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本田 弘人(ほんだ ひろと、1898年2月17日 - 197… 本田 弘人(ほんだ ひろと、1898年2月17日 - 1978年4月10日)は、日本の教育者。官僚。 1898年、熊本県に生まれる。1916年、第五高等学校一部甲類に進学、1922年、東京帝国大学法学部卒業後、京都帝国大学文学部哲学科に入学。1925年に大学院に進学、同時に龍谷大学講師となった。1926年、福岡県女子専門学校教授、1928年に旧制静岡高等学校教授に就任。1936年に文部書記官、専門学務局学芸課長を務めた後、1945年7月、京都帝国大学事務監に転出。1949年に日本学術振興会事務局長となる。 1964年から1965年に熊本大学学長、文化財保護審議会委員、日本学術会議理事などを経て、1974年から1978年3月まで中九州短期大学の初代学長を務める。
青山 忠揚 (あおやま ただたか、1886年12月25日 -… 青山 忠揚 (あおやま ただたか、1886年12月25日 - 1938年1月17日)は、日本の華族(子爵)、教育家。青山家当主。 篠山藩藩主青山忠良の子である青山忠惇の二男として1886年(明治19年)に生まれる。はじめは「惇揚」と名乗った。第五高等学校を経て、1911年(明治44年)に東京帝国大学を卒業。佐賀県立鹿島中学校、私立大倉商業学校、奈良県立高田高等女学校、長野県立上田高等女学校などで教鞭を執った。1934年(昭和9年)に旧丹波篠山藩主・青山家を継ぎ、名を「忠揚」と改め、郷土の育英に尽力した。1935年(昭和10年)に襲爵し、子爵となった。
河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20… 河合 逸治(かわい いつじ、1886年〈明治19年〉6月20日 - 1964年〈昭和39年〉3月13日)は、大正 - 昭和期の英語学者、教育者。三大予備校の一つ、河合塾の創始者として知られる。第五高等学校、名古屋高等商業学校および名城大学・名古屋商科大学教授。 静岡県引佐郡細江町(現・浜松市浜名区)出身。第七高等学校造士館、東京帝大英文科卒後、大正3年に第五高等学校の教授となる。欧米留学からの帰国後は、名古屋高等商業学校(現・名古屋大学経済学部)教授の職に就く。 1933年には名古屋市昭和区の名古屋市立名古屋商業学校(現在は向陽高等学校が立地)前にあった自宅に「河合英学塾」を開設。1937年になり、「河合塾」へと改称した。
隈部 以忠(くまべ いちゅう、1886年5月6日 - 195… 隈部 以忠(くまべ いちゅう、1886年5月6日 - 1957年12月23日)は、日本の教育者。 隈部忠記の長男として熊本県菊池郡隈府町(現・菊池市)に生まれる。1909年第五高等学校文科を経て、1913年東京帝国大学文科大学西洋史学科を卒業。 鹿児島県立志布志中学校校長、山梨県立日川中学校校長、山梨県立甲府中学校校長、1937年8月福岡県中学修猷館校長、1941年5月京都府立京都第一中学校校長を歴任する。1946年4月京都府立京都第一中学校校長を退任。 1947年4月、学制改革により新制甲南中学校が開校すると、その初代校長に就任。翌1948年4月、新制甲南高等学校が開校すると、その校長も兼務した。
須之内 品吉(すのうち しなきち、1883年(明治16年)1… 須之内 品吉(すのうち しなきち、1883年(明治16年)11月24日 - 1965年(昭和40年)11月20日)は、日本の法学者、教育者、衆議院議員(立憲政友会)、実業家。立教大学経済学部教授・学監。弁護士。立教大学では20年以上に渡り商法の講義を講じたほか、学監や立教学院常務理事などの要職を務め、長く発展に寄与した。 愛媛県和気郡和気村(現在の松山市)出身。 1907年(明治40年)3月、旧制立教中学校卒業。1910年(明治43年)7月、旧制第五高等学校卒業。 1914年(大正3年)7月に東京帝国大学法科大学英法科を卒業。同年7月、東京市にて弁護士を開業。 1918年(大正7年)7月、東京帝国大学大学院で2カ年商法専攻を修了。
生田 鹿之丞(いくた しかのじょう、1882年〈明治15年〉… 生田 鹿之丞(いくた しかのじょう、1882年〈明治15年〉1月10日 - 1955年〈昭和30年〉6月12日)は、日本の教育者。大阪府立大手前、府立清水谷、清友学園の高等女学校3校で校長を務めた。 1882年(明治15年)島根県松江市出身。岩佐湪一の子として生まれ、1886年(明治19年)生田厚の養子となった。第五高等学校 (旧制)(現・熊本大学)卒業。1910年(明治43年)4月15日、教諭として大分県立臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)に赴任。1914年(大正3年)6月8日、愛媛県立宇和島中学校(現・愛媛県立宇和島東高等学校)の教諭。1917年1月18日、秋田県師範学校(現・秋田大学教育文化学部)の教諭となる。
乗杉 嘉壽(のりすぎ よしひさ、「乘杉」とも表記、1878年… 乗杉 嘉壽(のりすぎ よしひさ、「乘杉」とも表記、1878年11月19日 - 1947年2月1日)は、明治から昭和期の文部官僚・教育者。日本に社会教育を体系的に紹介した人物とされている。 富山県出身(出生地は東京)。礪波市出町眞壽寺壽貞の次男。兄は乗杉教存である。 1904年に東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、同大大学院に進学して実践哲学を研究するが、同年秋より文部省に招かれて普通学務局に配される。 1909年に第五高等学校教授に就任する。 1913年に文部省に復帰して督学官に就任、1917年には教育と教授法研究のためにアメリカ・イギリスに1年半留学、更にフランス・イタリアの教育事情を視察して帰国した。
秋吉 音治(あきよし おとじ、1876年(明治9年)10月 … 秋吉 音治(あきよし おとじ、1876年(明治9年)10月 - 1937年(昭和12年)7月1日)は、日本の教育者。 福岡県出身。中村芳平の四男に生まれ、秋吉格平の養子となった。第五高等学校を経て、1901年(明治34年)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。真宗京都中学校教諭、島根県立第三中学校教諭、福岡県立中学明善校教諭、福岡県立朝倉中学校校長、大阪府立市岡中学校校長、台湾総督府高等女学校校長、鹿児島県立第一中学校校長を歴任し、1921年(大正10年)から福岡高等学校校長を務めた。現職のまま死去。1937年(昭和12年)7月1日、死去。死去に際し、天皇より祭資を下賜された。同年7月7日の葬送には勅使として福岡県知事が邸宅を訪問、幣帛の下賜を受けた。
末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 … 末松 偕一郎(すえまつ かいいちろう、1875年6月18日 - 1947年6月26日)は、日本の内務官僚、政治家、教育者。官選県知事、衆議院議員、別府市長。 小倉藩医・末松玄洞の三男として生まれる。1898年、第五高等学校大学予科第一部(法科)を卒業。1902年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1901年11月、文官高等試験に合格。内務属となり内務省地方局勤務となる。 1903年12月、静岡県参事官に就任し、同県事務官・第二部長、福岡県事務官・第三部長、同第二部長、内務書記官、清国政府聘用(自治局顧問)、山梨県事務官・警察部長、法制局参事官などを歴任。 1915年3月、徳島県知事に就任。
十時 弥(ととき わたる、1874年(明治7年)6月6日 -… 十時 弥(ととき わたる、1874年(明治7年)6月6日 - 1940年(昭和15年)4月29日)は、日本の教育者。 福岡県に衆議院議員十時一郎の二男として生まれ、大叔父の養子となった。第三高等学校から第五高等学校に転じ1896年(明治29年)7月に卒業。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。学習院教授、第三高等学校教授などを務め、1922年(大正11年)、社会学研究のため欧米に留学した。1923年(大正12年)、新設の広島高等学校(現在の広島大学総合科学部)校長に就任し、1932年(昭和7年)に第五高等学校校長に転じた。
小松 倍一(こまつ ばいいち、1873年(明治6年)9月15… 小松 倍一(こまつ ばいいち、1873年(明治6年)9月15日 - 没年不詳)は、日本の教育者。 長野県東筑摩郡片丘村(現在の塩尻市)出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。岐阜県大垣中学校教諭、山口県立豊浦中学校教諭、静岡県立掛川中学校校長、石川県立金沢第一中学校校長、福岡県立中学校修猷館校長、第五高等学校教授、松江高等学校校長、第六高等学校校長、水戸高等学校校長を歴任。1931年(昭和6年)に第四高等学校校長に就任した。 1937年(昭和12年)に退官した後は、東洋高等女学校校長を務めた。
白壁 傑次郞(しらかべ けつじろう、明治4年6月2日 (旧暦… 白壁 傑次郞(しらかべ けつじろう、明治4年6月2日 (旧暦)(1871年7月19日) - 昭和27年(1952年)2月26日)は、日本の教育者、化学者。第五高等学校名誉教授。 白壁又六郎の二男として福岡県に生まれる。1891年福岡県立尋常中学修猷館、1894年第五高等学校理科を経て、1897年7月東京帝国大学理科大学化学科を卒業。第五高等学校在学中は、ラフカディオ・ハーンに英語を学んでいる。 東大卒業後、京華尋常中学校、青山学院中学部、立教中学校の教諭を経て、1900年1月陸軍教授に就任。1901年1月第五高等学校の教授に就任し、化学、自然科学を講じる。1910年九州薬学専門学校(熊本大学薬学部の前身)が設立されると、その講師も兼務し、理論化学を講じた。
山田 済斎(やまだ せいさい、慶応3年11月23日(1867… 山田 済斎(やまだ せいさい、慶応3年11月23日(1867年12月18日) - 昭和27年(1952年)11月21日)は、日本の漢学者・陽明学者・教育者。二松学舎専門学校の初代校長。二松学舎名誉学長、大東文化学院名誉教授。幼名は鎨三郎、本名は準、字は士表、済斎は号で正しくは濟齋である。 済斎と夏目漱石は同年の1867年生まれで、ともに二松学舎で三島中洲に学んだ。第五高等学校で済斎は漢文科主任、漱石は英語科主任となった。
武藤 虎太(むとう とらた、慶応3年7月7日(1867年8月… 武藤 虎太(むとう とらた、慶応3年7月7日(1867年8月6日) - 昭和9年(1934年)3月29日)は、日本の教育者。 肥後国菊池郡今村(熊本県菊池郡戸崎村、菊池町を経て現菊池市)に熊本藩士武藤一忠の長男として生まれた。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学国史科を卒業。第五高等学校教授、第二高等学校教授、同校長を務め、1920年(大正9年)より2年間欧米を視察した。1921年(大正10年)、第四高等学校校長となり、のち第五高等学校校長に転じた。 退官後は、第五高等学校名誉教授の称号を受けた。その他、維新史料編纂会委員を務めた。
浅井 栄凞(あさい えいき、安政6年10月28日(1859年… 浅井 栄凞(あさい えいき、安政6年10月28日(1859年11月22日) - 1931年(昭和6年)9月30日)は明治時代の日本の教育者。福井県福井中学校助教諭、済々黌教師、熊本英語学会主幹、文部省総務局詰、第五高等学校学寮掛、細川家家扶。五高時代に夏目漱石と同僚だった。 安政6年(1859年)10月28日肥後国熊本安巳橋通2丁目に浅井鼎泉の長男として生まれた。明治4年(1871年)3月古照軒国友昌に入門して漢学を学んだ。1875年(明治8年)熊本県立熊本中学校に入学し、普通学を学んだ。 1878年(明治11年)4月上京して箕作秋坪に入門し、英語を学んだ。1879年(明治12年)6月中村正直の同人社に転学し、1881年(明治14年)12月普通英語学科を卒業した。
清水 泰次郎(しみず やすじろう、1859年4月14日〈安政… 清水 泰次郎(しみず やすじろう、1859年4月14日〈安政6年3月12日〉 - 1926年9月2日)は、明治から大正時代に活躍した英学者、教育者。旧姓、中川。幼名、佳之助。同志社英学校(現・同志社大学)や、大阪・英和学舎(現・立教大学)を始め、多くの学校で教授を務め、第五高等学校(現:熊本大学)では夏目漱石の後任となった。英文学者として、日本英文学会を創設し、日本における英文学の発展に貢献した。 1859年(旧暦安政6年3月12日)に中川進之丞玄佳の二男として大阪市東区安土町にて生まれる。幼名を佳之助と称し、家は代々儒者にして医者を業としていた。 1870年(明治3年)、10才の頃に、当時の日本では開国の思想が大きく国内に勃興し、四民平等の精神が発展していく最中、その主旨に感動し、籍を平民に移すことを決心し、その年の12月に清水姓となり、名を泰次郎と改めた。
櫻井 房記(さくらい ふさき、1852年9月28日(嘉永5年… 櫻井 房記(さくらい ふさき、1852年9月28日(嘉永5年8月15日) - 1928年(昭和3年)12月12日)は、明治から昭和初期にかけての日本の教育者。 学位制度草創期の理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)初代所長、第五高等学校第5代校長。 1852年9月28日(嘉永5年8月15日)、櫻井甚太郎・八百夫妻の長男として加賀国加賀藩金沢馬場一蕃丁に生まれる。父・甚太郎は先妻との間に2人の男子がおり、2人の異母兄を含めれば房記は甚太郎の三男にあたる。母・八百は甚太郎の後妻。1869年(明治2年)、藩費生として開成学校(後の大学南校、現・東京大学)に入学。1870年(明治3年)、大学南校で貢進生に選ばれる。
中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12… 中川 元(なかがわ はじめ、1852年1月7日(嘉永4年12月16日) - 1913年9月28日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)、第五高等学校(熊本大学の前身の一つ)、第二高等学校(東北大学の前身の一つ)、仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身の一つ)の校長を歴任した。旧名・孫一郎、号は槐陰。 信濃国飯田城下に信濃飯田藩士中川逸山の長男として生まれる。1871年藩の貢進生に選ばれ大学南校に進み、フランス語を学ぶ。文部省より出向の同校職員九鬼隆一と知遇を得る。1874年文部省に出仕し、外国語学校教授に任じらた。1878年1月にフランスに留学を命じられる。