スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
浦田 俊輔(うらた しゅんすけ、2002年8月30日 - )… 浦田 俊輔(うらた しゅんすけ、2002年8月30日 - )は、長崎県西彼杵郡時津町出身のプロ野球選手(内野手)。右投左打。読売ジャイアンツ所属。 海星高等学校では2年夏の第101回全国高等学校野球選手権大会に遊撃手のレギュラーとして出場。3回戦で武岡龍世らを擁する八戸学院光星に敗れた。 高校卒業後は九州産業大学へ進学。遊撃手のレギュラーとして4季連続のリーグ優勝、2季連続の最優秀選手賞、5季連続のベストナインを受賞するなど活躍した。 2024年10月24日に開催されたドラフト会議にて、読売ジャイアンツから2位指名を受けた。11月18日、契約金7000万円、年俸1200万円で入団に合意した(金額は推定)。
髙山 凌(たかやま りょう、1997年5月20日 - )は、… 髙山 凌(たかやま りょう、1997年5月20日 - )は、福岡県田川郡大任町出身の元プロ野球選手(内野手)。 小学校6年生時にNPB12球団ジュニアトーナメントにホークスジュニア(投手)として出場し、4連投して胴上げ投手となった。ホークスジュニアが優勝したのはこの年だけであり、2023年時点で唯一の胴上げ投手となっている。 海星高等学校では遊撃手を務め、2年時に夏の甲子園に出場し、2安打を記録した。1学年上に吉田嵩がいた。 日本体育大学に進学し、2年時に明治神宮野球大会に出場し優勝した。同期は吉田大喜、柴田大地。 大学を卒業した後は2020年に社会人野球の熊本ゴールデンラークスに入団した。 2021年からは熊本ゴールデンラークスを母体として結成された九州アジアリーグの火の国サラマンダーズに所属する。
永江 恭平(ながえ きょうへい、1993年5月7日 - )は… 永江 恭平(ながえ きょうへい、1993年5月7日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。右投左打。 小学校1年生の時に野球を始め、中学生時代は「小郡リトルシニア」でプレーした(その時の監督は広島東洋カープなどに在籍、特に西武ライオンズの1980年代の黄金期に左のワンポイントリリーフとして名を馳せた永射保)。 海星高等学校では1年生の時に遊撃手のレギュラーになった。主将として迎えた3年生時の夏の長崎大会では投手としても3試合に登板した。第93回全国高等学校野球選手権大会では初戦で東洋大姫路高校と対戦。3番・遊撃手として先発出場し、エースの原樹理相手に4打数1安打だった。
江越 大賀(えごし たいが、1993年3月12日 - )は、… 江越 大賀(えごし たいが、1993年3月12日 - )は、長崎県南島原市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 南島原市立慈恩寺小学校2年からソフトボールを始める。5歳から中学1年までは空手もやっており、大会で優勝するなど身体能力の高さを見せていた[要出典]。南島原市立西有家中学校時代は同校の軟式野球部に所属。海星高校時代には春夏共に阪神甲子園球場での全国大会に出場できなかったこともあり、プロ志望届は提出せず駒澤大学の法学部法律学科に進学した。 駒澤大学時代には、1年春からリーグ戦に出場。3年時には、日米大学野球で日本代表入り。4年秋のリーグ戦では.357と高い打率を記録するとともに、チームの2001年秋季以来の26季振り優勝および、1994年以来の勝ち点5による完全優勝に貢献した。
松永 浩典(まつなが ひろのり、1984年2月24日 - )… 松永 浩典(まつなが ひろのり、1984年2月24日 - )は、長崎県長崎市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 長崎市立蚊焼小学校、長崎市立三和中学校を経て長崎海星高等学校に進学した。 2000年秋季九州大会でエースで4番を務め、投打にわたって活躍し4強入り、注目を浴びるようになる。翌2001年春の第73回選抜高等学校野球大会に出場し、初戦で仙台育英学園高等学校と対戦。試合は仙台育英の左腕エース・芳賀崇との投手戦となったが、延長10回の末に3-4でサヨナラ負けを喫した。なお、仙台育英はこの大会で準優勝している。夏は長崎大会3回戦で諫早高校に4-5のサヨナラ負けを喫し、春夏連続出場はならなかった。
堀 幸一(ほり こういち、1969年4月2日 - )は、長崎… 堀 幸一(ほり こういち、1969年4月2日 - )は、長崎県長崎市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。右投右打。現在は千葉ロッテマリーンズの二軍打撃コーチを務める。 海星高等学校では左翼手として1987年春の選抜に出場。1回戦で京都西高に敗退。夏の甲子園県予選でも準決勝に進むが長崎商に敗れる。同年のドラフト会議でロッテオリオンズに3位指名され入団。 入団直後のキャンプでは、佐藤幸彦や大村巌のバッティングに圧倒され自信を喪失した。長崎にいる堀の両親も、3年ともたないだろうと周囲に漏らしていた。 1989年開幕当初より一軍に定着し、4月14日の対近鉄バファローズ戦で谷崎浩二からプロ初安打を放つ。
大久保 勝也(おおくぼ かつや、1967年6月4日 - )は… 大久保 勝也(おおくぼ かつや、1967年6月4日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手(内野手)。 兄は九州産業大学野球部監督、大学野球日本代表監督の大久保哲也。 長崎・海星高から、1985年のプロ野球ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから投手として6位指名を受け入団。 入団直後に野手としてのセンスを買われて内野手に転向する。プロ2年目の1987年は、MLBのテキサス・レンジャーズ傘下(当時)のルーキー級ビュート・カッパーキングスに野球留学した。しかし、全体的に非力で、ファームでもレギュラーがとれず、一軍出場のないまま1990年のオフに戦力外通告を受け、現役を引退。 引退後は横浜球団に残り、チームのマネージャーに転進。
大久保 哲也(おおくぼ てつや、1962年9月1日 - )は… 大久保 哲也(おおくぼ てつや、1962年9月1日 - )は、長崎県諫早市出身の元アマチュア野球選手(捕手)、野球指導者。 弟に元プロ野球選手の大久保勝也がいる。 海星高等学校卒業後に九州産業大学に進学して硬式野球部に所属し、福岡六大学野球リーグでは、捕手として活躍し、ベストナインに2度選ばれ、1984年の秋季リーグでは最優秀選手賞を受賞した。 大学卒業後は、社会人野球の三菱重工長崎のチームに入団し、コーチを兼任した時期も含めて14年間プレーした。 2002年秋からは母校の九州産業大学の監督に就任。2005年の明治神宮野球大会ではチームを日本一に導いた。大学日本代表のコーチを経て、2019年からは監督を務め、2023年に開催された第44回日米大学野球選手権大会ではアメリカ開催では16年ぶり2回目の優勝に導いた。
平田 勝男(ひらた かつお、1959年7月31日 - )は、… 平田 勝男(ひらた かつお、1959年7月31日 - )は、長崎県松浦市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、プロ野球コーチ。現在は阪神タイガースで二軍監督を務めている。 松浦市今福町出身。長崎市の海星高等学校に進学し、2年生で遊撃手のレギュラーになり、打順2番を務め、1年先輩の好投手酒井圭一を擁して第58回全国高等学校野球選手権大会に出場したが、準決勝でPL学園高等学校に延長戦の末に敗れた。翌年の第49回選抜高等学校野球大会にも出場し、同大会では開会式の選手宣誓を行っている。2回戦(初戦)で、高知県立中村高等学校の山沖之彦投手に抑えられ敗退した。 卒業後は明治大学に進み、当時の野球部監督・島岡吉郎の指導を受けた。
酒井 圭一(さかい けいいち、1958年6月1日 - )は、… 酒井 圭一(さかい けいいち、1958年6月1日 - )は、長崎県壱岐市出身の元プロ野球選手(投手)、スカウト。現役時代の愛称は「サッシー」。これは当時話題となった未確認動物「ネッシー」にちなむ、怪物を意味するものだった。 長崎・海星高で、1976年の高校3年の夏には、長崎・西九州大会の予選計7試合で70奪三振、失点1の好成績をあげる。このうち2試合はノーヒットノーラン、長崎大会3回戦の島原中央高戦では初回先頭打者から16者連続奪三振を記録した。1年後輩には平田勝男がいた。 その後の第58回全国高校野球選手権大会で、長崎県勢24年ぶりの4強進出を果たす。準決勝ではPL学園高の中村誠治(早大 - 日産自動車)、米村明と投げ合い惜敗するが、同大会では5試合で被安打16、奪三振40、失点6の成績で、サッシー旋風を巻き起こした。
松尾 格(まつお いたる、1954年4月23日 - 2015… 松尾 格(まつお いたる、1954年4月23日 - 2015年12月1日)は、日本の元プロ野球選手である。長崎県島原市出身。 海星高等学校では夏の甲子園に2年連続出場。1971年の選手権は控え投手として2回戦に進むが、桐蔭学園の大塚喜代美に完封を喫する。この試合ではリリーフとして甲子園初登板を果たす。翌1972年の選手権はエースとして出場。1回戦で三重・海星高を完封するが、2回戦で明星高に敗退。 1972年ドラフト3位でロッテに入団。しかし一軍では登板機会がなく、1980年限りでロッテを退団。引退後はプロゴルファーとなる[要出典]。 178センチメートルの恵まれた体格を利して正面から打者と勝負する本格派投手であったが、立ち上がりの制球の悪さに難があった。
池辺 巌(いけべ いわお、1944年1月18日 - )は、長… 池辺 巌(いけべ いわお、1944年1月18日 - )は、長崎県長崎市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ、野球解説者。日本プロ野球OBクラブ(全国野球振興会)会員。 1979年から1986年までは池辺 豪則(いけべ たけのり)、1987年以降は池辺 巖(いけべ いわお)の登録名で活動していた。日本プロ野球OBクラブまたは日本学生野球協会の資料では、池邉 巖。このほか、池邉 巌、池邊 巌、池邊 巖と表記される場合もある。 愛称は、ガンちゃん。 1972年に日本プロ野球で制定されたダイヤモンドグラブ賞(のちにゴールデングラブ賞へ改称)第1号受賞者の一人である(パシフィック・リーグ、外野手部門)。
峰 国安(みね くにやす、1940年10月18日 - )は、… 峰 国安(みね くにやす、1940年10月18日 - )は、長崎県西彼杵郡野母崎町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 幼少期の1945年8月9日、たまたま塀に登って眺めていた「夕日のような景色」は、長崎市内に投下された原子爆弾であった。 戦後は海に沈む鉄クズを拾っては換金し、軍艦島にも上り、コンクリートだらけの廃墟で草木が一つもない異様な光景を目の当たりにした。 実家は漁師で、船乗りであった父を手伝いながら野球に没頭し、中学時代は駐留軍の米兵と草野球をしたこともあった。 海星高校では無敵のエースに成長し、2年次の1957年夏の県大会で優勝するが、西九州大会1回戦で敗れる。3年次の1958年は準決勝へ進出するが、西海学園に延長11回サヨナラ負けで甲子園出場を逃す。
柴田 多摩男(しばた たまお、1920年2月10日 - 19… 柴田 多摩男(しばた たまお、1920年2月10日 - 1944年9月17日)は、長崎県出身のプロ野球選手。 海星中学から1939年に名古屋金鯱軍へ入団。1941年に大洋軍へ移籍し、同年退団。 後に応召され、1944年9月17日に亡くなった。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。
荒木 政公(あらき まさきみ、1919年 - 没年不詳)は長… 荒木 政公(あらき まさきみ、1919年 - 没年不詳)は長崎県出身のプロ野球選手(投手)。 海星中学(現・海星中学校・高等学校)、門司鉄道管理局を経て、1939年に阪急軍に入団。海星中学時代は甲子園出場がなく、門司鉄道管理局でも九州地区決勝大会で八幡製鉄に敗れ、都市対抗野球には出場できなかったものの「九州の好投手」として知られていた。1938年には逸材として職業野球の各球団がスカウトに殺到。阪急の村上実球団代表が荒木家を訪ねた際に壁に貼られた各球団提示の契約金額を目撃し、他球団よりも高額の契約金を提示したため、阪急への入団を決意したと伝わっている。東京巨人軍も獲得を狙っており、翌1939年に入団した吉原正喜を抑えて、獲得候補№1選手にリストアップされていたのが荒木だった。