神畑 重三(かみはた しげぞう、1926年 - 2017年1… 神畑 重三(かみはた しげぞう、1926年 - 2017年12月25日)は、日本の実業家。カミハタ養魚グループの創業者である。神畑養魚株式会社、株式会社キョーリンのCEOを務めた。探検家としても知られる。 1926年、兵庫県姫路市に生まれる。1949年、明治大学卒業後、兵庫県庁に勤めるが、3日で退職。家業であった食用鯉の養殖業を継ぐ。食文化の変遷から食用鯉に未来がないと判断、観賞魚である錦鯉に目をつけ業態を変換する。1961年に神畑養魚株式会社を設立後は、錦鯉の養殖から熱帯魚の輸入卸にシフトしていく。1968年に観賞魚飼料の商社である株式会社キョーリンを設立。1979年に工場部門としてキョーリンフード工業株式会社を立ち上げ、一代でカミハタ養魚グループを築き上げる。
敷田禮二(しきだ れいじ、1926年 - 1993年6月3日… 敷田禮二(しきだ れいじ、1926年 - 1993年6月3日)は、日本の経営学者。 石川県出身。1950年立教大学経済学部卒、1958年同大学院博士課程単位取得退学。1952年立教大学経済学部助手、1956年講師、1959年助教授、1966年教授となる。1983年「管理会計批判 戦後日米資本主義史と蓄積手段」で経済学博士。1992年定年、名誉教授。66歳で死去。
勝 忠男(かつ ただお、1926年 - 2006年7月17日… 勝 忠男(かつ ただお、1926年 - 2006年7月17日)は、大阪市を本拠とする芸能事務所大手の松竹芸能創業者の一人で元会長・社長。興行師・芸能プロモーター。大阪府出身。 1947年、立命館大学法学部卒業後、大手映画会社・松竹創業者の一人である白井松次郎が経営する千土地興行(のちの日本ドリーム観光)に入社。戎橋松竹の支配人などを経て、1954年に千土地興行を退社。 その後、芸人を斡旋する芸能事務所新生プロダクションを主宰。1958年、もう一人の松竹創業者である白井の実弟・大谷竹次郎を担ぎ出し、秋田實と藤井康民が興し自らも関係していた上方演芸との合流を果たして、松竹芸能の前身松竹新演芸を設立した(1962年に松竹芸能に社名変更)。
倉本 寛司(くらもと かんじ、1926年 - 2004年10… 倉本 寛司(くらもと かんじ、1926年 - 2004年10月4日)は在アメリカ被爆者協会名誉会長。ハワイ・ホノルル出身。 祖父の代で広島県からハワイに移民する。5歳で祖父の看病のために家族で日本に渡り、日本で育つ。立命館大学専門部工学科卒業、カリフォルニア大学中退。 1945年8月6日、山口県光市の海軍工廠で仕事をしていたが、父親のいた広島市に新型爆弾(原爆)が投下されたのを聞き、翌日広島入りし地獄絵の中、1ヶ月父を捜すが見つからなかった。広島市の復興局で働いたが、父を失い生活は苦しいものだった。 アメリカ国籍を保有していたため、1948年再びアメリカに渡り、カリフォルニア州道路局に勤務。アメリカには広島や長崎で被爆した日系人が多数いたが、被爆者相互の交流はほとんどなかった。
鹿島 曻(かしま のぼる、1926年 - 2001年4月24… 鹿島 曻(かしま のぼる、1926年 - 2001年4月24日)は、日本の弁護士、在野の歴史家。 1926年に神奈川県横浜市に弁護士を父として生まれる。早稲田大学法学部在学中に司法試験に合格し自身も弁護士になる。弁護士業の傍ら、古代東アジア史、日本史の研究を進めて、独自の史観を展開し、多数の著作を発表した。鹿島の著作の「明治天皇すり替え」説は、インターネットで「田布施システム」と呼ばれる陰謀論のネタ元のひとつである。 出版社「新国民社」を創設し、自著の多くも同社から出版したが、その事業は2007年に、太田龍を代表とする新国民出版社に引き継がれた。 鹿島が展開した独自の史観の例としては以下のようなものがある 鹿島や鬼塚英昭が主張した明治天皇すり替え説の陰謀論は、インターネットで肉付けされ、日本を動かしているのは永田町でも霞が関でもなく、山口県の田舎町の田布施町であるという陰謀論「田布施システム」となった。
鈴木 ヨチ(すずき ヨチ、1926年〈大正15年〉 - 20… 鈴木 ヨチ(すずき ヨチ、1926年〈大正15年〉 - 2009年〈平成21年〉7月4日)は、日本のアイヌ文化伝承者。長年にわたって北海道ウタリ協会(現・北海道アイヌ協会)の理事を務めて、解散寸前だった同協会苫小牧支部の再建に努めた他、アイヌ文化の伝承、アイヌへの差別解消などの活動にも尽力した。 北海道鶴居村のアイヌの家庭で誕生した。当時は明治政府の同化政策によるアイヌへの差別の影響が強かった時代であり、尋常小学校高等科では、アイヌであることをからかわれたり、他の生徒にボールをぶつけられたりして、登校拒否になることもあった。ある教師が差別を否定して生徒たちを諭したことで、いじめは少なくなった。この教師は生徒たちに「アイヌも人間だ」と説き、この教えがヨチにとって、後年の生きる支えとなった。
中嶋 豊蔵(なかじま とよぞう、1926年 - 1945年6… 中嶋 豊蔵(なかじま とよぞう、1926年 - 1945年6月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。1945年6月3日に第48振武隊隊員として、沖縄方面にて特攻戦死、享年19歳。 愛知県豊橋市の農家に生まれる。家が貧しかったことから、15歳の時に両親の承諾を経て、陸軍少年飛行兵を受験し、これに合格。少年飛行兵第12期生として大刀洗飛行学校に入校。入校間の給与は、その殆どを故郷の両親に宛てて送金している。昭和19年10月、内地から台湾に渡る途中、同僚で親友だった松本真太治(またじ)軍曹と共に、のちに陸軍最大の特攻隊出撃地となる知覧飛行場に立ち寄り、10日間そこに滞在している。この時、中嶋軍曹たちが食事をしていた所が富屋食堂で、そこの主人が鳥浜トメだった。
奥山 章(おくやま あきら、1926年(大正15年) - 1… 奥山 章(おくやま あきら、1926年(大正15年) - 1972年(昭和47年)7月2日)は、日本の登山家。山岳映像作家。 現在の東京都文京区小石川の生まれ。小学校卒業後、給仕として東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)に勤め、夜間の工業高校を卒業する。第二次大戦中に、海外の山岳書を読み耽り、丹沢山・谷川岳に通う。そこで、安川茂雄(早稲田大学予科在学中)に出会う。終戦後、山岳雑誌『岳人』に、先鋭的なアルピニズム論を展開する投稿を重ね、戦後の山岳界の進むべき方向性を主導するオピニオン・リーダーとなる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。