スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
野上 義博(のがみ よしひろ、1949年(昭和24年)12月… 野上 義博(のがみ よしひろ、1949年(昭和24年)12月25日 - )は、日本の実業家。ダイワボウホールディングス社長。元日本紡績協会会長。 福岡県出身。長崎県立長崎東高等学校を経て、1973年九州大学経済学部経済学科卒業、同年に大和紡績入社。以後営業畑を歩み、2002年同社第一事業本部生活資材部長。2006年ダイワボウ情報システムに入社し、取締役、常務取締役を経て、2009年代表取締役社長に就任。同社での経営手腕を買われ、2015年ダイワボウホールディングス社長に就任した。2017年日本紡績協会会長。
井川 学(いがわ まなぶ、1949年10月15日-)は、日本… 井川 学(いがわ まなぶ、1949年10月15日-)は、日本の工学者である。専門は分離膜化学。環境化学、分析化学の貢献者。 1949年長崎県生まれ 1973年東京大学工学部工業化学科、1975年東京大学大学院 工学系研究科 合成化学専攻修士課程1978年東京大学大学院 工学系研究科 工業化学専攻博士課程、海水淡水化研究の山邊武郎に師事。1978年 - 1984年神奈川大学 工学部 助手1986年 カリフォルニア工科大学 神奈川大学在外研究員1986年 神奈川大学 工学部 助教授1992年神奈川大学工学部教授
堀池 秀人(ほりいけ ひでと、1949年9月1日 - 201… 堀池 秀人(ほりいけ ひでと、1949年9月1日 - 2015年6月19日)は、日本の建築家、都市計画家。堀池秀人都市・建築研究所、堀池秀人アトリエを主宰。前衛的な建築を行うことで有名。 長崎県長崎市生まれ。長崎県立長崎東高等学校、東京理科大学工学部建築学科卒業。東京大学大学院博士課程(都市工学専攻)修了。 1996年、三枝成彰の紹介で知り合った、フリーアナウンサーの南美希子と結婚。同年に一児をもうける(このとき夫人は40歳を越えており高齢出産として話題となった)。子育て参加を積極的に行っていることをマスコミに報道され、理想の父親像としても知られていたが、2013年9月に離婚。直後に一般人と三度目の結婚。
吉川 榮治(よしかわ えいじ、1949年8月 - )は、日本… 吉川 榮治(よしかわ えいじ、1949年8月 - )は、日本の国文学者。古今和歌集などを研究。滋賀大学名誉教授。前放送大学滋賀学習センター所長・特任教授。元代々木ゼミナール古文科講師。長崎県五島列島福江島出身。
太田 誠一(おおた せいいち、1949年 - )は、日本の農… 太田 誠一(おおた せいいち、1949年 - )は、日本の農芸化学者。京都大学名誉教授。農学博士(名古屋大学、1977年)。長崎県出身。 1949年、長崎県長崎市生まれ。1977年に名古屋大学大学院農学研究科博士課程満了後、農林水産省に入省、林業試験場研究官、森林総合研究所北海道支所土壌研究室長、立地評価研究室長、森林環境部立地環境科長、同立地環境領域長などを歴任。2002年京都大学大学院農学研究科教授に就任。世界各地の森林土壌に関する研究に取り組み、2001年には日本森林学会賞、2012年にはSoil Science and Plant Nutrition Award (SSPN Award) 他を受賞した。
江頭 敏明(えがしら としあき、1948年〈昭和23年〉11… 江頭 敏明(えがしら としあき、1948年〈昭和23年〉11月30日 - )は、日本の実業家。元三井住友海上火災保険会長・社長、MS&ADインシュアランスグループホールディングス代表取締役。長崎県長崎市出身。 1948年長崎県長崎市に生まれ、サラリーマン家庭で育つ。長崎県立長崎東高等学校に入学するが、父親の転勤のため北九州市へ引っ越し、福岡県立門司高等学校(現・福岡県立門司学園高等学校)に転入し卒業。慶應義塾大学法学部を経て、大正海上火災保険(現・三井住友海上火災保険)に入社した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
樫沢 利博(かしざわ としひろ、1948年9月5日 - )は… 樫沢 利博(かしざわ としひろ、1948年9月5日 - )は、日本の銀行家、実業家。元三菱東京UFJ銀行常務取締役、兼松会長。長崎県出身。 1948年、長崎県長崎市生まれ。長崎市立長崎中学校、長崎県立長崎東高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。新聞記者志望であったが、1972年東京銀行(現:三菱UFJ銀行)に入行した。入行後、ニューヨークやロンドンなど海外で勤務。後に本店勤務となり、1996年の三菱銀行との統合時には東京銀行側の事務局長を務めた。2001年執行役員、2003年常務執行役員を経て、同年常務取締役に就任。常務時代は不良債権処理等に取り組んだ。三菱UFJ証券監査役などを経て、2010年兼松専務、2011年会長。
ヤマサキ ユズル(1948年7月30日 - )は長崎市出身の… ヤマサキ ユズル(1948年7月30日 - )は長崎市出身の画家。長崎市館内町にある「月の美術館」館長。シンガーソングライターでもあり、8月9日前後に長崎市で開催されている長崎原爆平和祈念「詩の夕べ」に毎年参加し、反戦平和の意思を自作の曲で表現している。
安富 正文(やすとみ まさふみ、1948年2月24日 - )… 安富 正文(やすとみ まさふみ、1948年2月24日 - )は、日本の国土交通官僚。元国土交通事務次官。長崎県長崎市出身。 1948年、長崎県長崎市生まれ。長崎県立長崎東高等学校を経て、1970年に東京大学法学部第1類(私法コース)卒業後、運輸省に入省。 内閣官房内閣参事官、運輸省航空局次長などを経て、1999年に鉄道局長就任。フリーゲージトレインの実用化に向けた実験を進める方針を示し、新下関駅構内に試験場を設置した。2001年からは国土交通省海事局長を務め、小笠原航路へのテクノスーパーライナー導入計画を進めたが、東京都との協議が難航し、実現しなかった。その後、2002年国土交通省大臣官房長、2004年国土交通審議官を経て、2006年に国土交通事務次官就任。
泉田 洋一(いずみだ よういち、1948年 - )は、日本の… 泉田 洋一(いずみだ よういち、1948年 - )は、日本の農業経済学者。農学博士(東京大学・論文博士・1985年)。東京大学名誉教授、東京農業大学国際食料情報学部教授。日本農業経済学会会長も務めた 。 長崎県出身。長崎県立長崎東高等学校を卒業後、1968年に東京大学理科二類入学、1973年同大学農学部卒業。1975年同大学農学系研究科修士課程修了、1978年同博士課程単位取得満期退学。その後日本学術振興会研究員、宇都宮大学助手・講師・助教授を経て、1996年10月、東京大学大学院農学生命科学研究科教授に就任した。同大学農学部農業経済学科長などを歴任し、2013年に定年退官、名誉教授。
平島 真一(ひらしま しんいち、1947年7月31日‐)は、… 平島 真一(ひらしま しんいち、1947年7月31日‐)は、日本の経済学者。元専修大学教授。専門分野は国際金融論、外国為替論、国際経済論。 学生時代である1960年代末には国際通貨問題が最大の興味となっていたため、神戸大学則武保夫教授に師事。経済学部卒業後、東京銀行(「外国為替銀行法」に基づく外国為替専門銀行)に入行、調査部を中心に経済学者として勤務。1996年専修大学教授に転職。2008年退職。
山下 巌(やました いわお、1947年3月31日 - )は、… 山下 巌(やました いわお、1947年3月31日 - )は、日本の実業家。元ラオックス社長。中国の家電チェーン蘇寧電器への傘下入りを決め、業績が悪化していたラオックスの再建を図ったことで知られる。 熊本県生まれ。長崎市立梅香崎中学校、長崎県立長崎東高等学校を経て、長崎大学経済学部卒業。1969年に松下電器産業へ入社するがわずか一年で退社。1970年にナカウラへ入社し宣伝部長、営業部長を歴任。1988年に取締役、1997年に常務取締役営業本部長に就任。1998年にナカウラがラオックスの傘下に入ったことを受けて、2000年ラオックス入社。広報部長、執行役員広報IR室長を経て、2007年同社代表取締役社長に就任した。
小口 彦太(こぐち ひこた、1947年1月8日 - )は、日… 小口 彦太(こぐち ひこた、1947年1月8日 - )は、日本の法学者。早稲田大学名誉教授、中国人民大学法学院名誉客座教授。法学博士(早稲田大学、2004年)。専門は中国刑事法、中国民法。2016年4月から2024年3月まで江戸川大学学長を務めた。 長崎県川棚町出身。長崎県立長崎東高等学校を経て、1969年に早稲田大学第一法学部を卒業後、1971年同大学大学院法学研究科修士課程修了、1974年同博士課程満期退学。 1969年に早稲田大学法学部副手となり、1971年助手、1974年専任講師、1976年助教授、1981年教授。1981年から1982年までハーバード・ロー・スクール東アジア法研究プログラム訪問研究員。
馬淵 明彦(まぶち あきひこ、1947年 - )は、日本の音… 馬淵 明彦(まぶち あきひこ、1947年 - )は、日本の音楽講師。元国立音楽大学講師。リトミックを専門としている。 1947年、石川県七尾市生まれ。高校卒業まで長崎県で過ごす。国立音楽大学に進み、在学中にリトミックと出会った。同大学教育音楽学科Ⅱ類(リトミック専攻)を卒業後、リトミックやピアノの指導に携わった。1978年、ジュネーヴのジャック=ダルクローズ学院に留学し、ダルクローズ国際ライセンスと同ディプロマを取得して1980年に卒業。帰国後は国立音楽大学講師として30年間後進の指導に取り組み、2012年に定年退官。この間、日本ジャック=ダルクローズ協会会長(1999年 - 2002年)や全日本リトミック音楽教育研究会常任理事などを務め、リトミックの普及に努めた。
亀川 清長(かめかわ きよなが、1946年9月29日 - )… 亀川 清長(かめかわ きよなが、1946年9月29日 - )は日本の元裁判官。東京地方裁判所判事、福岡地方裁判所部総括判事、那覇地方裁判所所長などを歴任し、2010年に依願退官した。九州大学卒。 2001年8月13日に小泉首相(当時)が靖国神社を参拝したことにより信教の自由等を侵害されたとして、九州などに在住の211名が損害賠償を求めていた裁判で、2004年4月13日の福岡地裁判決において原告の請求を棄却した。しかし、傍論で小泉首相の参拝が公的なものであると認定し、「参拝は違憲」とした。判決理由において、参拝の合憲性の議論が十分になされていない中で参拝が繰り返されていることを問題視。裁判所が参拝の違憲性に関して判断を避ければ今後も同様の行為が繰り返されるとし、「違憲性を判断することを自らの責務と考える」と述べた。
平井 杏子(ひらい きょうこ、1946年8月9日[要出典] … 平井 杏子(ひらい きょうこ、1946年8月9日[要出典] - )は、日本の英文学者、小説家。昭和女子大学名誉教授。本名は平井 法(のり)。英国の女性作家アイリス・マードックらの研究で知られ、日本アイリス・マードック学会会長を務めた。 長崎県長崎市生まれ。長崎県立長崎東高等学校を経て、1969年に昭和女子大学英文科卒業[要出典]。同大学近代文学研究所助教授を経て、教授となる。英文学の研究・評論を行う一方で、同人誌『文学空間』において作品の発表を続けた。1999年に「対岸の町」で第11回自由都市文学賞受賞。
伊達木 瀧之助(だてき たきのすけ、1946年7月20日 -… 伊達木 瀧之助(だてき たきのすけ、1946年7月20日 - )は、日本の労働官僚、統計学者。元総務庁統計局統計調査部長、長崎県立大学副学長。 長崎県長崎市出身。長崎県立長崎東高等学校を経て、京都大学理学部数学科卒業後、労働省に入省。後に総務庁に転じ、統計局統計調査部企画課長を経て、1998年統計調査部長。総務庁退官後、2000年に長崎県立大学教授となり、2001年に同大学経済学部経済学科長。2002年には平山祐次学長の指名を受けて副学長に就任した。同大学では統計データの分析を通じて社会経済動向を実証する研究に従事した。教育開発センター長などを歴任し、2012年に退官、名誉教授。2016年に瑞宝小綬章を受章。
池ノ上 克(いけのうえ つよむ、1946年(昭和21年)1月… 池ノ上 克(いけのうえ つよむ、1946年(昭和21年)1月21日 - )は日本の医師、医学者。専門は周産期医学。宮崎大学名誉教授で、2015年10月から同大学学長を務めた。 鹿児島県鹿児島市出身。1964年長崎県立長崎東高等学校卒業。1970年鹿児島大学医学部を卒業。1972年鹿児島市立病院に産婦人科医員として勤務。その後南カリフォルニア大学産婦人科とカリフォルニア大学アーバイン校産婦人科に留学する。1982年に医学博士号を取得(日本大学)。1990年に鹿児島市立病院産婦人科部長となる。1991年宮崎医科大学産婦人科教授。2003年宮崎医科大学の宮崎大学への統合に伴い宮崎大学医学部附属病院副病院長。
二ノ方 壽(にのかた ひさし、1946年 - )は、日本の原… 二ノ方 壽(にのかた ひさし、1946年 - )は、日本の原子力工学者。ミラノ工科大学エネルギー工学科教授、東京工業大学名誉教授。工学博士(東京大学、1977年)。専門は原子炉安全学。 長崎県立長崎東高等学校を経て、東京大学教養学部基礎科学科卒業後、マサチューセッツ工科大学教育助手などを経て1977年に東京大学大学院工学系研究科博士課程修了、「高速炉炉心局所事故時の冷却材挙動に関する研究」で工学博士号を取得した。 1977年に東京電力入社、主管研究員となる。 1980年に動力炉・核燃料開発事業団大洗工学センターへ出向。アメリカの国立研究機関であるアルゴンヌ国立研究所やロスアラモス国立研究所において客員研究員を務めるなど、原子炉研究に取り組んだ。
山下 英三郎(やました えいざぶろう、1946年 - )は、… 山下 英三郎(やました えいざぶろう、1946年 - )は、日本の社会福祉学者。日本社会事業大学名誉教授。 長崎県長崎市に生まれる。1969年、早稲田大学法学部卒業。1985年、ユタ大学ソーシャルワーク学部修士課程を修了。1986年、埼玉県所沢市において、スクールソーシャルワーカーとして活動を始める。1997年、日本社会事業大学に着任。1999年、モンゴルの児童支援とソーシャルワーク教育支援に携わる。2012年、日本社会事業大学名誉教授。2019年、モンゴル国立教育大学名誉教授。特定非営利活動法人日本スクールソーシャルワーク協会名誉会長、特定非営利活動法人コスモス村代表理事。
小出 寛治(こいで かんじ、1945年5月22日 - )は、… 小出 寛治(こいで かんじ、1945年5月22日 - )は、日本の実業家。NTTグループの要職を歴任した。 長崎県出身。1968年東京大学法学部卒業後、日本電信電話公社に入社。1997年日本電信電話取締役を経て、2002年西日本電信電話副社長、2003年NTTデータ副社長、2005年NTTリース(後にNTTファイナンス)社長に就任。2007年にイーバンク銀行との業務提携を行った。2009年、同社取締役相談役に退いた。2014年度電気通信協会賞受賞。
江頭 和彦(えがしら かずひこ、1945年2月23日 - )… 江頭 和彦(えがしら かずひこ、1945年2月23日 - )は、日本の農芸化学者。専門は土壌学。九州大学名誉教授。農学博士(九州大学・1974年)。ベトナム農業への貢献があったとして、2016年にベトナム農業農村開発大臣より友好勲章を受けた。九州大学においては大学院農学研究院長、農学部長などを歴任した。2023年、瑞宝中綬章受章。 福岡県柳川市出身。長崎県立長崎東高等学校を経て、1967年九州大学農学部農芸化学科卒業後、1969年同大学院農学研究科修士課程修了。1971年に同大学農学部農芸化学科土壌学講座助手となり、1975年助教授、1992年教授。2000年同大学院農学研究院教授、2003年大学院農学研究院長。
吉田 勝彦(よしだ かつひこ、1945年1月17日 - )は… 吉田 勝彦(よしだ かつひこ、1945年1月17日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手(投手)。 長崎県出身。長崎県立長崎東高等学校(同期にアナウンサーの小島一慶がいる)を経て、1963年に近鉄バファローズに入団。在籍5年間で2試合に登板した。1968年に広島東洋カープへ移籍したが一軍での登板はなく、同年引退。南海戦用の投手として期待され、オーバースローから、シュートを武器とした。
高田 征一(たかだ せいいち、1944年12月14日 - )… 高田 征一(たかだ せいいち、1944年12月14日 - )は、日本の実業家。ハウステンボスの開業に携わったことで知られる。2015年まで南島原市副市長を務めていた。長崎市出身。長崎県立長崎東高等学校を経て上智大学外国語学部中退。 大学中退後、オランダ製品の輸入に携わる長崎オランダ商会に入社。オランダ関係者との面識や語学力を生かして、長崎オランダ村の開園・経営に関わった。長崎オランダ商会常務取締役を経て、1992年のハウステンボス開業にも尽力。オランダの宮殿「パレス・ハウステンボス」の再現を行うべくオランダ本国との交渉を行い、ベアトリクス女王(当時)から許可を得るに至った。1999年までハウステンボス専務取締役企画本部長を務め、以後はハウステンボス商事会長などを歴任した。
宮脇 雅俊(みやわき まさとし、1944年10月9日 - )… 宮脇 雅俊(みやわき まさとし、1944年10月9日 - )は、日本の銀行家。十八親和銀行顧問。十八銀行の取締役会長、取締役兼代表執行役頭取を務めた。2016年11月から長崎商工会議所会頭を務めている。 長崎県南松浦郡玉之浦町(現:長崎県五島市)出身。長崎県立長崎東高等学校を経て、1968年に長崎大学経済学部卒業後、十八銀行に入行。専務取締役、副頭取などを経て、2007年に代表執行役頭取就任。生え抜きの頭取就任は51年ぶりのことであった。 2014年、取締役兼代表執行役頭取を森拓二郎に譲り、取締役会長に就任した。 2016年11月、長崎商工会議所会頭に選任された。 2020年に十八銀行の取締役会長を退任し、同行顧問(同年10月、十八親和銀行顧問に横滑り)に就任する。
小島 一慶(こじま いっけい、1944年〈昭和19年〉10月… 小島 一慶(こじま いっけい、1944年〈昭和19年〉10月2日 - 2020年〈令和2年〉4月23日)は、日本のフリーアナウンサー。元TBSアナウンサー、司会者。俳人(「玉藻」同人)。 本名の漢字表記は同じだが、名前の読みは「かずよし」である。長崎県長崎市出身。 母子家庭育ちで、本人曰く「貧しかった」。一家には、旅回りの役者だった祖父、博打打ちで「明烏のおはつ」と呼ばれていた祖母もいた。祖父が時折酒乱で暴れていたことから母は耐えられず別居して、子供のころの小島も身に危険を感じると母の元へ逃げ込んでいたということもあった。 幼稚園時代から演劇に熱中するようになり、また浪曲が好きで、子供の頃は浪曲師か役者になりたいと思っていた。
玉城 邦男(たまき くにお、1944年7月2日 - )は、日… 玉城 邦男(たまき くにお、1944年7月2日 - )は、日本の実業家。四国化成工業代表取締役社長兼CEO。 長崎県長崎市出身。長崎県立長崎東高等学校を経て、1969年東京大学法学部卒業後、三井物産に入社。大阪に配属され、四国化成工業を担当。三井物産では関西支社無機化学品部長まで務め、1999年に四国化成工業入社、顧問に就任した。同社では化学品を担当し、2001年取締役常務執行役員、2004年取締役専務執行役員。2005年から2009年まで常勤監査役を務め、同社退職。2016年4月に同社顧問として復帰し、同年6月24日代表取締役社長兼CEOに就任した。
牛丸 俊三(うしまる しゅんぞう、1944年5月5日 - )… 牛丸 俊三(うしまる しゅんぞう、1944年5月5日 - )は、日本の実業家。元パナソニック代表取締役副社長。垂直立ち上げと呼ばれるマーケティング手法を生み出し、中村邦夫社長(当時)のもとで国内営業改革に取り組んだ。 1944年、長崎県長崎市に生まれる。実家近くに勤めていた越中哲也(郷土史家)とは幼少期から交流があったという。長崎市立勝山小学校、長崎大学附属中学校、長崎県立長崎東高等学校を経て、1968年に長崎大学経済学部卒業。十八銀行会長の宮脇雅俊とは、長崎東高・長崎大経済学部時代ともに同期である。大学の1年後輩にローソン社長などを務めた藤原謙次がいた。 1968年に松下電器産業入社。研修を終え、翌年に海外事業本部に配属となった。
雨谷 昭弘(あめたに あきひろ、1944年2月14日 - 2… 雨谷 昭弘(あめたに あきひろ、1944年2月14日 - 2022年1月4日)は、日本の電気工学者。モントリオール理工科大学教授、同志社大学名誉教授。Ph.D.(マンチェスター大学、1973年)、D.Sc.(英語版) (マンチェスター大学・2010年)。電気学会副会長などを歴任した。長崎県出身。 1944年、長崎県長崎市生まれ。長崎県立長崎東高等学校卒業。1966年同志社大学工学部電気工学科卒業、1968年同大学大学院工学研究科電気工学専攻修了。1971年にイギリスへ渡り、1973年マンチェスター大学大学院パワーシステム工学専攻博士課程を修了し、Ph.D.取得。 1968年4月同志社大学助手、1971年4月専任講師。
嶌 洪(しま ひろし、1944年2月9日 - )は、日本の生… 嶌 洪(しま ひろし、1944年2月9日 - )は、日本の生物学者。九州大学名誉教授。農学博士(九州大学、1981年)。専門は系統分類学。 長崎県長崎市出身。長崎県立長崎東高等学校を経て、1966年に鹿児島大学農学部を卒業後、1968年九州大学大学院農学研究科修士課程修了、1970年同博士課程中退。同年に九州大学教養学部助手となり、1981年同助教授、1989年同教授を経て、1994年大学院比較社会文化研究科教授、1999年大学院比較社会文化研究科長。同大学において教職員組合委員長、書記長などを歴任する一方、学会活動にも精力的に取り組み、2005年、2006年には日本昆虫学会長を務めた。 その後、九州大学総合研究博物館長などを務め退官、九州大学名誉教授となる。
渡辺 千尋(わたなべ ちひろ、1944年 - 2009年8月… 渡辺 千尋(わたなべ ちひろ、1944年 - 2009年8月18日)は、日本の版画家、装丁家、著作家。東京都出身。 1944年東京都生まれ。高校卒業まで長崎市で育つ。1963年桑沢デザイン研究所に入学。その後グラフィックデザインや装丁に携わる。1978年にエングレービングと呼ばれる手法での銅版画制作を始め、1979年に日本版画協会展に初めて出品し日本版画協会奨励賞を受賞。以後、個展を通じて作品を発表し続けた。1989年には「象の風景」シリーズがプラハ国立美術館に収蔵された。同世代の版画家・門坂流とは交流があり、2人展や公開対談を行っている。 また、版画家としてだけはでなく文筆家としても活動した。
得永 祥男(とくなが よしお、 1943年頃- 2003年2… 得永 祥男(とくなが よしお、 1943年頃- 2003年2月1日)は、日本の高校野球指導者。佐世保工業高校・波佐見高校野球部を率いて春夏合わせて6回の甲子園出場を果たした。 長崎県西彼杵郡大瀬戸町(現:西海市)松島出身。長崎市立桜馬場中学校、長崎県立長崎東高等学校から日本体育大学に進み、1965年に同大学を卒業後、保健体育教諭として長崎県立佐世保工業高等学校に赴任した。併せて同校野球部監督に就任したが、当時は海星高校をはじめとした長崎市内の高校が県代表を独占していた。そこで得永は「打倒海星」をスローガンに掲げ、合理的な練習を取り入れたほか多数の県外試合を組んで強化に努めた。1966年西九州大会決勝、1968年長崎大会決勝と甲子園出場をかけた試合でいずれも海星に敗れたが、1974年の西九州大会決勝で海星を破り優勝、県北勢として初めて甲子園出場を決めた。
稲田 直治(いなだ なおじ、1942年7月14日 - )は、… 稲田 直治(いなだ なおじ、1942年7月14日 - )は、日本の実業家。元あおみ建設社長。長崎県出身。 1942年長崎県生まれ。1967年京都大学工学部土木工学科卒業後、同年国土総合開発入社。1977年国土総合建設に入社し、取締役九州支店長、常務取締役技術本部長などを経て、2002年6月同社代表取締役社長に就任した。2008年4月、国土総合建設と佐伯建設工業の合併によって誕生した佐伯国総建設(同年7月「あおみ建設」に社名変更)の社長に就任。佐伯建設工業の大谷昭義社長が会長に就いた。収益基盤の安定化を目的として組織再編や人員削減などを進めたが、景気の冷え込みを受けて業績が悪化し、2009年2月に会社更生法の適用を申請、同年3月に社長を辞任した。
池田 克忠(いけだ かつただ、1942年4月1日 - )は、… 池田 克忠(いけだ かつただ、1942年4月1日 - )は、日本の労働官僚。元東京労働基準局長。労働省退職後はものつくり大学の設立に携わった。佐賀県出身。 1942年、佐賀県生まれ。長崎県立長崎東高等学校を経て、1964年に東京大学経済学部経済学科卒業。1965年に国家公務員上級職試験合格、翌年労働省に入省。職業安定局雇用保険課長、兵庫労働基準局長、労働基準局安全衛生部長、東京労働基準局長などを歴任し、1995年に退職した。 労働省退職後、ものつくり大学設立準備財団事務局長を務め、同大学の設立に関わった。開校を翌年に控えた2000年に、設立財団の母体であるケーエスデー中小企業経営者福祉事業団(KSD)における汚職事件が発覚し、大学設置・学校法人審議会に設立条件としてKSDとの関係排除を提示される事態に見舞われたが、調整を重ね翌年の開学に漕ぎつけた。
水田 祥代(すいた さちよ、1942年3月16日 - )は、… 水田 祥代(すいた さちよ、1942年3月16日 - )は、日本の医師、医学者。九州大学名誉教授、学校法人福岡学園理事長。専門は小児外科。旧帝国大学系の医学部で初の女性外科教授となった。 大分県出身。6歳のとき九州大学病院に入院したが、その際の医師らによる親切な対応に感銘を受け、九州大学への進学と医師になることを志すようになった。長崎県立長崎東高等学校を経て、九州大学医学部に進学。同在学中に米軍病院でのインターンを経験し、そこでの体験をもとに外科志望となった。大学院在学中の1968年にはイギリスへ留学し、リバプール大学病院付属アルダーヘイ小児病院で臨床に従事した。帰国後の1974年に医学博士号を取得。
前田 三男(まえだ みつお、1942年1月5日 - )は、日… 前田 三男(まえだ みつお、1942年1月5日 - )は、日本の光学者、レーザー科学者。九州大学名誉教授。久留米工業高等専門学校名誉教授、元校長。工学博士(九州大学、1971年)。元日本工学アカデミー正会員。 長崎県長崎市出身。長崎県立長崎東高等学校を経て、1964年九州大学工学部電気工学科卒業後、1969年同大学大学院工学研究科電気工学専攻博士課程修了。 1969年に九州大学工学部講師となり、1971年助教授、1981年教授。同大学では先端科学共同研究センター長(1997年 - 2000年)、大学院システム情報科学研究院長(2001年 - 2005年)を務め、レーザー装置の開発やその応用に関する研究に取り組んだ。
古澤 忠彦(ふるさわ ただひこ、1941年〈昭和16年〉12… 古澤 忠彦(ふるさわ ただひこ、1941年〈昭和16年〉12月 - )は、日本の海上自衛官。最終階級は海将。舞鶴地方総監、統合幕僚会議事務局長、横須賀地方総監を歴任した。長崎県出身。 1941年(昭和16年)12月、長崎県佐世保市生まれ。長崎県立長崎東高等学校を経て1964年(昭和39年)3月、防衛大学校第8期卒業、海上自衛隊入隊。護衛艦「まきぐも」艦長、第34護衛隊司令、大湊地方総監部幕僚長、海上幕僚監部人事教育部長などを経て、1994年(平成6年)7月、舞鶴地方総監に就任。1996年(平成8年)3月には統合幕僚会議事務局長に就任し、日米防衛協力のための指針見直し問題に絡み、秋山昌廣(当時防衛局長)とともに中国を訪問して傅全有(中国人民解放軍総参謀長)らとの会談を行った。
福田 伸光(ふくだ のぶみつ、1941年11月22日 - )… 福田 伸光(ふくだ のぶみつ、1941年11月22日 - )は、日本のピアニスト。平成音楽大学音楽学部教授・元学部長、福岡教育大学名誉教授。日本演奏連盟会員。 1941年、長崎県生まれ。1960年、長崎県立長崎東高等学校卒業。1964年、長崎大学学芸学部卒業。田中希代子に師事し、ウィーン国立音楽大学に入学。同大学ではヴァルター・パンホーファー(Walter Panhoffer)に師事し、1968年卒業。オーストリアピアノ教授国家資格を取得した。1969年より福岡教育大学に勤務し、1969年助手、1972年講師、1976年助教授、1984年教授。後進の指導に取り組む一方で、自身もリサイタルやオーケストラとの共演など幅広く活動。
谷川 弥一(谷川 彌一、たにがわ やいち、1941年〈昭和1… 谷川 弥一(谷川 彌一、たにがわ やいち、1941年〈昭和16年〉8月12日 - )は、日本の実業家、政治家。 衆議院議員(7期)、文部科学副大臣(第2次安倍内閣)、長崎県議会議員(5期)、自由民主党長崎県支部連合会長、自由民主党総務副会長を歴任した。 長崎県南松浦郡岐宿町(現・五島市)出身。親元を離れ、五島から長崎市の長崎県立長崎東高等学校に進学し、下宿生活を送る。 1971年に株式会社谷川建設を設立。同社社長、会長を務めた。 1987年、長崎県議会議員選挙に立候補し、初当選する。以後、県議を5期17年にわたって務め、2003年に長崎県議会議長に就任。 2003年、第43回衆議院議員総選挙に、長崎3区から自由民主党公認で立候補。
森 光昭(もり みつあき)(1941年6月26日 - 201… 森 光昭(もり みつあき)(1941年6月26日 - 2017年2月16日)は、日本のドイツ文学者。熊本大学名誉教授・顧問、元副学長、理事。同大学における男女共同参画を推進し、他大学でも講演を行っている。正四位、瑞宝中綬章。 長崎県立長崎東高等学校を経て、1965年東京大学文学部独語独文学科卒業後、1967年同大学大学院文学研究科独語独文学専攻修了。1967年金沢大学法文学部助手、1968年同講師を経て、1970年に熊本大学へ異動、教養部講師となる。1972年同助教授、1980年同教授を経て、1997年法学部教授。 1992年に日本独文学会西日本支部長を務めるなど研究に取り組む傍ら、1998年10月から2000年4月まで熊本大学学生部長、2000年4月から同年11月まで初めて設置された副学長を務めた。
由佐 悠紀(ゆさ ゆうき、1941年 - )は日本の地球物理… 由佐 悠紀(ゆさ ゆうき、1941年 - )は日本の地球物理学者。京都大学名誉教授。温泉資源の保護と適正利用に業績があった。 長崎県出身。長崎県立長崎東高等学校卒業。1964年3月京都大学理学部地球物理学科卒業、1966年3月同大学大学院理学研究科修士課程修了。1966年5月京都大学助手、1979年10月助教授を経て、1987年10月に教授就任。大学院修了後は大分県別府市にある京都大学大学院理学研究科附属地球熱学研究施設で研究を行っていた。1970年から1982年にかけては南極ビクトリアランドの塩湖の調査・観測活動に参加した。2000年度・2001年度には日本温泉科学会長を務めた。理学博士(京都大学、1976年)。
川野 浩一(かわの こういち、1940年 - )は、日本の平… 川野 浩一(かわの こういち、1940年 - )は、日本の平和運動家。原水爆禁止日本国民会議議長。 1940年に朝鮮半島の平安北道(現在の北朝鮮)で生まれ、翌年父の徴兵を機に長崎市へ引き揚げた。1945年8月9日、爆心地から約3km離れた長崎市本紙屋町(現・麹屋町)の自宅付近で被爆。爆心地付近の浦上に住んでいた曽祖母を亡くした。1958年に長崎県立長崎東高等学校を卒業後、結核治療のため入院。当時は60年安保闘争が高まりを見せていた時期であり、病床で何もできない自分に劣等感を抱いたという。1961年に長崎県入庁後は組合活動に没頭し、長崎県職員労働組合青年部長・書記長のほか、長崎県労評センター議長・自治労長崎県本部委員長・連合長崎会長などを歴任した。
宮崎 政宣(みやざき まさのぶ、1940年 - 2026年5… 宮崎 政宣(みやざき まさのぶ、1940年 - 2026年5月5日)は、日本の地方公務員。元長崎県副知事。出納長、教育長、交通局長などを歴任し、副知事時代には県内の市町村合併を推進した。県庁退職後、公益財団法人長崎県すこやか長寿財団理事長等を務めた。 長崎県立長崎東高等学校を経て、1964年関西大学法学部卒業後、同年に長崎県入庁。観光課長、人事課長、1990年交通局長、1992年農林部長、1994年教育長を経て、1995年4月出納長。長崎県知事の金子原二郎に行政手腕を買われ、1999年4月副知事に就任。着任に際して各部課の横断的な協力に基づく総合行政の必要性を訴え、その調整に努めたいと所感を述べた。
田中 克佳(たなか かつよし、1939年10月27日 - 2… 田中 克佳(たなか かつよし、1939年10月27日 - 2011年2月18日)は、日本の教育学者、教育史学者。慶應義塾大学名誉教授、元田園調布学園大学教授。江戸っ子に関する研究で知られる。長崎県長崎市出身。 1939年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、同大学大学院社会学研究科教育学専攻博士課程修了。1968年慶應義塾大学文学部助手、1972年助教授を経て、1984年教授。同大学退職後は田園調布学園大学でも教鞭を執った。
光永 久之(みつなが ひさゆき、1939年8月13日 - )… 光永 久之(みつなが ひさゆき、1939年8月13日 - )は、日本の実業家。元三井木材工業社長、三井物産取締役。長崎県出身。 1939年長崎県生まれ。長崎県立長崎東高等学校、長崎大学経済学部を経て、1962年三井物産入社。同社では主に建設資材を担当し、米国における木材取引の拠点であったシアトルに長く駐在した。同社取締役を経て、1998年三井木材工業社長。親会社である三井物産からの社長就任は23年ぶりであった。就任時には、赤字分野の人材配置転換や製造の内製化、非住宅分野の強化を進めるとしていた。2000年、収益不振のサイディング事業について業界トップのニチハに支援を求める形で業務提携を行った。さらに2001年3月、住宅・木質建材・大型木構造の3部門について三井物産に譲渡する一方、窯業系サイディングと繊維板の2部門についてニチハの完全子会社となる方針を発表した。
清水 啓吾(しみず けいご、1939年7月2日 - )は、日… 清水 啓吾(しみず けいご、1939年7月2日 - )は、日本の元競泳選手。長崎県出身。慶應義塾大学卒業。1960年ローマオリンピック競泳では男子100m自由形準決勝敗退したが男子4×100mメドレーリレーで銅メダルを獲得した。 1962年のアジア競技大会競泳男子100m自由形で金メダルを獲得した。
古野 清之(ふるの きよゆき、1939年6月2日 - )は、… 古野 清之(ふるの きよゆき、1939年6月2日 - )は、日本の実業家。元古野電気会長、社長。長崎県出身。 1939年長崎県生まれ。10人兄弟の三男で、兄の古野清孝(長男)と古野清賢(次男)は古野電気の創業者である。長崎県立長崎東高等学校を経て、1962年に甲南大学経営学部経営学科を卒業後、古野電気に入社。1985年5月取締役、1989年5月常務、1990年3月国内本部長、1991年5月専務、1995年3月舶用機器事業部長、1996年5月代表取締役専務、1997年5月副社長を経て、1999年6月社長に就任した。 就任当時、同社の売上と経常利益はいずれも下降していた。そこで、長期的なビジョン(フルノビジョン)や、その実現に必要となる企業としての価値観(フルノバリューズ)の策定に取り組み、社内の意識改革に努め、同社の業績回復を実現させた。
畑地 正憲(はたち まさのり、1939年 - )は、日本の東… 畑地 正憲(はたち まさのり、1939年 - )は、日本の東洋史学者、教育者。山口大学名誉教授、萩国際大学・山口福祉文化大学元学長。文学博士(九州大学、2012年)。 1939年、長崎県長崎市出身。1957年に長崎県立長崎東高等学校卒業、1961年に長崎大学学芸学部を卒業後、長崎県公立学校の教諭となる。後に九州大学大学院へ進み、1970年同文学研究科史学・東洋史専攻修了、1972年同東洋史学専攻博士課程中途退学。1981年に山口大学人文学部教授となり、同大学共通教育センター長などを歴任し、2002年に定年退官。1999年から萩国際大学国際学科教授となり、2003年副学長を経て、2004年に学長就任。
清島 傳生(きよしま ただお、1938年11月15日 - 2… 清島 傳生(きよしま ただお、1938年11月15日 - 2004年10月3日)は、日本の警察官僚。元東北管区警察局長。山形県、熊本県、静岡県の警察本部長などを歴任した。長崎県長崎市出身。 1938年長崎県生まれ。1963年に中央大学法学部を卒業後、警察庁に入庁。 刑事局保安部保安課経済調査官を務めていた1982年頃から豊田商事による悪徳商法が社会問題化していたことを受けて、警察庁で対策会議を開くなど捜査に取り組んだ。詐欺容疑の可能性が早くから指摘されていたが確証は得られなかったといい、豊田商事への強制捜査は1985年まで実施されなかった。豊田商事事件被害者らによる国を相手取った訴訟では、行政による対応の遅れが被害拡大を招いたとして関係機関の担当者とともに批判を受けた。
今村 純二(いまむら じゅんじ、1938年4月15日 - 2… 今村 純二(いまむら じゅんじ、1938年4月15日 - 2021年8月12日)は、日本の実業家。元北海道日本ハムファイターズ会長・社長。球団の北海道移転と道民ファンの獲得に尽力した。 長崎県長崎市出身、3人兄弟の次男として生まれる。小学1年時に長崎市への原子爆弾投下により被爆、その後長崎県立長崎東高等学校を経て、同志社大学商学部を卒業後、大学のゼミ講師に「食の仕事はこれから伸びる、食肉関係は必ず伸びる」とアドバイスされたことをきっかけに食肉業者を志し、1961年に徳島ハム(現在の日本ハム)入社。同社では営業畑を歩み1967年に姫路営業所長、1971年神戸営業所長、1977年量販部長、1988年九州販売部長、営業本部参与を経て、1997年常勤監査役。