千田 善(ちだ ぜん、1958年10月10日 - )は、日本… 千田 善(ちだ ぜん、1958年10月10日 - )は、日本の国際ジャーナリスト、通訳・翻訳者(セルビア・クロアチア語など)、政治学者。元日本共産党中央機関紙特派員。 元・サッカー日本代表監督イビチャ・オシムの通訳を務めたことで知られる。 岩手県胆沢郡胆沢町(現・奥州市)出身。胆沢町立南都田中学校(現・奥州市立胆沢中学校)、岩手県立水沢高等学校、東京大学教育学部卒業。ベオグラード大学政治学部大学院修士課程国際政治専攻中退。専門は国際政治、民族紛争、異文化コミュニケーション、サッカーなど。 しんぶん赤旗特派員として、ベオグラード(セルビア)、リュブリャナ(スロベニア)を合わせてユーゴスラビアでの生活を10年近く送る。
門脇 和男(かどわき かずお、1952年 - )は、日本の物… 門脇 和男(かどわき かずお、1952年 - )は、日本の物理学者、筑波大学大学院教授。特に超伝導の研究で知られている。 低温物理学、特に超伝導研究(実験)、超伝導ナノテクノロジー、新超伝導物質の開拓、高品質単結晶の育成など 「強い電子相関を持つ電子磁性材料の基礎研究」研究リーダー (平成8年度〜12年度)「極限環境状態に於ける現象」研究リーダー 「超伝導ナノサイエンスと応用」拠点リーダー (平成14年度〜平成18年度)研究拠点リーダー 「超伝導固有ジョセフソン接合によるテラヘルツ波の発振と応用」 「超伝導による連続THz波の発振と応用」研究リーダー 「国際ナノアーキテクトニクス研究拠点(MANA)」(物質・材料研究機構)主任研究者(PI)
菊地正幸(きくち まさゆき、1948年1月19日 - 200… 菊地正幸(きくち まさゆき、1948年1月19日 - 2003年10月18日)は、日本の地震学者・地球科学者である。特にリアルタイムでの震源解析に努めた。 1970年代にはコンピュータを使用した地震のシミュレーションを調査した。1980年代以降は地震の初期破壊過程の研究を行い、金森博雄らと震源の解析方法を確立した。また、世界の主要な地震について発生直後に解析しインターネット上でそれを公開した。これらは「菊地解」と称され、震源解析の研究の基盤を確立した[要出典]。また、地震発生直後に地震の実態を把握に焦点を当て、インターネットの普及に伴い地震研究のリアルタイム化を推進した。その後の緊急地震速報の研究・開発にも寄与した。
鷹觜 テル(たかのはし テル、1921年3月7日 - 200… 鷹觜 テル(たかのはし テル、1921年3月7日 - 2000年3月24日)は、日本の栄養学者。岩手大学で初の女性助教授となった研究者で栄養学研究に生涯を捧げ、後年は「長寿村」研究をし「健康長寿の秘訣は雑穀を中心とする日本型食事」の実践的解明。医学博士。岩手大学名誉教授。 岩手県江刺郡田原村(のち江刺郡江刺町→江刺市、現在の岩手県奥州市江刺)に生まれ、岩谷堂高等女学校(現在の岩手県立岩谷堂高等学校)を経て、岩手女子師範学校卒業。卒業後は愛宕小、仁王小、盛岡高等女学校(現在の岩手県立盛岡第二高等学校)各教諭を経て、岩手大学の前身のひとつである岩手師範学校女子部の教員となり、新制大学移行後に岩手大学で初の女性助教授となった。
森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984… 森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984年5月5日)は、日本の美術史家・美術評論家、民俗学者。本名は多利(たり)。 岩手県胆沢郡水沢町大町(現:奥州市)にて金物商を営む父森口伊三郎、母カネヨの次男として生まれる。一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て、1910年(明治43年)に早稲田大学文学部予科に入学。在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される。また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人となる。1914年に早稲田大学文学部英文科を卒業した。卒業後は美術評論活動を行い、『ミレー評伝(ロマン・ロラン著)』の翻訳や『恐怖のムンク』といった評論文を執筆した。森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で50冊余の書作を世に送り出している。
小野寺 直助(おのでら なおすけ、1883年5月31日 - … 小野寺 直助(おのでら なおすけ、1883年5月31日 - 1968年11月3日)は、日本の医学者、内科医。岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)出身。小野寺式圧診法の考案者。 旧制盛岡中学校、第一高等学校を経て、京都帝国大学福岡医科大学(九州大学医学部の前身)卒業。30歳の若さで九州帝国大学教授に就任。消化器研究に尽力し、特に胃運動曲線照射法で恩賜金記念賞を授与される。「胃運動曲線に関する研究」「圧診法に関する研究」は医学会不滅の業績とされる。 1943年(昭和18年)に退官後は、満州国にわたり新京特別市立第一病院長に就任。1945年(昭和20年)8月19日、第二次世界大戦終結後の混乱の中、新たに発足した新京日本人会の会長に就任。