スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
内野 哲朗(うちの てつろう、1948年 - )は、日本の元… 内野 哲朗(うちの てつろう、1948年 - )は、日本の元アマチュア野球選手、監督、政治家。ポジションは投手。元・小郡市議会議長。 明善高校で投手としてプレーしたが、1966年の夏の甲子園県予選の2回戦で敗退し、甲子園への出場を果たすことができなかった。 1966年のドラフト会議で中日から3位指名されたが交渉権放棄により早稲田大学に入学した。 大学卒業した後は、大昭和製紙でプレーした。 1984年から1999年までに16年間小郡高校の監督を務めた。 1994年に小郡市議選で初当選。2005年からは小郡市議会議長を務めながら母校である明善高校で指揮を執った。 2010年、小郡市市政功労者。2018年、旭日双光章受章。
小川 健太郎(おがわ けんたろう、1934年1月12日 - … 小川 健太郎(おがわ けんたろう、1934年1月12日 - 1995年10月8日)は、福岡県久留米市出身の元プロ野球選手(投手)。 現役時代は1964年から1970年まで中日ドラゴンズに所属し、1967年には29勝を挙げて最多勝利のタイトルを獲得、沢村賞を受賞するなど、アンダースローの好投手として活躍した。また1967年から1970年まで4年連続で開幕投手を務めたが、これは1996年時点で球団最長となる連続開幕投手記録だった。王貞治(読売ジャイアンツ)に対して腕を背中から繰り出す「背面投げ」を行った投手としても知られる。しかし1970年、球界を震撼させた八百長事件である「黒い霧事件」への関与が疑われ、オートレース八百長に関与したとして逮捕される。
大津 守(おおつ まもる、1931年3月5日 - 2007年… 大津 守(おおつ まもる、1931年3月5日 - 2007年10月2日)は、福岡県嘉穂郡桂川町出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 明善高校からノンプロ時代の西日本鉄道を経て、1950年にセ・パ両リーグ分立に際して球団結成したばかりの西鉄クリッパースへ入団。 3年目の1952年にリーグ最多となる46試合に登板して、チームでは野口正明の23勝に次ぐ18勝、リーグ3位の防御率2.73を挙げて主戦投手となる。1954年9月22日の南海戦では、大津は完投勝ちして南海の連勝記録を18で止める。同年のシーズンでは18勝、リーグ3位の防御率1.78を記録して、河村久文(25勝)、西村貞朗(22勝)と共に初優勝に貢献。
塚本 悦郎(つかもと えつろう、1924年11月30日 - … 塚本 悦郎(つかもと えつろう、1924年11月30日 - 2014年8月16日)は、福岡県出身のプロ野球選手(外野手)。 明善中を経て西南学院経済専門学校を卒業。戦前にプロ球団を保有し、日本野球連盟への復帰を目指す西日本鉄道に進む。1948年の都市対抗にチーム初出場。武末悉昌の好投もあって決勝に勝ち進み星野組と対戦、初参加で初優勝を果たす。武末以外のチームメートにも宮崎要、武末悉昌、上野義秋、深見安博、大崎憲司、伴勇資ら、のちにプロ球団の主力となる選手が揃っていた。 1950年に西日本鉄道が創立した西鉄クリッパースへ入団する。1952年には外野陣の一角として起用され、規定打席には届かなかったが打率.308を記録。
岩橋 利男(いわはし としお、1921年3月6日 - 没年不… 岩橋 利男(いわはし としお、1921年3月6日 - 没年不明)は、福岡県出身のプロ野球選手。 明善中学校から門司鉄道管理局に入社。門司鉄道管理局時代は三塁手として活躍するも、戦後の国鉄の人員整理に掛かり、退社を余儀なくされた。 1950年に、この年創設された国鉄スワローズの結成に参加。3月10日の開幕戦(かつスワローズの緒戦)・大洋戦(下関球場)では「3番・一塁手」として先発出場。チーム事情から4番を打つ機会も多かった。球団初のサヨナラ安打を含む、サヨナラヒットを2本打っている。1952年に引退した。