、最優秀防御率1回、ベストナイン3回。
大西 譲治(おおにし じょうじ、1949年2月20日 - )… 大西 譲治(おおにし じょうじ、1949年2月20日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 松山北高3年生の時、1966年のプロ野球第1次ドラフト会議で中日ドラゴンズから6位指名されたが、都合により取消となる。 高校卒業後、社会人野球の河合楽器に進むが、殆ど登板しなかった。 1967年にドラフト外で中日ドラゴンズに入団。 オープン戦では、スタルヒンに似た投手と騒がれ話題となり登板したが、球は速いが制球難なのが致命傷で、1970年に一軍公式戦に出場する事がないまま引退。 父親が米人。上手投げの本格派、直球とカーブ、フォークボールを武器とする。
森貞 周治(もりさだ しゅうじ、1949年 - )は、日本の… 森貞 周治(もりさだ しゅうじ、1949年 - )は、日本の元アマチュア野球選手(内野手)。 松山北高校では、1966年秋季四国大会県予選準々決勝に進むが帝京五高に敗退。法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは、同期のエース横山晴久らを擁し、1969年秋季リーグから4季連続優勝。1970年秋季リーグでベストナイン(遊撃手)に選出される。他の大学同期には古賀正明、中村裕二、依田優一らがいた。 卒業後は熊谷組に入社、都市対抗などの常連として活躍する。1975年の東京スポニチ大会では小林秀一らが好投、決勝で三協精機を降し優勝。この大会の優秀選手賞を獲得、同年の社会人ベストナイン(遊撃手)に選出される。
黒川 浩(くろかわ ひろし、1930年1月2日 - )は、愛… 黒川 浩(くろかわ ひろし、1930年1月2日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。1950年に広島カープ(現・広島東洋カープ)に在籍した。 愛媛県立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)から松山商科大学(現在の松山大学)ヘ進学した後、1950年に広島に入団した。同年は3試合に登板して0勝1敗、投球7回で打者42人と対戦し、13被安打2被本塁打8被四球3奪三振、失点12で自責点9、防御率は11.57だった。打撃成績は3打席3打数0安打、1三振。打率.000。同年限りで引退。
今岡 謙次郎(いまおか けんじろう、1918年2月13日 -… 今岡 謙次郎(いまおか けんじろう、1918年2月13日 - 生没不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手。 北予中学校から1936年に東京セネタースへ入団。1938年秋のシーズン終了後に応召された。
中村 信一(なかむら しんいち、1913年2月22日 - 没… 中村 信一(なかむら しんいち、1913年2月22日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(内野手)。 北予中学校(現松山北高)在学中に第8回選抜中等学校野球大会に出場、準々決勝に進出する。その後法政大学に進学し、1936年に東京セネタースへ入団。遊撃手として二塁手の苅田久徳、三塁手の高橋輝彦らとともに「百万ドルの内野陣」を形成した。1937年秋シーズン途中に応召し、1940年に復帰。1941年にチームが名古屋金鯱軍と合併し大洋軍と改称、金鯱軍で遊撃を守っていた濃人渉が大洋軍でもそのまま遊撃を守ったため三塁に転向する。終戦後の1946年はゴールドスターで復帰するが、翌1947年に退団、そのまま現役引退した。