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冨倉 徳次郎(とみくら とくじろう、1900年3月8日 - … 冨倉 徳次郎(とみくら とくじろう、1900年3月8日 - 1986年5月26日)は、日本の国文学者、博士。駒澤大学名誉教授。専門は中世文学。 東京生まれ。第二高等学校理科から東京帝国大学理学部を経て、1926年(大正15年)3月に京都帝国大学文学部国文科を卒業。京都女子専門学校教授を命ぜられるが、軍隊に服する。 京大時代は講師として立命館中学に赴任。生徒の一人に中原中也がいた。あるとき、中也が答案の代わりに詩を書いて提出したことがきっかけで彼との交友が始まった。友人富永太郎を中也に引き合わせたことでも知られる。 1952年、駒澤大学に着任し教授。のち国文学科主任、大学院国文専攻主任をつとめる。
飯野 哲二(いいの てつじ、1891年3月9日 - 1971… 飯野 哲二(いいの てつじ、1891年3月9日 - 1971年1月3日)は、昭和期の日本の国文学者。松尾芭蕉の研究で知られる。 栃木県芳賀郡二宮町(現・真岡市)出身。第二高等学校を経て、1921年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。 卒業後は鉄道省勤務、東京府立第一商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)教諭といった職に就く。1925年に東京帝大大学院に入ったが、修了を待たずに1926年より再度教職に戻り、熊本県女子師範学校と、熊本県立第二高等女学校(熊本県立第一高等学校の前身の一つ)を兼任した。 1928年、宮城県女子専門学校(戦後、新制東北大学に統合)教授に就任する。松尾芭蕉の研究は、この時期に『奥の細道』の講義を仙台放送局の依頼でおこなったことに始まった。
橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月… 橘 純一(たちばな じゅんいち、1884年(明治17年)2月25日 - 1954年(昭和29年)1月19日)は、国文学者。 東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座)生まれ。児島喜三郎の五男。橘守部直系の家へ養子に入る。第二高等学校、1909年東京帝国大学文学部国文科卒。同助手、13年府立第五中学校教諭、21年『橘守部全集』を編集刊行。25年退職、各学校講師をしながら著述生活。36年国語解釈学会を創立、雑誌『国語解釈』を創刊。41年陸軍士官学校教官、50年跡見学園短期大学教授。没後、二松学舎大学名誉教授の称号を追贈。 1938年、小学校教科書に掲載された『源氏物語』について、不敬の書であるから削除すべしと主張した。
一戸 直蔵(いちのへ なおぞう、1878年8月14日 - 1… 一戸 直蔵(いちのへ なおぞう、1878年8月14日 - 1920年11月26日)は、日本の天文学者・科学ジャーナリスト。日本で最初の変光星の観測者・研究者。ジャーナリストとしては『現代之科学』を創刊し、反アカデミズムの立場をとったことでも知られる。 青森県西津軽郡越水村吹原(現・つがる市)出身。学問を許さなかった父の理解を得られず、家出し、紆余曲折の後、東奥義塾などを経て旧制第二高等学校に進学。仕送りが途絶えたため、一時郷里で教員をし、1903年東京帝国大学理科大学星学科を卒業。その後東大大学院に進学して天文学を研究したが、私設天文台の建設を自らの使命とし、1905年私費で渡米しシカゴ大学ヤーキス天文台に入った。
皆川 正禧(みなかわ まさき、1877年(明治10年) - … 皆川 正禧(みなかわ まさき、1877年(明治10年) - 1949年(昭和24年))は、日本の英文学者、翻訳家、教育者。雅号は真拆。 1877年(明治10年)、福島県会津(現在は新潟県東蒲原郡阿賀町)に生まれた。皆川家は、土地の旧家で総鎮守西村八幡宮の神宮を務めていた大地主であったという。 1900年(明治33年)、第二高等学校を卒業し、東京帝国大学英文学科に入学。 在学中、小泉八雲の講義を2年半受けた。正禧が八雲の講義を筆記したノートが10冊残されており、1904年(明治37年)11月の『帝国文学』で追悼特集(八雲は9月に逝去)が組まれたとき、正禧は「蓬莱」という追悼文を寄せている。 1903年(明治36年)、最上級生のとき、八雲の後任として夏目漱石が赴任し、卒業までの3ヶ月間、「文学の一般概念」という講義を受けた。